【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る

【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る
      『フェミニズムが問う王権と仏教──近代日本の宗教とジェンダー』
              (源淳子著、1998.7.31.発行、三一書房、2,300円)

「この国の近代思想の歴史は、(略)つねにその時代社会の権力に迎合する営みを繰り返してきた。近代日本の著名な思想家の仕事は、現実の意味づけに腐心し、その営みのために自己を保ち続けてきた。そして、そのような多くの思想家が、かつて天皇制にまつろうてきた自らの思想を、『終戦』に転嫁し、自らの責任を放棄し、新たな民主主義(現実)のなかに安住したのである。彼らの無責任な生き方は、近代天皇制国家の特徴である」。
「それはまた同時代を生きた知識人女性も無関係ではない。日本のフェミニズムも、戦争責任の問題を自らの文化や思想の課題として担ってきたとは残念ながらいえない。フェミニズムが自らの文化や思想との対峙をしてこなかったからである」。
このような問題意識から著者は、「思想のモラル」を天皇制と宗教の関係から明らかにしようして、その中で、天皇制とジェンダーの関係を位置づける。そして本書はこの点を、これまで問題にされることの少なかった、近代仏教に焦点を合わせて展開する。
著者によれば、「かつて真宗教団は、幕藩体制で『真俗二諦論』で仏法(真)と王法(俗)を使い分けた。その理由は、権力としての共存を計るための政治的な政教分離論であり、教義的には政教一致論をもって信者教化した。それが近代になって、幕府への随順が国家への随順に変更しただけであった。仏教は、『護法論』で『国体』に追順することになっていくのである」。
著者は、日本における仏教教団が、絶えずその時代の権力に迎合して自分の生き延びる道をはかってきたことを鋭く突く。このことは近代において、仏教が「新たな教学を生むことができなかった」こと、「仏教は仏教として自立することができなかった」(信教の自由=権力からの自由、が確立されなかった)こと、近代天皇制国家という「国家の宗教政策の前にひれ伏すことになってしまった」ことに示される。すなわち「反権力の鎮め役を仏教は果たしたのである」。
この仏教のあり方を政治的に徹底的に利用して、天皇制国家は、祖先崇拝と家族制度を近代的に完成させたさまざまな制度を構築する。すなわち「宗教が祖先崇拝を担い家族制度を補完しているということである。さらにその構造が、天皇制国家を支えるのである」。そしてこの究極の思想が「国体」となる。
「『天皇の下に同一血族・同一精神』の国民の帰一するところは『祖先』だという。これは国民に二重のよりどころをもたせることになる。ひとつは『天皇』(『国家』)、これが公的領域におけるよりどころである。そして、私的よりどころが『祖先』である。その両者が密接なつながりをもって国民を呪縛していく。天皇制の万世一系の徹底化である」。
こうした「国体」の思想は、個々人にとっては「個』を越える存在である「家」とこれを基盤とする「戸籍」制度による呪縛として現前し、「国体」の中心思想である「和」とは、その具体化として「それぞれが『分を守る』こととされる。夫婦の間においては、夫は夫の『分」を、妻は妻の『分』を守る」性別分業によって「美しき和」が成立し美化されるのである。すなわち近代天皇制のイデオロギーは、「個人の人権、とりわけ女性の役割を軽視する」構造を有する。このことは、女性が結婚して夫の家の氏に変えることではじめて夫の戸籍に入れてもらうことができ、離婚した女性が「戸籍を汚す」といわれた社会意識(=これは、個々の女性にとっては、「どんなことがあっても離婚してはならない」という意識の内面化となる)などに示される。著者は、「このような戸籍制度は、天皇制国家の狭隘な精神と同質である。天皇制と戸籍制度と家制度はまったく別のもののようにみえるが、相互に密接な関係をもって支え合っている」と指摘する。
さらにここで重要なことは、この「国体」によって軽視され抑圧された女性が、逆にその「国体」を支える最も強力な基盤とされたことである。この点については、次のように述べられる。
「ジェンダーの視点から『国体』を分析すると、『国体』の頂点に立つ存在は、天皇である。そして、その天皇からもっとも遠く底辺にあって、『没我と献身、慈悲と忍辱』(略)によって天皇にまつろい、そして天皇制を補完する役割を担わされたのが、『日本の母』である」。
そしてこの場合に、皇国史観に仏教的言説が重ねられる。すなわち「『母』とは(略)『み国の御恩』につかえる皇国の母であり、軍国の母である。その母に要求されたのが(略)『仮令身をもろもろの苦毒の中におくとも、(略)忍んでつひに悔いじ』という『仏』への信仰であった」。これは真俗二諦論を女性に適応させた教化であり、「母」と「仏」が「国体」によって結合され、「聖戦」と美化した戦争に加担する論理として機能した。そしてその本質は、「『国体』のなかで女性が『工場』として、つまり出産機能としての役割で認められるということ」であり、「その機能を『国体』は『母性』と捉える」(=「お国に捧げる子の母たる自覚と信念」をもつ母)と著者は指摘する。
このような「日本の母」が戦争中にプロパガンダとして利用され、それに対して当の人々のみならず、知識人女性でさえも有効な批判をなし得なかったことを著者は重大な戦争責任として批判する。
「戦後、(略)多くの『日本の母』は、戦争犠牲者として『日本遺族会』に吸収されていく。そして、その多くの母は、夫や息子がどのような戦争を戦ったかを知ることもなく、軍人恩給を受け取っている。15年に及んだアジア・太平洋戦争中、軍靴で踏みにじったアジア諸国への加害の事実を自らの問題として考えるという戦争責任に及ぶこともなかっただろう」。
そして、かつての「日本の母」に対する反省のないままに戦後日本の急速な経済成長の中で、新たな「日本の母」=「企業戦士の母」が存在することになる。本書はこのように近代天皇制国家のイデオロギーが、仏教を根底に置きながらいかにして形成され、それがまたジェンダー・「性」をいかに利用してきたかを問う。現代日本社会のあり方と深くかかわる問題を、日本人自身に即して内在的に批判する書である。(R)

(追記:本書の出版元・三一書房が労働争議のために出版活動を停止している。このため本書については入手困難な状況となっているが、機会があれば一読を要請する次第である。)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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