【追悼】松江さんの変わらぬ姿勢
以下に引用するものは、1991年2月3日に大阪で開かれた「91フォーラム関西 社会主義・その根源を問い直す」というフォーラムで松江澄さんが最初の問題提起者として発言された一節である。
「私は1919年生まれです。…学生であれば軍隊に行かなくて済むと持っていた私は、在学中、二十四歳で学徒兵として徴兵され、中国の東北部、当時は満州と呼ばれていたソ満国境の戦線に投入されました。零下四十度ものなかでの訓練、あるいは初年兵としてのイジメのなかで、私の中に目覚めたフランス革命はもろくも崩れ去ったと、知らされました。私はこうした軍国主義、非人間的な軍隊生活に対して何も出来ませんでした。出来ないだけでなく、しようとする心、私のフランス革命は完全に消え去りました。
そして戦争と原爆の中で私は生きのびることが出来ました。敗戦後、私は広島の崩壊した街の中で考えたことは、仲の良かった学友たちの戦死、原爆で殺された私の親、兄弟や知人たちのいわば弔い合戦といいますか、それは精神的な弔い合戦でもありますが、労働組合運動、反戦、反核運動を経てまもなく日本共産党に入りました。
入党後の二、三年は共産党に熱中いたしました。しかし五十年分裂から極左冒険主義へと変転する中で、私は多くの疑問を抱きました。党中央を批判したため、私は二回の機関罷免、二回の除名を受けました。1961年、私は日共を去りました。私の去った理由は確かに綱領論争と意見の相違もありましたが、それ以上に批判の自由を圧殺し、真理は党中央にのみあるという考え、あたかも兵営にも似たあの一枚岩主義に対する決別でもありました。
それから多くの同志と一緒に社革(社会主義革新運動)に参加し、大結集に失敗し、いろんな挫折と経過を経て1975年に、前衛党再建のために、というアピールを出して活動しました。私は日共のニセ前衛党ではなく、本当の唯一前衛党があるに違いないと理想を追い続けたのであります。…」
ほんのこれだけの短い発言の中に、松江さんが生きてこられた時代の雰囲気、その世代に重くのしかかった軍国主義、敗戦後の労働組合運動、反戦、反核運動、そして社会主義・共産主義運動の問題が凝縮されていると、あらためて思い知らされる。
筆者が松江さんを知ったのは、「大結集に失敗し、」と言われている、1966、67年をピークとした、日共の路線とは異なる在野共産主義者の総結集運動のときである。その「統一懇談会」には、いつも広島から内藤知周さんと一緒に参加され、内藤さんが独特の鋭い生真面目な論陣をはられる横で、松江さんはあの柔らかな微笑をいつも崩さず、しかし眼は議論の成り行きを厳しく見守っているという姿勢であったように思い出される。この総結集運動は、党名をどうするか、頭部の人事をどうするかといった大詰めの段階にまで進んでいたのであるが、一部の政治的思惑によって頓挫してしまった。それは筆者にとっても苦々しい思い出ではあるが、果たしてそれが成功していたとしても、それが「唯一前衛党」論に立っている限りは、やはり政治的思想的に頓挫していただろう、と思われる。それは今だから言えることだが、そもそも「前衛」などというおこがましい手前勝手な論理に対する思想的理論的な批判精神が欠落していたという筆者自身の反省と自己批判でもある。民主主義に立脚しない社会主義などありえないことが立証されてしまったのと同様に、民主主義と「唯一前衛党」論は両立し得ないのである。
「91フォーラム関西」では、松江さんの問題提起に続いて筆者が発言し、「ブルジョア民主主義の断絶の上に社会主義を対置するという傾向、そして運動上においても共産主義あるいは社会主義、あるいは前衛的な諸名称を持った運動でないと、先進的、進歩的な運動ではないというふうなつかまえかた」を問題にし、僭越にも松江さんのブルジョア民主主義論に対する批判を試みたつもりであった。しかし優しさと包容力に富み、笑顔を絶やさない松江さんは、うなずき、「今日は本当に多くの方々の率直なご意見を聞かしていただきまして、フォーラムをやって良かったなと心から喜んでいます」と述べられ、「統一とはやはり、意見が違うもの、考え方が違うものが共に追求し、共に闘い、あるいは共に行動することだと考えています」と締めくくられた。これこそが松江さんの終始変わらぬ姿勢であったように思われる。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.328 2005年3月19日