【投稿】震災の被災地 宮城県を訪ねて(1) 

【投稿】震災の被災地 宮城県を訪ねて(1) 

 昨年3月11日、東北地方をM9.0の大地震による大津波が襲った。さらに、福島原発事故により、深刻で長期に渡る放射能汚染が追い討ちをかけた。あれから1年2ヶ月が経過した。テレビ報道では、繰り返し津波被災の映像が流されてきた。私も、公務員として、一個人として、是非震災復興への手助けをしたいと、職場からの派遣の際にも、手を挙げてきたが果たせず、これまで、被災地を訪れる機会がなかった。
 1年を迎えるころから、被災地に行くべしとの思いが強くなって行った。東北から遠く離れた関西から、今回、宮城県の石巻市・南三陸町・そして気仙沼市を訪ねることにした。5月の連休を利用して、マイカーで全走行距離2400Kmの旅となったが、その報告をしてみたい。


(南三陸町の防災庁舎瓦礫の山と建物基礎のコンクリート)

 初日に夜大阪を出発し、北陸道・磐越道・東北自動車道を通り、翌日昼には石巻市に入る。石巻は海岸部を中心に大きな津波被害を受けているが、内陸部では、比較的「普段の生活」が感じられた。もちろん、そこここに瓦礫の集積場や、仮設住宅が点在している。この日は、徹夜走行の疲れもあり、宿泊地の南三陸町への道を急いだ。
 北上川沿いの道路から横山峠を越えて、南三陸町の海岸部が見えてきた途端、風景が一変する。建物らしい建物は、公立志津川病院とスーパー、3階まで襲った津波の傷跡を残す小学校か、骨組みだけの建物跡。戸建て住宅と思えるものは、ほとんどなく、コンクリートの基礎枠だけが、残っている。
 私には復興と言えるものを見つけることができなかった。ユーチューブの画像などを見ると震災直後は、押し流された建物の残骸や、魚網などの漁業関連の物が町を埋め尽くしていたようだが、さすがに、それらは整理され、数箇所に集められてはいたが。
 
 「さんさカフェ」を訪ねて
 南三陸町にある県立志津川高校と志津川中学校は比較的高台にあったため、間近に津波が押し寄せたが、建物は被害をまぬかれ、被災後避難所となった。この志津川高校の避難所に炊き出しボランティア活動をしてきた私の友人、支援グループと現地の方が、設立したのが、共同食堂としての「さんさカフェ」である。ちょうど、志津川高校への入り口近くに今年の1月末にオープンしている。瓦礫と荒涼と広がる被災地にあって、唯一のホッとする場所であった。コーヒーをいただき、高台移転事業や、ボランティア活動、津波が来た時の話を聞いた。
 NHKの番組で、南三陸町での高台移転事業の特集番組があった。最終的に全額国庫補助事業となるのだが、いろいろな問題で、今年2月の時点では、中々進んでいない、という内容だった。聞いた話では、何とか4月以降には予算の確保もできて、4月を待って動き出した感じがあるということで、数箇所で事業の具体化が進んでいるとのことだった。

堤防から破壊されたままの水門を見る。 内陸部に点在する仮設住宅

南三陸町の入り口に、コンビにが出来ていたが、貴重な物資購入の拠点となっているようだった。日用品から食料を被災地の住民に提供しており、賑わっていた。災害時の物流に貢献しているな、という印象であった。
 この日の宿は、岬のキャンプ場を確保し、とにかく長期ドライブの疲れを取ることにした。そこへの道すがらも、放置されている軽自動車や、内陸まで運ばれたままの漁船、破壊された堤防、舗装道路など、震災から1年が過ぎているとは思えない風景が続いた。
 漁港には、高さ5メートルはあろうかという瓦礫の山があり、仮設テントのような漁協建物が作られ、漁業再建の動きが始まっているようにも見えた。岬の高台にあるキャンプ場だったので、津波被害はなかったようで、震災前の観光マップが管理棟に置かれてあったのが印象に残っている。以後3日をこの地で過ごすことになるが、ここ以外では、見ることができなかったからである。
 翌日は、気仙沼を目指すことになる。(佐野) 

 【出典】 アサート No.414 2012年5月26日

カテゴリー: 災害 パーマリンク