【書評】『茶色の朝』

【書評】『茶色の朝』
        (F・パヴロフ・物語、V・ギャロ・絵、高橋哲哉・メッセージ、
             藤本一勇・訳、大月書店、2003年12月、1,000円+税)
 
 一読したところ、特に冒険があるのでも、感動的なシーンがあるわけでもない短い童話である。
 物語は、「陽の光がふりそそぐビストロで脚を伸ばしながら、俺とシャルリーは、とくに何を話すというわけでもなく・・・」座っている場面から始まる。
 二人が話しているのは、日常生活のとりとめもないこと。しかし、「俺」は、シャルリーが犬を安楽死させねばならなかったことに引っかかる。
 「わかるだろう、/あの犬を茶色だって言い張るには無理があったんだ」
 「たしかに、あんまりラブラドールの色じゃないよな。
  けど、何の病気だったんだ?」
 「病気のせいじゃない。茶色の犬じゃなかった、ただそれだけさ」
 「何だって?猫といっしょになっちまったてことか?」
 「ああ、同じだ」
 ここで、この物語の背景が明らかとなる。この国では都会に猫が増えすぎたため問題が起こり、その対策として、「科学的」研究を踏まえて「ペット特別措置法」で、もっとも繁殖率の低い「茶色」の猫のみ飼うことが許されることになったのである。このため「街の自警団の連中が毒入り団子を無料で配布していた。えさに混ぜられ、あっという間に猫たちは処理された」。
 そしてこのとき「俺」は、猫を処分していた。
 これについて「俺」は、「そのときは胸が痛んだが、/人間ってやつは『のどもと過ぎれば熱さを忘れる』ものだ」と思う。
 しかし今その対象が、猫から犬にまで広げられ、その後、この法律を批判し続けてきた新聞『街の日常』が廃刊に追い込まれる。
「それから、図書館の本の番だった。/これまた、あんまりすっきりした話じゃない。/『街の日常』の系列出版社がつぎつぎと裁判にかけられ、/そこの書籍は全部、図書館や本屋の棚から/強制撤去を命じられた」。
 そして会話でも、自主規制が始まる。
 「だれに会話を聞かれているかわかったもんじゃない。/用心のために、言葉や単語に茶色をつけくわえるのが習慣となってしまっていた」。
 しかしこのことにも、馴染んでしまった。
 「最初は、『茶色のパスティスを1杯』なんて/ばかみたいだったが、結局は、言葉なんて慣れの問題で、/仲間うちで何かにつけて『くそ野郎!』と言うのとおなじように、/茶色に染まることにも違和感を感じなくなっていた」。
 そしてある日には、「俺」が新しく茶色の瞳と茶色の毛並みの雄猫を飼い、シャルリーが新たに茶色の犬を飼い始めたことがわかり、「俺たちは笑いころげた」。これはすごく快適で安心な時間だった。
  「まるで、街の流れに逆らわないでいさえすれば/安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、/生活も簡単になるかのようだった。/茶色に守られた安心、それも悪くない」。
 「茶色の安全」「茶色の安心」の中での生活、「俺」の気持ちは、ここまで来てしまう。
しかしこの「安全」「安心」の生活は、突然崩壊する。シャルリーが、自警団によってアパートから連れ去られたのだ。人々のひそひそ話で、その理由がわかったのだ。
「だけどやつの犬はほんものの茶色だったぜ」
「ああ、だけどあいつらが言うには、/前は、茶じゃなく黒の犬を飼っていたからっ
てことらしいぞ。黒をな」
「前は、だって?」
「そう、前はだ。/いまじゃあ、前に茶色じゃないのを飼っていたことも/犯罪なんだとさ。/そんなこと簡単にばれちまう。近所に聞けばいいんだからな」
「俺」はやっと気がつく。
 「茶色党のやつらが/最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、/警戒すべきだったんだ」
  「いやだと言うべきだったんだ。/抵抗するべきだったんだ」。
 しかし「俺」は、まだ言い訳を探し続ける。
 「でもどうやって?/政府の動きはすばやかったし、/俺には仕事があるし/毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。/他の人たちだって、/ごたごたはごめんだから、/おとなしくしているんじゃないか?」
 そして朝、「俺」の家。
「だれかがドアをたたいている。こんな朝早くなんて初めてだ/・・・/陽はまだ昇っていない。/外は茶色。/そんなに強くたたくのはやめてくれ。/いま行くから」。

 このすべてが「茶色だけ」になってしまう物語が、本書である。出版されたフランスにおいて、「茶色」はナチスを連想させ、そこからさらに、全体主義、「極右」を連想させる色となっている。
「茶色」の状況に囲まれた、「俺」とシャルリーは、極力「事を荒立てぬよう」行動し、「茶色に守られた安心」を得る。しかしその後の展開は、・・・というところで物語は終わる。
 本書から、どのような教訓を汲み取るべきかについては、読者の視点に任せる以外にないが、本書の後半に、高橋哲哉による「やり過ごさないこと、考えつづけること」と題するメッセージを一つの手がかりとして読まれたい。
 本書に出てくる「俺」とシャルリーのような人々は、わが国にも、いたるところに存在している。かつて詩人・高良留美子は、次のような詩を書いた。

「 大きな手
大きな手が耳をそぎにくるとき/ほんとうは少しほっとするひとがいる
大きな手が鼻をそぎにくるとき/ほんとうは少しほっとするひとがいる
大きな手が首を絞めにくるとき/ほんとうは少しほっとするひとがいる
大きな手の手先になるとき/はじめてほんとうにほっとするひとがいる」

 憲法改定が日程に上っている現代のわが国で、本書は、権力に対する個人の姿勢を問う重要な課題を提起している。そして本書が、2002年の大統領選挙でシラク大統領と一騎打ちとなった、極右政党・国民戦線のルペン候補に対する大きな批判の力となったことも想起するべきであろう。(R)

 【出典】 アサート No.360 2007年11月17日

カテゴリー: 政治, 書評, 書評R パーマリンク