【投稿】チベット暴動と北京五輪妨害の背景を考える

【投稿】チベット暴動と北京五輪妨害の背景を考える
                          福井 杉本達也 

1.チベット暴動と北京五輪聖火リレーの妨害
 中国・チベット自治区ラサで3月14日、独立を求めるチベット仏教の僧侶や市民による大規模暴動が起き、警官隊との衝突で多数の死傷者が出た。その後、チベット族の住む四川省や甘粛省にも飛び火し、海外ではギリシャでの北京五輪聖火の採火式やロンドン・パリ・サンフランシスコなどでの聖火リレーが妨害されるなどの抗議行動が展開されている。中国・温家宝首相は、「ダライ・ラマ14世一派が北京五輪破壊を狙い組織的に企てた策動」とインド北部ダラムサラを拠点とするチベット亡命政府を批判する一方、ダライ・ラマ側は「チベット人を自国領内の二級市民として扱う中国の政策への深い反発が、当然の結果を招いた。チベットの中国政府当局者が、地元チベット人にひどい対応をしていると」(CNN:3.12)中国政府のチベットへの民族政策を批判している。胡錦濤国家主席は「ダライ一派との闘争は、民族や宗教の問題ではない。国家の統一を守るか、あるいは祖国の分裂を許すかという問題だ」(豪首相との会談で:4.12)とし、今回も、1989年のラサ暴動と同様、武力鎮圧で収拾を図ると見られるが、独立を求める動きはチベットだけでなく新彊ウイグル地区でもくすぶっている。

2.なぜこの時期に「チベット」か
 8月の北京オリンピック開催を間近に控え、また、全国人民代表大会開催中のこの時期に、中国政府側がチベットに騒動を起こすよう引き金となるような強権行動を取るとは思えない。3月はダライ・ラマ14世がチベットからインドに亡命した1959年のチベット暴動から49周年に当たる。今回の暴動が、チベット自治区のみならず四川省甘孜自治州・アバ自治州や甘粛省甘南自治州など、チベット民族の居住する『大チベット』において同時多発的に発生したこと、ロンドンからの聖火リレーに焦点を合わせたことなどを判断すると、チベット亡命政府筋による北京オリンピック・全人代・22日投票の台湾総統選挙などに焦点を合わせ、チベット問題を国際化しようとする動きといえよう。

3.暴動を企画したものに成果はあったのか
 計画的暴動であったにもかかわらず、89年時のような大規模な騒乱には至らず、人民解放軍が正面に出た鎮圧行為はなかった。暴動へのチベット民族の参加は少数に留まったといえる。また、同じ中国からの独立を掲げる台湾においても、焦点の総統選挙は国民党・馬英九氏の圧勝に終わり、選挙結果に影響を与えることはできなかった。欧米においては、ロンドンやパリなどの聖火リレーにおいてチベット問題をアピールし、ドイツ・メルケル首相、イギリス・ブラウン首相の北京オリンピック開会式不参加を引き出し、一定の成果はあったが、肝心の米国においては、ブッシュ大統領の不参加を引き出すまでには至っていない。4月2日に訪中したポールソン財務長官は王岐山副首相と会談し、サブプライムローン問題で青息吐息の米経済の「軟着陸」を図るよう要請した。「米金融市場の要である米国債の保有額はこの1月末が4926億ドルで、日本の5669億ドルに次ぐが、日本がこの1年間で400億ドル売却したのとは対照的に中国は910億ドル買い増した。中国はことしに入っても、全世界の米国債追加購入額のうち25%を引き受けている。」(マネー・経済:4.9)というように、米国の関心はチベットにはない。一方、フランス・サルコジ大統領は、開会式の出席について、当初の「欠席」から「チベット問題は条件ではない」と発言を修正し、中国との経済関係の強さを反映して、「チベット問題に対する仏政府の対応のちぐはぐぶりが露呈した」(日経:4.7)と皮肉られている。さらには、中国国内で、仏資本スーパーのカルフールに対する不買運動が起こり、カルフールはHP上に五輪に協力する旨の声明を出すなど、逆に中国側から揺さぶられる立場となっている。

4.情報戦について
 4月2日付けワシントン発の共同通信は、中国大使館が米議会議員に「ダライ・ラマは親ナチ」とのメールを送っていたこと、「ナチス元親衛隊(SS)の元将校とされる人物と握手する写真も掲載している。真偽は不明」と報道している。この報道はトリックである。「ナチス元親衛隊将校」とはアイガー北壁の初登頂に成功した有名な登山家ハインリヒ・ハラーである。ハラーは1944年から1951年の7年間チベットへ潜入し少年時代のダライ・ラマの個人教師を務めていた(自叙伝「セブンイヤーズ・イン・チベット」等)。SS隊員であったという事実は、1997年に上記自叙伝の映画封切時にドイツ「シュヒーゲル」誌によって暴露された国際的に有名なスキャンダルであり(新編「白い蜘蛛」訳者あとがき・長谷見敏(山と渓谷社))、なんら「真偽不明」ではない。問題は、ハラーがなぜ、第二次世界大戦中にチベットに行ったかであるが、単にヒマラヤを登るためであるはずはない。1904年の英軍のラサ占領以来、チベットはイギリスの影響下にあったが、そこで情報戦をおこなっていたと見るべきである(1900年前後の中国西域をめぐる情報戦については金子民雄「西域 探検の歴史」(岩波新書)に詳しい。)。ナチスドイツ解体後、ハラーは英国との何らかの取引の上にチベットに留まったと考えることが自然である。59年のダライ・ラマのインド亡命以降も、ハラーはチベット独立を支援し続け2006年に亡くなっている。中国大使館のメールは背後の英国へのメッセージと考えられる。
 ところで、今回の一連の情報戦について、ロシア・ノーボスチ通信は「世界のリーダーシップを失いつつある国のお気に入りの武器は情報という武器だ。そのことは我々はオリンピックに関して中国の生活を困難にし、中国に不適切な行動を取らせるよう煽動する試みを持った歴史の中で見ることができる…情報の武器は、テロリズムに比べ、汚さやふしだらさの点で少しも劣らない…ヨーロッパとアメリカの文明は、非政府組織を自分の自由意志で創り出しそれに対して代金を払う激怒した市民を利用し、この極めて冷笑的した芸術を完璧に作り上げている…彼らの気高いエネルギーが「グローバルな競争相手」に反対する「代替戦争」のために上手く利用されている…世界には、「チベット」のような、つまり何らかの国家からの独立を求める民族的運動を人為的に作り出すことができる地域が最大で170ある。そしてこのような「チベット」の一部は、同じヨーロッパにもアメリカ自身にもある。」しかし、中国人は「アメリカやヨーロッパのように巧みに情報戦争に持ち込む能力が身に付いていない」(ノーボスチ通信:4.12)と批評している。
 
5.上海協力機構
 上海協力機構は、かつてアムール川の中州をめぐって戦火を交えたことのある中ロ(旧ソ連)の共同イニシアティヴの下で、旧中ソ国境地域の信頼醸成措置と国境画定問題を議論するフォーラムとして始まった。ソ連崩壊により分離独立した多数の新興国の内政は非常に不安定であったが、1997年には国境地域における信頼醸成について、関係国が非武装地域の設置と軍事情報を交換し、国境地域を安定させることに合意した。2001年、中国・ロシア・カザフスタン・キルギスタン・タジキスタンにウズベキスタンを加えた6か国による多国間協力組織として上海にて設立された。2004年にはもう1つの長大国境を接するモンゴルがオブザーバー参加し、2005年にはインド・パキスタン・イランもオブザーバー参加することとなった(「上海協力機構と日本」・岩下明裕)。
 インドが参加することによって、チベット亡命政府は大きく行動を制限されることとなった。インドと中国(チベット)は途中のネパール・ブータンを挟んで長く国境を接しているが、マクマホンラインなどの国境の解釈をめぐって1962年に武力衝突が起きている。しかし、2005年、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、「政治主導による国境問題解決」の合意ができ、インドとしては中国と事を構えにくくなっている。また、先日総選挙が行われたチベット難民が2万人もいるネパールでは毛沢東派が第一党になるといわれているが、亡命政府に対しては冷たいといわれる。
 ロシア・モンゴル国境は、モンゴルと内モンゴル自治区に分断されたモンゴル族に対し、カザフスタン・キルギスタン・タジキスタン国境はウイグル族等に対し、インド国境はチベット族に対してと、一部カシミール・アクサイチン地域などの不安定要因を抱えるものの、中国の少数民族問題を国際紛争化しない対策は完成する。
 
6.青蔵鉄道の開通とチベット経済
 2006年7月に「青蔵鉄道」(全長1956キロ)が全線開通した。チベット自治区・ラサと青海省のゴルムド区間1142キロを結ぶもので、観光客ばかりでなく、物資の輸送、解放軍の大量移動も可能となった。チベット自治区の「都市部住民1人当たり可処分所得」は5536.00 元で前年同期比伸び率は32.30 %、「農村牧畜区住民1人当たり純収入」は908.74 元で、前年同期比伸び率は17.80 %となっている。農村部は西部地域でも最も貧しい状態が続いているが、都市部は西部地域トップの重慶市住民の6990.15 元などの所得に急速に近づきつつある(中国情報局ニュース:2007.8.21)。2006年の観光客数は前年比36.1%増の245万人、観光収入は39.5%増の27億元に上った(同:2007.1.4)としており、鉄道開通がチベット経済の発展に急速に反映しつつあるといえる。それは他の地域との一体化が進むことでもあり、漢民族の定住化も進むということでもある。裏を返せばダライ・ラマの「わたしたちの山の中の、質素で貧しい生活のなかにこそ、世界の大部分の都市生活におけるよりも、おそらく、はるかに大きい心の平和があった」(自伝)チベットの「文化」は『資本主義経済化』によって、急速に掘り崩されていくことになろう。
 
7.チベットはどうあるべきか
 中華人民共和国成立以来のチベットへの民族政策は失敗の連続であった。1951年の解放軍のラサ進駐以降、56年からの土地改革と各地での反乱と59年のダライ・ラマの亡命(62年ほぼ鎮圧)・反乱部隊への米CIAの介入(~74年まで)、58年からの中国全土での大躍進運動と人民公社化、65年からの文化大革命、69年の反乱、89年のラサ暴動等々、チベット民族は多大な被害を被った。中国共産党の極端な政策とそれに乗ずる形での英・米の介入が被害をさらに拡大した。反乱の結果は人口統計ににも歴然と現れる。青海チベット人人口の動態をみると、53年の49万人から64年の44万人へと10年間に5万人も減少している。1990年センサスでは年齢別の性比は1925年生まれ以上人口で、漢人103.2に対し、チベット人54.9しかない。「つまり反乱が始まったころ31歳以上だったチベット人のうち、男性は女性の半分近くしか生存していない」(「もうひとつのチベット現代史」阿部治平)。しかしそれでも、われわれは、英・米のプロパガンダに乗るべきではない。それはチベット民族の人的・物的・文化的被害をよりいっそう拡大するだけだからである。中国の長大国境がほぼ確定し、経済的にも安定しつつあり、中国政府も冷静に民族政策を考え、チベットに投資する余裕が生まれている。チベットのことは中国政府とチベット民族に任せる以外に解決の方法はない。

 【出典】 アサート No.365 2008年4月26日

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