【投稿】勘違いしている人も多いので

【投稿】勘違いしている人も多いので
                   
 6月に岩倉新さんから交流ページに書き込みをいただいた。
  「・・・今こそ統一要求、統一求で、広範な大衆行動で闘う時だとおもいます。かつての私達に戻って、セクト主義捨てて、大衆的な行動をもう一度作り上げませんか。だって新時代派でしょ。・・」
  思いは一緒だという気がします。でもちょっと私は違うな、と思っているんです。
  今回はこのことについて、これまでの議論経過も含めて書いてみたいと思います。
 
 第一に、岩倉さんの思いはよく分かります。今こそ大きな運動が必要だという点です。しかし、かつての「私達」には戻れないのです。少なくとも我々は、今「セクト」ではありません。かつての歴史はあなたもよくご存知の通りであり、我々の歴史は、日本の共産主義運動の中から始まっています。私もかつては、前衛党の再建という目標を持っていました。いまでも、戦前戦後の先輩達の熱情と辛苦に共感し、最近も「運動史研究」をまとめて購入し、戦前の運動経験を辿っているところです。思いは同じということです。
 しかし、もうセクトではないのです。前衛党主義は捨て去ったのです。前衛党主義と違う地平で何ができるのかという議論こそが必要なのです。
 
 かつての運動とは、どんな運動だったのでしょうか。市民運動の形を取りながらイニシアチブは、確保しておく、市民運動といいながらセクト別の運動体を作る。いわゆる「囲い込み」というものですね。市民運動の旗に並べて党派の旗が立つというわけですね。
 もちろん、我々が育った大阪では、こうしたことは皆無でしたが。(一度だけ思い出すのは、狭山闘争の大動員の時には、大阪府委員会の旗が出ていましたが)
 
 第二に、こうした視点で見れば、今、かつての私達と同様の「運動」を今なお、頑固に守っている皆さんと、同様の運動形態で共闘することなど考えられません。
 私も、職場で、また市民の立場で、様々な運動に関わり続けています。あくまでも個人と言う立場で、そしてその運動の独自発展のためにです。運動には発展段階があり、また目標設定や組織論など、その運動と団体の固有の利益と目標にとって何が大切か、何が求められているか、それをその運動体の固有の発展過程の中でのみ明らかにしていく献身だけは、誰にも負けないという気概は持ち続けてはいますが。
 少し極端な言い方になりました。「共闘することはありません」という言い方はね。もちろん、同様の考え方での「共闘」は有りうるということは了解いただけると思いますが。
 
 第三に、とは言え、岩倉さんの「アサートは少し元気がない」という指摘は、その通りかもしれません。前述の議論があまり進んでいないと言う意味で。
 「改題にあたって」に至る議論過程の中で、むしろ、「青年の旗」「アサート」を出し続けることに意味があるのか、という意見もありました。ある仲間が言った言葉が印象的でした。「我々は、葬式をしているんだ」と言うわけです。
 新しいものを生み出すための充電期間となるのか、まだ私にも分かりません。しかし、葬式をしてしまわないと生まれ変われないと思います。「前衛党主義」のお葬式が少し長くなっていますが、もう少しがんばってみたいと思います。少々意地になっている気もしますがね。 (佐野秀夫) 

 【出典】 アサート No.298 2002年9月21日

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