【投稿】首相の言葉の軽さと9条・日韓・日中

【投稿】首相の言葉の軽さと9条・日韓・日中

<<「普通の国」と「異常な国」>>
 先月3/19、広島平和研究所の主催で「NPT体制の再検討――広島・長崎からの提言」という公開ワークショップが開かれた。その冒頭で、広島平和研究所所長の福井治弘氏の退任記念特別講演が行われた。タイトルは「『普通でない国』・『普通でない街』の論理」であった。詳細は広島市のメールマガジン「ひろめーる」、広島平和研究所ホームページに見ることが出来る。
 福井氏はその講演の冒頭で、まず、「国連開発計画や列国議会同盟による最近の調査を見ますと、日本における男女間の政治的平等度は、他の先進工業諸国ばかりでなく、多くの開発途上諸国と比べても、際立って低く、国会の下院における女性議員の比率は、174カ国中132位だそうですが、私は、このような状態を生む要因になっている日本の社会や文化の構造が一日も早く変革されて、せめて『普通の国』並みの男女平等度を達成することが、日本国民にとって非常に望ましいと信じています。」と述べて、「普通の国」なら当然達成されていてしかるべき男女間の政治的平等が際立って低い現実を厳しく指摘している。この点は保守勢力において典型的ではあるが、革新と言われる勢力や野党、労働組合においてもいまだ見るべき変革も確認できない状態ともいえよう。
 しかし福井氏が問題にしているのは、「憲法第9条改正論者たちが唱える『普通の国』のこと」である。そして「そういう人々は、日本を『異常な国』にしているこの、いわゆる『平和条項』を撤廃して、日本をいわば『一人前の国』にしようと提案しているわけです。確かに、このように平和主義・非暴力主義的外交政策の原則を憲法に掲げている国は、日本以外には、その憲法12条で常備軍廃止を宣言している中米の小国・コスタリカを除いて、現代世界には存在しません。もちろん、過去にも存在しませんでした。そういう意味で、9条廃棄論者が言うとおり、日本は『普通ではない国』に違いありません。」と述べる。

<<「普通ではない国」にした9条>>
 福井氏は続けて「第9条の平和条項は、明らかに、日本を『普通ではない国』にしたと言わねばなりません。 しかし、新憲法制定後の日本の外交政策は、実際には、『普通でない国』のそれではなく、『普通の国』的な政策でありました。つまり、憲法第9条の存在にも拘らず、1951年の朝鮮戦争勃発直後、警察予備隊と称する軍隊の卵が生まれ、1954年には自衛隊と改名、改組され、その後、正真正銘の現代軍隊に成長、緩慢な速度ではありますが、着実に増強、改良を重ね、今日では、世界有数の戦力を備えるまでに育ったわけです。いずれにしても、現実の日本は非武装・平和主義を実行する国とは程遠い存在になったわけです。 」と強調する。
 しかし現実がたとえそうであったとしても、「非武装・平和主義を掲げる憲法の条文を、制定以来60年近く守ってきた、という点で、日本は、現代世界における特殊な国家、『普通でない国』であると言わねばなりません。」、そしてむしろそのことによって「戦後日本は、これまで、きわめて不完全、かつ不誠実な形ではありましたが、特異な非武装・平和主義を建前とする『普通でない国』として平和と繁栄を享受して」きたという現実を指摘している。問題の核心はここにあるといえよう。
 逆に異常なのは、福井氏が指摘するように「現在戦乱の中にあったり、貧困に喘いでいたりする一部の発展途上国の場合は別として、日本のように、現在、平和と繁栄の恩恵を享受している国で、自分の国が『普通の国』になるべきだと主張する政治家や有力紙を持つ国は日本以外には殆んど存在しない」という現実である。
 平和と繁栄を享受できた9条の、「そのような国家像を捨てて、未だに自滅の道を歩み続ける『普通の国々』の仲間入りをしたいと考えるのは、私の目には、それこそ、自虐精神の発現以外の何者でもないと写ります。 」と述べ、9条改正論者たちこそが自虐精神と自滅精神の持ち主であることを指摘している。

<<「普通でない街」>>
 ここに憲法第9条という、「普通でないこと、特殊なことを誇りにする」ことの重要性を福井氏は強調されている。
 当然、同じことは、国家の場合だけではなく、「地方、市町村の場合にも当てはまります。広島の市民の大半も、広島は他の都市とは異なる、特殊な街だと信じていると思います。恐らく大多数の市民は、広島は世界史上初めて核兵器による攻撃の犠牲になった街であり、長崎と共に、核戦争がもたらす地上の地獄を身をもって体験した街であることが、その最も重要な特殊性だと考えているに違いないと思います。」、そして「被爆者の多くは、同時にあのような経験を地球上のいかなる国、いかなる都市に住む人々にも、味合わせたくない、そのために、核兵器はもとより戦争そのものを廃絶すべく、自分に残された人生を捧げようと決意されていることも事実です。そうであるならば、この絶対に『普通ではない』街が、住民にとっても、訪問者にとっても、一目で『原爆の街』、『国際平和文化都市』であることが分かるような景観を作り上げて頂きたい」と、福井氏はこの講演を結んでおられる。
 秋葉忠利・広島市長は「『普通の国』とは戦争のできる国、戦争を当たり前のこととして受け入れる国であり、日本そして広島は、その意味での普通さを拒否してきたしこれからも拒否し続ける存在でなくてはならないと、熱っぽく説かれる姿に感動したのは私だけではありませんでした。特に、被爆者に言及する場面では声が詰り、福井所長の原点が何処にあるのかを感じることができました。」と、その感動を述べている。

<<重い言葉と軽い言葉>>
 「普通でないこと、特殊なことを誇りにする」という言葉の重さに比して、小泉首相は「だいたい今の憲法第九条は常識に合わない。だから違憲論が出る」という言葉の軽さは、歴史と現実を冒涜するものである。
 こうした言葉の軽さが小泉首相の本質でもあろうが、いよいよ事態は、韓国、中国における未曾有の反日世論とデモの巨大な渦を将来させている。
 周知のように、盧武鉉韓国大統領が、1919年の日本の植民地支配に対する抵抗運動「3・1運動」86周年記念式典で演説し、日本に対して「過去の真実を究明し、真に謝罪、反省し、賠償すべきことは賠償して和解するべきだ。それが世界の歴史清算の普遍的方式だ」と述べ、さらに「韓国政府は国民の怒りと憎悪をあおらないよう自制してきたが、我々の一方的努力だけでは(歴史問題は)解決できない。両国関係の発展には日本政府と国民の真の努力が必要だ」と述べたことに対して、小泉首相はあろうことか、この盧大統領のメッセージの重さを受け止めることも出来ず、あれは「国内向け」の発言であるとテレビの前で語ったのである。外交儀礼上でも失礼極まりないものであり、言ってはならないことを平然と言ってしまったのである。
 3/23、盧武鉉大統領は「国民に贈る文」の中で、「いまやわが政府も断固として対応するほかありません。侵略と支配の歴史を正当化し、ふたたび覇権主義を貫徹しようとする意図をこれ以上手をこまねいて見ているだけすまなくなりました。韓半島と東北アジアの未来がかかっている問題だからです。」と述べる事態である。

<<「いくつかのお願い」>>
 それでも盧大統領は、「今、このことを決心して国民の皆さんに報告しつつ、いくつかのお願いをしたい」として、
 第1に、一部国粋主義者の侵略的意図は決して容赦してはなりませんが、だからといって日本国民全体に不信感を持ち敵対してはならないということです。
 第2に、冷静を失わず落ち着いて対応しなければならないということです。断固として対応しつつ、理性で説得し品位を失ってはなりません。
 第3に、根気と忍耐心を持って対応しなければなりません。知恵と余裕を持って根気よく取り組まなければなりません。
 第4に、遠くを見通しつつ戦略的に対応していかなければなりません。慎重に判断してゆったりと話し行動しなければなりません。一喜一憂してはならず多くの人がいちどきに話してもなりません。
 と述べて、「わが国民の要求は歴史の大義に基礎を置いています。私たちは無理なことを要求しているのではありません。新しく謝罪を要求しているのでもありません。中身のない謝罪さえ白紙化するようなことを改めることを要求しているだけです。そして、まだ処理されずに残っている問題に関して事実を是認し適切な措置をとることを促しているだけです。」と結んでいる。
 この重い言葉と真剣で冷静な態度をどれだけ真摯に受け止められるか、このことに日韓、日中、アジアにおける日本の位置付けがかかっているといえよう。
(生駒 敬) 

 【出典】 アサート No.329 2005年4月23日

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