【本の紹介】『我、知事に敗れたり 二〇〇九年九月 堺市長選』
木原敬介著 2010年5月20日発行 論創社 1500円+税
(その2)
民主主義を冒涜する橋下知事のファシズム的独裁的手法を徹底批判
<<ファシズム的扇情・扇動型選挙の実態>>
本書の題名が良くない、手にしたときそう感じさせるものがあった。「知事に敗れたり」では、いかにも後ろ向き、消極的であり、諦めと詠嘆に流され、ことの本質が見逃されてしまうのではないか、との危惧がもたれた。しかし読み進むと、昨年九月に行われた堺市長選は、現職の堺市長であった著者が対立候補と闘って敗れたのではなく、マスコミとメディアを徹底的に利用して嘘とでたらめ、デマゴギーで選挙民をたぶらかし、無責任にかき回す橋下徹・大阪府知事との闘いであったこと、それがいかに予想外、理不尽であったとしても、あまり関心のなかった有権者をまで投票に動員し、その先頭に立つ大阪府知事との闘いに敗れた、その選挙の実態と、民主主義を冒涜するファシズム的な危険な様相が詳細に明らかにされ、「知事に敗れたり」という著者の実感が浮かび上がってくる。その具体的で時系列に沿った、橋下徹という特異な大阪府知事の公権力を行使した、政令指定都市市長選挙への直接的介入の実態は、憤懣やるかたないはずの著者が、冷静かつ分析的に叙述しているだけに、このような選挙のあり方、それと対抗する闘いのあり方に多くの貴重な教訓と反省を与えてくれる。
堺市長選告示後、投票日まで14日間のうち、橋下知事が堺市に乗り込み、直接指揮し、応援演説をする日数は実に9日間に及ぶ、異常な力の入れよう、直接的介入である。さらに橋下知事が主導する「首長連合」には、中田宏・前横浜市長、山田宏・東京都杉並区長らと会談、橋下知事が送り込んだ刺客候補の推薦・支援を決定させ、テレビ、新聞などマスメディアを総動員させ、駅前、繁華街でぶちまくる、小泉流の劇場型選挙を展開、朝日新聞9/23付けは「首長連合 堺へ布陣 きのう松山市長、きょうは名古屋市長」などと各紙に大々的に報道させ、その応援演説で橋下知事は「堺市には太った馬がいる。何もしないで市役所で寝ているだけの馬がいる。そんな馬には、もっとムチを入れて速く走るようにしなければなりません。皆さん、この堺からNOを突きつけましょう!」などと揶揄、中傷する薄汚いお得意の扇情・扇動演説を徹底して繰り返す手法である。
そして刺客候補自身は、事実誤認を承知しながら現職候補を貶める、明らかな嘘をばらまく手法である。「堺市に、喝を入れます。私が一番問題だと思ったのは、5月17,18日の未明、舛添厚生労働大臣と橋下知事が、午前二時に電話で会談し、中学校、高校の休校を決めた。そのときに堺市に伝えようと思ったのに、伝わらなかった。対策本部を開いていないから。こういった緊張感、どうですか。新型インフルエンザ対策で何もしてこなかった。私は。この事実を見てびっくりしました。」などというまったくの嘘、でたらめ演説を繰り返すデマゴギー手法である。事実は、すでに堺市では4/18に対策本部を設置、以降24時間体制に入り、問題の5/18の休校については事前に堺市への連絡はまったくなく、逆に堺市側から大阪府危機管理室、厚生労働省に問い合わせをしていたもので、後日(7/10)、当日の情報伝達の問題点について大阪府知事は自身の判断や対応に伴う当日の混乱発生について陳謝していたものである。それでもあえて嘘をばらまく、その手法が、市長当選後の臨時市議会で追及され、「新型インフルエンザ対策については、大阪府の担当職員に確認したところ、私の思い違いであり、内心忸怩たるところですが、あくまで堺市民の安全と安心の実現のために発した言葉です。ご理解いただきたい」と、当選してしまえばそんなことはどうでもよいといった逃げの答弁である。こんなことがおおっぴらにまかり通り、発言の責任さえ取らない、民主主義と選挙への冒涜といえよう。
<<一過性の勝利>>
問題の本質は、それでもこうしたファシスト的な手法がまかり通る、昨今の政治経済情勢の混迷を反映した、人々の不満の鬱積、国、都道府県、地方自治体レベル全般の政治と行政に民意が正しく反映されていない、という間接民主主義には不可避的でもあるいらだちや反感、これらを橋下知事に代表される煽動型ポピュリストたちが、煽り立て、組織していることである。
その際、いかにも我こそが解決して見せるという、独裁的手法によって、首長の直接選挙という、擬似的な直接民主主義を通じて実現できるかのように大衆に訴えかける。しかし彼らは大衆には一回限りの投票への参加しか期待も、それ以上の評価もしておらず、決して大衆をその直接民主主義に継続的系統的に参加させる意図などもうとう持ち合わせてはいない。反感と憎悪、熱狂を組織すれども、民主主義的な大衆参加など決して組織しない。彼らはつまるところ、不満と反感の対象を、役人・官僚嫌いから組織し、官僚機構、公的諸機関、社会的文化的経済的公的資産、セーフティネットにいたるまでを攻撃し、縮小と破壊の対象にするところへと集約させる。しかもその際に危険なのは、独裁的権力の集中にこそ解決の道があるかのように事態をすり替え、この独裁制を脅かすような制度、組織、運動などを徹底して排斥し、差別と選別を持ち込み、朝鮮高校の無償化対象からの除外など、民族的排外主義をさえ公然と口にし、それを煽り立てることである。彼らにとっては、「大阪都」や「道州制」も、独裁的権力集中への道具立てにしか過ぎない。
堺市長選挙は、こうした典型的な煽動型ポピュリストの直接的な介入による選挙戦となり、現職市長の積極的な成果をすべて切り捨てることによって、嘘と中傷、デマによって彼らに勝利をもたらした。しかしその本質からして、その勝利は一過性のものにしか過ぎない。反感と憎悪を煽り立てたが、政策的中身は皆無に等しい。自治都市・堺の歴史的伝統と能動性を回復し、市民や市民組織が政策決定とその過程に参加できる仕組み、独裁制とは無縁な民主的政治を再生させる改革こそが問われているのではないだろうか。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.390 2010年5月29日