【本の紹介】『赤いゲッベルス - ミュンツェンベルクとその時代』
著者 星乃治彦
発行 岩波書店 2009年12月22日 2,800円+税
<<ヴィリー・ミュンツェンベルク>>
ゲッベルスといえば、ヒトラーのナチス政権初代宣伝担当相(1933年3月~)として辣腕をふるい、「嘘も百篇繰り返せば真実になる」、「ユダヤ人を絶滅させることが我々の目標である」と豪語し、反ナチ派の書籍を次々と押収し、広場に集めさせて焼き払い(焚書、33年5月)、「プロパガンダの天才」といわれた人物である。
一方、ディミトロフといえば、同じ1933年2月のドイツ国会議事堂放火事件の被告とされ、ゲッベルスのプロパガンダに対抗し、そのフレームアップを徹底的に暴露し、ナチスの法廷の場で検察を論破し、翌年、無罪釈放され、1935年、コミンテルン書記長となる。そしてディミトロフという名前を聞くと、真っ先に想起されるのは、彼の「反ファッショ統一戦線」であろう。それは、共産主義者の国際組織であったコミンテルンの書記長として、1935年に開かれたコミンテルン第七回大会での、それまでの共産主義者のセクト主義的で排他的、独善的で公式主義的な路線の誤りを鋭く指摘し、意見の相違を前提とした多様で広範な、相互尊重と民主主義に基づいた運動の構築、共同行動の拡大、ファシズムとのその政治体制を許さない闘いのためには、そのような統一戦線の形成こそが要請されているという、またそうした統一戦線政府の可能性をも探る、それまでの路線からすれば根本的な路線転換を提起した報告で、全世界に平和と民主主義と社会主義への希望と期待を抱かせた人物であった。
そしてこのディミトロフをここまで押し上げ、統一戦線、人民戦線を単なる戦術ではなく、ファシスト以外のあらゆる人々の戦略的な共通の課題、獲得すべき目標にまで高め、その組織化の中心を担い、その先頭に立ってきたのが、ここに紹介されているヴィリー・ミュンツェンベルクであった。だがこうした事実については、日本ではほとんど知られていないし、その詳細が明らかにされるのは初めてではないだろうか。
<<「できるだけ超党派的印象」>>
著者が指摘するように、「一般にヴァイマル共和国末期のナチスの急成長は注目されるが、自由選挙の下で、ナチスの勢力が頂点を極めた一九三二年七月の選挙でも、得票率は四割に満たず、左翼の社会民主党と共産党をあわせた方がナチスを凌駕し、ナチス体制下でもはや正常な選挙とは言えない一九三三年三月の選挙においても、ナチスと二つの労働者政党は拮抗していた。ただ問題はこの二つの労働者政党が犬猿の仲だということであった。」という事実の重みが、あらためて問われている。
国会議事堂放火事件直前の、1932年11月の国会選挙ではナチスは200万票減らし、逆に共産党は100議席を獲得するまでに前進していた。そのような状況の下で1933年1月30日、ドイツ大統領ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に任命、ナチスはただちに国会内で多数派を形成すべく、議会を解散し、3月5日に国会選挙が行われることになっていた。しかし、この選挙でも、ドイツ共産党の前進が予測されていた。
そうした最中の1933年2月27日の午後9時15分頃、「ベルリンの中心部でひときわ偉容を誇っていたネオ・バロックスタイルの国会議事堂から火の手があがった。すでに警戒体制にあった警察は、国会議事堂炎上の知らせが入ると、「共産主義者の仕業」として、機敏に午後一〇時一六分に「非常警戒体制」に入り、作戦の実行に入った。翌二八日には一万一五〇〇人の共産主義活動家をはじめ社会民主党員、民主主義者が逮捕された。国会炎上事件はまさに、ナチス化を意味する「強制的同質化」の始まりののろしであった。」
3月3日にはドイツ共産党議長テールマンが、そして3月9日には、ディミトロフが逮持され、ヴィリー・ミュンツェンベルクも共産党の国会議員として、放火事件当日、選挙演説の最中、間一髪で逮捕を逃れたのであった。
ヴィリーは直ちに反撃を開始し、「ヴィリーが関与した組織の中でも特筆すべきは『ドイツ・ファシズムの犠牲者世界救援委員会』は、欧米各地に支部をおき、どの国でも、国際的名士をずらりそのメンバーに並べた。救援委員会の会長はアインシュタインだったし、労働党イギリス上院副議長マーレイも参加するなど、「世界救援委員会は、方法と機能という点において、国際労働者救援会の後継団体」とも言うべきものであった。そしてそうした広範な裾野を有したこの組織が「短期間のうちに西ヨーロッパにおける反ファシズム宣伝の中核になった」のも不思議ではない。」
「ヴィリーの旺盛な反ファシズム活動は、一九三三年四月二二日付のナチスのスパイ報告でも、「熱狂的に」ファシズムに反対する政治宣伝が用意されているが、「その中心は依然としてヴィリー、パルビュス、ロマン・ローランを囲むサークル」で、ヴイリーは「またしても」こうした活動に「できるだけ超党派的印象を与えようとして」おり、ヴィリーはその際「政治的党指導部から離れて」活動していると報告されているほどであった。」
<<レーニンとのコンタクト>>
ヴィリー・ミュンツェンベルクとは、どういう人物であったか。著者によれば、
「第一次大戦中彼は、急進的青年連動の指導者としてスイス亡命中にレーニンと行動をともにした。大戦直後一九一九年一一月には、共産主義青年運動の指導者として、第一回青年インターナショナルをベルリンで開催した。その後一九二一年四月の第二回大会もドイツのイェーナで開会だけはされたものの、警官隊の知るところとなり中止せざるをえなくなった。
しかしその後一九二一年七月、彼には新しい任務が与えられた。レーニンの要請もあって、「飢えたソヴイエト・ロシアを救え」のスローガンとともに、国際労働者救援会を設立することになったのである。ここでいう国際労働者救援会とは、ロシア救援活動から始まり、各国の救援活動を展開し、天災の際はもちろん、労働者のストライキや反帝運動の支援など多様なヒューマンな活動を展開した組織だった。その設立者でありかつ指導者だったのがヴイリーなのである。彼は、全世界に国際労働者救援会の組織を拡大し、ヒューマニズムの組織化を促進していった。日本にも、国際労働者救援会を通して、関東大震災の時に救援物資が届けられた。」
「ミュンツェンベルクはレーニンから政治的教育を受けたのみならず、クララ・ツエトキン、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクからも影響を受けたのである。ミュンツェンベルクは古典的ヨーロッパ労働運動の民主的伝統をいわば、『母乳とともに吸った』のである」。
「青年期のヴィリーに決定的な影響を与えたのはレーニンであったが、そのレーニンとは一九一五年の春にべルンで知り合っている。
徹底した平和主義者であったヴイリーをはじめとする青年運動の指導者たちは、「戦争を内乱へ」というレーニンの主張は突飛に感じつつも、戦争遂行に傾斜する第二インターの指導者たちに対するレーニンの容赦ない攻撃は、攻撃的で急進的なスイスの若い感性を魅了した。
レーニンの主張が青年たちを惹きつけたもう一つの理由は、レーニンが青年運動の独自性を認めたからであった。第二インターに結集する社会民主主義勢力は、青年運動の重要性やポテンシャルは認めつつも、それが制御不能に陥るのではないかと常に恐れ、単なる妨害勢力としてしか見なしてこなかった。これに対してレーニンは、一九一六年一二月二日号の『社会民主主義者』でも、「完全な自立なくして青年は良き社会民主主義者になることができないし、社会主義を前進させようとすることもできない」と主張していた。こうした主張は青年活動家の耳には魅力的であったに違いない」。
<<関東大震災被災者に救援物資>>
ヴイリーの活動スタイルには、当初から一貫したものがあった。「飢えたソヴイエト・ロシアを救え」の国際労働者救援会の組織化においても、「まず、二一年八月一二日に「ロシアで飢える人たちのための労働者救援組織化外国委員会」を作るためのアピールが発せられた。その呼びかけ対象は、コミンテルンだけではなく、敵対する第二インターなど他の労働者組織にも広がる超党派的なものであった。コミンテルンでは、レーニンを中心にその参加条件をめぐってむしろ第二インター的なものとの断絶が求められていた時であったにもかかわらずである。当時激しさを増していた労働者組織間の対立をうめるものとして、ヴィリーが期待したのが文化人であった。八月一二日のアピールに賛同したそれら文化人とは、アインシュタイン(物理学者)、ケーテ・コルヴィッツ(画家)、グロース(画家)、バーナード・ショウ(哲学者)、アナトール・フランス(作家)、バリュブス(作家)など、国をまたいだ、そうそうたる顔ぶれであった。
実は当時、指導者たちの対立をよそに、一般の労働者の間では、共産主義系労働者だけではなく、社会民主党系労働者の間でも、ロシアへの共鳴は弱くはなかった。実際に、労働組合の救援活動も盛んで、第二インターも「労働者諸君、ソヴイエト・ロシアを救おう!ソヴイエト・ロシアの没落はヨーロッパの不幸である」と呼びかけた。たしかに、彼らはヴイリーの組織に直接的に参加するのではなく、独自組織を通じて救援活動を展開し、ヴィリーがイメージしたような、労働者組織が一致してロシアを救うという、後の統一戦線的発想こそ達せられなかったが、ヴィリーは既にこの時から、そうした方向性を発揮していた。」
「一九二三年の九月、ヴィリーがロシアに渡り、クレムリン宮殿の中で、ソヴイエト・ロシアの労働組合の指導部と会談した時、日本では九月一日に大地震があり、日本の労働組合員が国際労働者救援会に救援を求めてきているということであった。ロシア人と共にヴィリーは多額の救援金を集め、救援船を日本に送った。しかし、日本の当局はこの船の寄港を認めなかった。地震の被災者には救援物資だけではなく、共産主義の宣伝材料が広まると恐れたためであろう。ただ、救援物資を積んだ船は停泊することができ、救援品の一部を北海道に陸揚げすることができたらしい。」
<<ミュンツェンベルク・コンツェルン>>
一方、ドイツ国内においては、図版を多く取り入れ、かつ廉価な『労働者イラスト新聞(Arbeiter Illustrierte Zeitung=AIZ)』を発行し、「『労働者イラスト新聞』を足場としながら、ヴイリーはヴアイマル共和国を通して、次々と有力な雑誌や新聞を傘下に収め、ドイツのマスコミ分野で「ミュンツェンベルク・コンツェルン」と呼ばれる、規模としては、右派のフーゲンベルクに次ぐ、ドイツ出版界二番目の一大左翼出版コンツェルンを構築することに成功した。」
「一九三〇年代に入ると、ますます、ドイツ共産党は『夕刊・世界』の編集や内容面に口を出すようになり、党の方針に従って、もっと社会民主党批判を展開するように度々要請をした。しかし、編集部の方は、それよりもますます差し迫ったナチスの危険の方をより重要な課題だと考えていた。彼らはこの新聞が左翼の大衆紙であって、共産党の機関紙ではないという立場をとり続けたのであった。
さらに女性向けにはイラスト雑誌『女性の道』。大恐慌の最中の一九三一年七月に刊行されたが、民衆に顔を向けて一〇万部を誇った。
「ミュンツェンベルク・コンツェルン」の中でもヴイリーのお気に入りは、労働者カメラマン協会の機関誌『労働者カメラマン』であった。写真というメディアに注目していたからであった。労働者階級の視点で、労働者階級自身が写真という新しい文化を積極的に創造することを期待して、財政的にも支援した。
ベルリンでは「戦艦ポチョムキン」の上映を成功させ、観客に大きな感動を与え、1933年にナチスが政権を握ると即刻上映禁止となった。」
「赤い億万長者」とも呼ばれた、というが、「資金が流入するようになってからも、ヴィリーはこれを個人的に使ったことは一度も無かった。労働運動、とくに共産党の活動資金に用立てたのであった。事業を立ち上げたといってもその創設資金はわずかなものだったし、運転資金も微々たるものであった。それがごく内輪の関係者しか知らなかった「赤い億万長者」の実態だった。ヴイリーは個人的には、私有財産をもたず、ほとんどの報酬を共産党に献金し。銀行口座も開設したことさえ無かった。ヴイリー自身は国際労働者救援会の書記としての五〇〇マルクが支給されるだけで、国会議員としての歳費も、通信費などの雑費一〇〇マルクを除いて、全て共産党にカンパされた。ただ、国会議員に与えられる一等車の無料乗車特権はヴィリーによって大いに利用された。」というのが実態であった。
<<左翼の「甘受できない最大の弱点」>>
現在の反戦平和・改憲阻止・生活擁護等のあらゆる大衆運動についてもいえることであるが、「この反ファシズムの共同戦線の構築は実は難産を極めた。ヴィリー自身、次のように嘆いていた。」、「反対派は政治的に成熟しておらず、正しく組織されておらず、統一して活動しておらず、まだ反対派のムードだけであって、まだ目立った活動になっておらず、クリエイティヴな反対派運動と呼ぶにはほど遠い。多様な形態の幅広い反対派が、一つにはならなくても一つの方向に向かって活動していたならば、もっと多くを勝ちとっていただろう。もはや甘受できない最大の弱点は、ドイツの反対派が六〇以上もの様々な党派、組織、グループ、サークルに分裂し、寸断されていることである。彼らは一緒に活動しないばかりか、互いを攻撃しあっていて、そのお互いの闘争を、最重要課題とか、ある作家が言っているように、ドイツ反対派の『宿命』と見なしていて、それで共通の敵に反対する闘争を忘れてしまっているのである」。
それはコミンテルンにおいてもしかりであった。「モスクワでも、新たな人民戦線路線に対する逆流が依然として強かった。一九三九年二月にヴィリーが回想しているところによれば、すでに一九三六年半ばにはコミンテルンは第七回世界大会の決議を犠牲にして、スターリンの「純粋な党政策と党による全体支配の方針をとった」のであった。
ヴイリーの高い組織化能力と人民戦線のために尽くした大きな功績はディミトロフによって高く評価され、ドイツ共産党中央委員にも選出され、さらにコミンテルンの宣伝担当としてモスクワに招請されたものの、これをヴイリーは頑なに拒否していた。それはヴィリーの古くからの友人が次々とスターリンの「粛清」の犠牲になっていたからでもある。
結局、宣伝担当としてモスクワにとどまるということを拒み続けた結果は、共産党からの除名であった。一九三九年三月一〇日にヴイリーは、決別宣言を『未来』で発表しているが、そこでは次のように言っている。
「私は、自分自身でともに作りはじめ、作り上げた一つの組織から泣く泣く離れる。私が一九〇六年に若き工場労働者として社会主義運動のメンバーとなって以後、一九二五年には最初のドイツ人の社会主義者の一人としてレーニンとその運動に組し、そのためにほとんど二五年間身を粉にして活動し、少なからぬ成果も作り出した。
今日の共産党指導部との二年におよぶ党の目標設定において、または社会民主党の同志との統一戦線の問題において、はたまた宣伝のやり方や党内民主主義の基本概念において、また党と個々の党員の関係に関する見解において、決定的な政治的、戦術問題等ゆえの抗争の後に、これらの問題を解決することや、一九三三年以来の変化を考慮にいれた政策が採用されることは不可能であるという結論に達した。」
そうした結論の上でもなおかつ、「私は党内に分派を作る気もなければあるグループのためだけに活動するという気もない。私は今まで通り、強大な幅広い統一党をつくり、ヒトラー体制を打ち倒し、新生ドイツを作り上げる広範で力強い人民運動を展開するために活動することにでき得るかぎりの努力を続ける。」ことを明らかにしている。
そして1939年8月の独ソ不可侵条約締結の際には、「スターリン、お前こそ裏切り者だ」と弾劾するにいたるのである。そして1940年10月、ヴィリーは、南東フランス・コーニェの森の中で謎の腐乱死体として発見される。
ヴィリー・ミュンツェンベルクの闘いと苦悩は、21世紀の現在においても生き生きとよみがえり、そこから汲み取れる教訓と示唆は実に深いものがある。
著者はこの著書を通じて、ドイツ労働運動史研究の中から、その独自な世代論を分析の視点として、現代の新しい若い世代への期待を表明されている。注目の書といえよう。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.388 2010年3月20日