【書評】『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

【書評】『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
         (加藤陽子、朝日出版社、2009年、1,700円+税) 

 「ある一つの戦争が、講和条約の締結によって人々の記憶から忘れられたり、つぎの戦争がまたゼロ地点から始まったりする、などということは、およそ日本においては考えられないことでした。一つの戦争は、次の戦争とさまざまなかたちで結びつけられました。戦場と事変の勃発地点が重なり合うということで、日露戦争の記憶と満州事変の意義が重ね合わされて語られる一方で、日露戦争の戦死者の遺児が日中戦争に出征して負傷兵になったという家族を顕彰して、士気が緩みがちな日中戦争に日露戦争の栄光をすべりこませたりすることは、常態的になされていたことでした。/いわば、戦争で戦争を語る、戦争で戦争を説明するという行為が、自然に日常的になされていたのが、戦前期までの日本社会であったといえるでしょう」。
 これは以前、著者が以前の著作において語った言葉であるが(加藤陽子『戦争の日本近代史』、2002年、講談社現代新書)、本書もこの問題意識を受け継ぎ、戦争にいたる過程で為政者や国民が、世界情勢と日本の関係をどのようにとらえてきたか、すなわち日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914年)、そしてしばらく置いて満州事変(1931年)、太平洋戦争(1941年)とほぼ10年おきに戦争を続けてきた日本が、戦争を国民に説得するための正当化の論理をいかに構築・浸透させていったか、を年代史に従って実証的に検討する。
 そしてその際の視点となるのは、山県有朋がドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタインから学んだ、「主権線」(主権の及ぶ国土の範囲)と「利益線」(その国土の存亡に関係する外国の状態、後には「生命線」と呼ばれるようになった)の概念であり、これに基づいて日本の戦略を特徴づけたアメリカの研究者であるマーク・ピーティの次の言葉である。
 「近代植民地帝国の中で、これほどはっきりと戦略的な思考に導かれ、また当局者の間にこれほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた国はない」。
 「日本の植民地はすべて、その獲得が日本の戦略的利益に合致するという最高レベルでの慎重な決定に基づいて領有された」。
 朝鮮半島、台湾、満州、南洋諸島等々すべて、この安全保障上の視点から清露独米英等と争い領有したと、本書は見る。そしてこの目的のために国民間での意見の一致をいかに推し進めたかを裏付けて行く。
 各戦争の時期におけるプロパガンダなり新聞の論調なりは、本書に詳述されているので、そちらを見られたいが、ここではそのうちの一つを取り上げる。それは、満州事変と日中戦争時の状況である。
 1930年代の世界恐慌は日本にも波及し、その最も過酷な影響は、当時の就業人口の約半数を占める農村に出た。ところが戦前の政治システムの下では、これに対する社会民主主義的な改革への要求は、既成政党、貴族院、枢密院など多くの壁に阻まれて実現できなかった。このような時、この要求の擬似的な改革推進者として軍部が登場した。その主張は、国防は「国家生成発展の基本的活力」であるとして、「国民生活の安定を図るを要し、中就、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」とするものであった。 このスローガンに魅せられた国民が、その後日中戦争への道を歩んでいったことは想像に難くない。
 また満州事変の前後で、満蒙を日本の生命線と見なすか、またその場合の軍事行動を支持するかというアンケートを東大生に実施したところ、その調査結果が余り変わっていない、ということから、それだけ満蒙問題について国民の間にある種の了解がかなり高くなっていたということがわかるが、これがこの戦争の背景での推進力となった、と本書は指摘する。
 このように本書は、過去に日本が体験してきたそれぞれの戦争が、常に周到に準備され推進させられてきたものであることを明らかにする。そしてその背景に列強諸国及び周辺諸国との関係の複雑な絡みがあり、最終的には太平洋戦争に向かわざるを得ない状況が存在していたことを冷静に見つめる。地味ではあるが、現在を見直すにあたって、戦争問題を扱うこのような視点が有効であることを知らせてくれる書である。
 また本書には関連するさまざまなエピソードも紹介されていて興味深い。例えば、ドイツは40年に日本と三国同盟を調印するが、38年に満州国を承認して日本と手を組むまでは、中国に最も大量の兵器・軍需品を売り込んでいた国であり、軍事顧問団も蒋介石のもとに送っていた。つまり日本軍は、ドイツ顧問団に率いられ、ベンツのトラックで移動する中国軍と戦っていたという事実。満州への開拓移民推進のために、国や県が分村移民(村ぐるみの移民に特別助成金や別途助成金をつける)を煽ったという事実。あるいは敗戦間近の日本の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていたが、国土が日本よりも破壊されたドイツでは、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は、33年の1~2割増しであったという事実。さらには、戦時中にも株式市場は開かれており(このこと自体驚きであるが)、45年2月から軍需工業関連でないもの、民需関連(繊維、船舶等)の株価が上がり始めた、つまり戦時から平時に世の中が変化するのではないか、と国民が感じていたという事実等々である。
(なお付言すれば、上記の軍部による扇動については、石堂清倫が『20世紀の意味』(2001年平凡社)の中で、自身の経験を次のように記している。
 「正確な日取りは記憶にないが、私は石川県小松町の公会堂の前を通ると、時局講演会立て看板を見た。入ってみると満員であった。(略)講師は制服の陸軍少佐である。/少佐はまず農村の惨状を歎いた。現状から脱却するには、思いきった改革が必要だと説いた。左翼の唱える農業改革は、もっともなことである。しかし国土が狭小で人口が過剰な日本で農地の平等分配を行っても、農家一戸あたりの耕地は5反歩に過ぎない。これでは(略)貧困状態に変わりはない。空しく餓死を待つばかりである。しかし生きる道はある。眼を転じて満蒙を見よ。そこには無限の沃野が広がっている。それを頂戴しようではないか。(略)/それは激烈きわまる扇動であった。われわれの日常生活を規定する道義の精神など一擲せよ、侵略もまた正義であるというのであった。聴衆は肝をつぶしたにちがいない。しかし軍部が先頭に立っている以上、新しい価値観、新しい精神で武器をとってよいのだと理解したであろう。人びとは軍部を救世主と感じたであろう。人びとの気持ちが動きだしたことは、村の生活のなかでもじわじわと感じられてきた」。)(R). 

 【出典】 アサート No.388 2010年3月20日

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