【投稿】「朝日」「毎日」「日経」「読売」と東京大空襲

【投稿】「朝日」「毎日」「日経」「読売」と東京大空襲

                              吉村 励

本誌『アサート』 の326、 327号に、 日本の戦争被害と戦争加害について書いてきた私は、 本号328号で、わが国の空襲被害に関するやや詳細な分析の文章を載せる計画であったが、 資料蒐集と整理に手間取り、本号に間に合わなくなった。
ところが、本日 (三月十日)の新聞は、三月十日の東京大空襲に関して『朝日』『毎日』『日経』『読売』は、それぞれ、最近の新聞論調にはめずらしい、まともな見解をコラム欄(『朝日』は天声人語、『毎日』は余禄、『日経』は春秋、『読売』は編集手帳) でのべており、『朝日』はさらに社説「あれはく戦場>だった」で、大空襲に触れている。 『読売』は社説(2)で、いかにも読売らしいくだりもあるが、「[東京大空襲]明らかに『戦争犯罪』だった」として取り上げている 。 (東京大空襲を社説で触れているのは『朝日』『読売』で、『毎日』『日経』は、別の問題を取り上げている)。 私のような年金生活者の老人とはちがって、 忙しい現役諸君は 『朝日』『毎日』『日経』『読売』の四紙に目を通すというようなことは、ごくまれなことと思われるので、編集者の生駒敬さんに無理にお願いして、 『アサート』に転載してもらうことにしました。 次号の拙稿のための序走として、目を通していただければ幸甚です。

『朝日』社説東京大空襲 あれは「戦場」だった
東京大空襲から10日で60年になる 。
大平洋戦争の末期、大都市から地方都市まで、全土が米軍の無差別爆撃にさらされた。その犠牲者は広島、長崎の原爆による約30万人に匹敵するといわれる。
とりわけ、東京大空襲では10万人が亡くなったとされている。当時の陸軍記念日をねらっての攻撃だった。
飛来したのは B29 300機、 投下された爆弾は1800トンに達したという。兵器工場などの軍事日標から都市部へのじゅうたん爆撃に戦略を変えて最初の攻撃だった。
書家の故井上有一氏は、本所区(現在の墨田区)にあった横川国民学校の教員として宿直についていた。 日付が10日に変わった直後からの空襲に、安全とされていた校舎は避難民であふれた。 猛火がガラス窓を破り、建物の隅々までなめ尽くした。
九死に一生を得た彼が見たのは、 戦場そのものとも言える凄慘(せいさん)な光景だった。 1978年の作品「噫(ああ)横川国民学校」には、「白骨死体如火葬場生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此」 「噫呼何の故あってか無辜(むこ)を殺戮(さつりく)するのか」などの文字がたたき付けるように書かれ、断末魔の叫びが伝わってくる。
当時の記録では、遺体のうち65%は男女の別も分からなかった。身元不明のまま合葬されたのは、7万体とされる。この人たちは、他の戦災の犠牲者とともに450個の大きな白磁のつぼに納められ、墨田区の東京都慰霊堂に安置されている。本来なら、それぞれの墓に眠ったはずの人々である。
慰霊堂からほど近い江戸東京博物館では現在、被災地図が展示されている。新たに見つかった名簿などをもとに、住まいと亡くなった場所を結んだものだ。 約700人分が描かれている。
展示品の中に、赤茶けた「防空新聞」があった。東部軍管区、東京都、警視庁の指導で、 朝日新聞が発行したものだ。昭和19年12月5日の紙面は、「女、子供でも掴(つか) める」との見出しで、焼夷弾(しょういだん)について報じている。新聞は町内で回覧され、最後のページにはいくつもの判子が押してあった。
国民に防災の義務を課した「防空法」はこうして隅々に伝えられ、その結果、逃げ遅れた人が多かったとも言われる。 同じ新聞社に働く者として、 決して繰り返してはならない過ちである。
空襲を体験した人たちは年々、減っている。こうしたなか、日米双方の資料にとどまらず戦跡など「場所の記憶」も生かして、この史上まれに見る惨劇を後世に伝えるよう努めたい。
今も空爆と名前を変えた空襲が、世界のあちこちで人々の命を脅かしている。
大空襲の被害の実態を立体的に明らかにすることは、日本が加害者だった時代に生きたアジアの人々の嘆きの深さを共有し、イラクで続く理不尽な死への住民の怒りを理解することにつながる。

『朝目』天声人語
「居を麻布に移す。ペンキ塗の二階家なり因って偏奇館と名づく」 (「偏奇館漫録」)。 永井荷風が長く住んだこの家は、60年前の3月10日の未明、米軍による東京大空襲で焼かれた。▼「わが偏奇館焼亡す一一火焔の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上万巻の図書、一時に燃上りしがためと知られたり」(「罹災日録」)。 荷風は、家々の焼け落ちる様や人々の姿を、その場にしばらくとどまって見ていた。その頃、隅田川周辺の下町一帯では、猛火に追われた人々が逃げまどっていた。▼生き残った人たちが当夜の有り様を描いた絵には、駅構内で幾重にも折り重なったり、川の中を埋め尽くすようにしたりして息絶えた住民たちの姿がある。一晩で約10万人の命が奪われた。▼「B29約百三十機、 昨暁/帝都市街を盲爆」。翌日の朝日新聞の一面トップの見出しだ。大本営発表を伝えたもので、「十五機を撃墜す」とあるが、被害状況の具体的な記述はない。統制下ながら、目の前の大被災を伝え得なかったことを省みて粛然とする。▼この後、米軍は名古屋、大阪、 神戸など大都市での空襲を重ね、 更には中小都市へも爆撃を加え続けた。東京の地獄絵は、規模こそ違っても全国で繰り返された。▼荷風は被災の 2日前に、ぶどう酒の配給を受けたという。ぶどうの実をしぼっただけで酸味が甚だしくほとんど口にできないものだった。そして、こう記している。「醸造の法を知らずして猥 (みだり) に酒を造らむとするなり。外国の事情を審(つまびらか)にせずして戦を開くの愚なるに似たり」

『毎日』余録
「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。60年前の3月10日、一夜で約10万人の市民の命を奪った束京大空襲を立案指揮したC・ルメイ米空軍少将は、当時の部下で後に国防長官になったR・マクナマラ氏にそう語ったという (映画「フォッグ・ オブ・ ウォー」)▲「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」。その後空軍参謀総長に昇進する彼が、戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲一等旭日大緩章を与えた▲飛行機の発明の一番大きな影響は、人が空から地上を見下すという”神の視点”を手に入れたことかもしれない。非戦闘員の命を平然と奪う戦略爆撃はそうした“神の視点”が、実は”悪魔の視点”でもあったことを示した▲戦争中であれ、幼子が暮らす家に油を注いで火を放つ所業が許されるはずがない。だがその悲鳴が聞こえず、逃げ惑う姿も見えない上空からなら、人は手や心を汚すことなく平気でそれをやってのけてしまう▲火を逃れてプールに飛び込むと、驚いた4歳の輝一ちゃんは 「おかあちゃん、ごめんなさい。 僕おとなしくするから」 と泣いた。2人の赤ん坊と共にその輝一ちゃんを失った森川寿美子さんの手記にある。死を前に輝一ちゃんは言った。「おかあちゃん、 熱いよ、 赤ちゃんもっと熱いだろうね」(「東京大空襲60年・ 母の記録」岩波ブックレット)▲負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ。そして、火の中で妹を気づかった 4歳の子の物語はほうっておけば誰もかえりみない。「それで本当にいいのか?」。語り継がれる地上の歴史は、いつも私たちにそう問いかける。

『日経』春秋
このところ南海の暖気が吹き込んで、首都圏はぽかぽか陽気に包まれている。60年前の同じ3月10日、南の島から東京にもたらされたのは、300機を超す B29長距離爆撃機が落とした2000トン近い焼夷(しょうい)弾。東京の4分の 1を焼き尽くし、死者は10万人とも一一。 ▼第二次大戦の末期、日独への爆撃は軍事施設や軍需工場だけでなく、非戦闢員を含む都市の無差別爆撃へと拡大してゆく。東京大空襲の 1ヵ月前、 2月13、14の両日、戦火を逃れた避難民で人口が倍にふくれあがっていたドイツの古都ドレステンは英米の猛烈な爆撃を受けた。街は 4日間燃え続け、死者は13万人を超えたという 。▼同じ年の 4月から始まった沖縄戦では、 軍人の戦死者を大きく上回る十数万人の住民が命を落としている。広島、長崎の原爆も含めて、第二次大戦は非戦闘員、市民に多くの犠牲を出した。この苦く重い歴史を風化させまいと、語り継ぐ様々な努力が続いている。▼東京大空襲で母と妹を亡くした高木敏子さんが、戦争体験を伝えようと28年前に書いた「ガラスのうさぎ」は、若い世代に向けて、今年アニメになる。 3人の子供をいっぺんに失った森川寿美子さんの手記は英訳されて、米国の大学生の心を揺さぶった。次世代へつなぎ、世界へ広げれば、事実は風化しない。

『読売』社説(2)
[束京大空襲]「明らかに『戦争犯罪』だった」
「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」
60年前の 3月10日未明、東京の下町を焦土と化した大空襲の指揮をとったカーチス・ ルメイ米司令官が、後年語った言葉である 。
東京大空襲は、初めから一般市民を主日標とした大量虐殺作戦だった。明らかな国際法違反である。軍事関連施設に目標を絞った爆撃で戦果を上げることができなかった米軍は、焼夷(しょうい)弾を使って市街地を焼き払い日本国民の戦意をそぐ作戦に転じていた。
木造住宅密集地が火の海となり、約10万人の生命が奪われた。犠牲者は、欧州最大規模の英米によるドイツ・ ドレステン爆撃を上回る 。
東京大空襲で“成功”した米国は、 3月12日に名古屋、13、14日には大阪へと軍民無差別爆撃の対象を広げて行く。終戦までに150前後の都市が空襲され、 犠牲者は50万人に上った。
東京大空襲を戦争犯罪と認めているのは、 ルメイ将軍だけではない。
「ルメイも私も、戦争犯罪を行ったのだ。 もし負けていればだ」。ベトナム戦争介入責任者の一人だったロバート・ .マクナマラ元国防長官が、 昨年日本公開されたドキュメンタリー映画「フォッグ・ オブ・ ウォー」で、こう述べている。
マクナマラ氏は当時、ルメイ将軍の下の中佐として“効率的” な焼実弾爆撃の作戦計画作成に手腕を振るっていた。
日本の政治・軍事指導者を戦争犯罪人として裁いた極東国際軍事裁判 (東京裁判) とは、 いったい何だったのか。改めて考えさせられる述懐である 。
1992年、ドレステン爆撃を指揮したアーサー・ハリス将軍の銅像がロンドンの中心部に建てられた際、ドイツ政府は強く抗議した。
対照的に、 日本政府は1964年、ルメイ将軍に勲一等旭日大緩章を贈っている。航空自衛隊の育成に協力した、という理由だった。“東京裁判史観”の呪縛(じゅばく)がいかに強く日本社会の歴史認識をゆがめたかを示す、象徴的な現象である 。
警視庁のカメラマンだった石川光陽さんは大空襲直後の街の光景をカメラに収めていた。連合国軍総司令部(G H Q) にフィルムの提出を命じられたが、自宅の庭に埋めて、守り抜いたという 。
その一部、 黒焦げになった母子の写真などが、江戸東京博物館の 「東京空襲60年」のコーナーに展示されている 。
恒例の、東京都平和の日記念式典も、きょう催される。大空襲の記憶を風化させず、 語り継いでいきたいものだ。

『読売』編集手帳
「鳥も鳴かない。 青い草も見えない」。 焼かれ尽くし、満日荒涼たる東京・本郷の廃墟(はいきょ)に呆然(ぼうぜん) と立った23歳の医学生、山田誠也は日記に書いている。こうまでしたか、奴(やつ) ら」。 のちの作家山田風太郎さんである◆戦争だから恨みごとは言わないと、日記はつづく 。「われわれは冷静になろう、冷血動物のようになって、眼(め)には眼、歯には歯–血と涙を凍りつかせて、 きゃつらを一人でも多く殺す研究をしよう・・・」◆彼我の物量の差を知る後世の目で青年の所懷をわらうのは易しい。戦後の平和に慣れた日で報復の決意を難じるのは易しい。無差別の大量虐殺を日の当たりにして、だが、ほかに何を語り得ただろう◆60年前のきょう未明、米軍のB29がおびただしい数の焼夷弾(しょういだん) を東京上空から降らせた。 巨大な溶鉱炉と化した下町一帯で約10万人の命が奪われた。 東京大空襲を指揮したのはカーチス・ ルメイ将軍である◆日本政府は戦後、自衛隊育成の功労者としてルメイ氏に勲一等旭日大綬章を贈った。東京五輪の年である。高度成長の上昇気流に酔い、かって凍らせた血と涙の記憶を喪失したのだろう。人はときに、上に向かって墮落していく◆火炎と熱風をのがれて水辺に逃げた人の多くは酸欠死し、あるいは溺死(できし) し、凍死した。 遺体からにじみ出た脂で隅田川が濁つたという 。

【出典】 アサート No.328 2005年3月19日

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