【投稿】生き証人・姜徳景さんを追悼して
以前に紹介したことのある映画『ナヌムの家』に出られていた姜徳景(カン・ドッキョン)さんが、この2月2日、ソウルの病院で亡くなられた。享年、68歳であった。いま、従軍慰安婦の存在を躍起になって否定し、あったとしてもそれは「商行為にすぎない」などと、過去の日本帝国主義の行為を弁護するゴーマンきわまりない人々、教科書から「従軍慰安婦」の記述削除を要求する藤岡信勝氏ら自由主義史観を標榜する歴史学者、自民党や新進党の時代錯誤な保守頑迷派の人々にとっては、手ごわい歴史の生き証人であった。
彼女は、映画の中でもはっきりと証言されていたように、まだ16歳の女生徒の時に、150人の級友らと共に勤労挺身隊の一員として、釜山から下関経由で富山県の不二越飛行機工場に連れてこられた。母親が必死で止めようとしたが、甘言と脅しによる事実上の強制連行であった。その後彼女は小林という憲兵に強姦され、1、2畳毎に区切られた軍隊の慰安所に連行され、強制的に慰安婦にさせられたのである。ハルエという名前をつけさせられ、毎日10人の兵士の相手をさせられ、軍の移動と共に慰安所も変わり、その後犯された相手は日に5人程度に減ったこともあったが、その総数は文字どおり自分でも分からない状態であったという。そしてお金も軍票もまったく貰えなかった。
2年後に日本は敗戦を迎えたが、その時、彼女は妊娠していた。18歳である。その若さで身体は深刻な病気に苦しまされ、子供は死亡し、一生が苦難の連続であった。従軍慰安婦であったことを名乗り出たのは、実に47年後の92年の冬である。翌年の93年12月23日、ソウルの日本大使館前のデモで姜さんは「私たちの人生は残り少ないけれど、若い人たちを信じて、たくさんの息子や娘たちを信じて、私たちが先頭に立って責任者を糾弾しなければなりません。処罰しなければなりません!」と訴えられた。
その姜さんが、日本政府が国家の責任において謝罪し、戦後補償に正面から取り組もうとしない姿勢を厳しく批判し、「女性のためのアジア平和国民基金」の受け取りも拒否されたまま亡くなられたのである。
ひるがえって、今、日本国内では一部ジャーナリズムが一斉に歴史を逆行させるキャンペーンを張り、右翼の街宣車が教科書会社に押し掛け「教科書が直るまで何度も来る!ぶっ殺してやる」などとがなりたて、執筆者には「冥土の飛脚」なる脅迫状を送り付け「偏向自虐的教科書の出版は、国家転覆陰謀罪を構成いたします」等と述べて、「一人の至誠」で殺人をほのめかすことまで公然とまかり通っている。「新しい歴史教科書を作る会」の呼びかけ人や賛同者には、藤岡・東大教授を先頭に、作家の林真理子、井沢元彦、藤本義一、漫画家の小林よしのり、加藤寛・千葉商科大学長、山本・富士通会長、賀来・キャノン代表取締役、住友電工の亀井正夫ら、そして草柳大蔵、長谷川慶太郎氏等、7、80人のそれなりの人々が加わっている。馬脚が現れたというか、あきれたものである。
そして、このような状況が繰り返し出現してくるのは、日本社会の中にそれを許す土壌が厳然とあるからだ。「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」等の動きを憂慮する在日朝鮮人のアピールは、以下のように主張している。
ーー私たちは、「つくる会」等の動きを、一部の特殊な人々のものだと軽視することはできない。現に彼らの著作は書店に高く積み上げられて無視できない多くの読者を獲得しており、一部マスコミは彼らの主張を執拗に代弁し続けることで世論を誘導しようとしている。最近では日本社会のいたるところから、「従軍慰安婦という制度は存在しなかった」などという声までが聞こえてくる。「従軍慰安婦」記述の削除を求める決議を採択する地方議会も現れた。こうした流れは、このまま放置すれば危険な排外主義に転化しかねないものであろう。日本社会はそれをくい止めることができるのだろうか。
私たちは彼らの言説や行動そのものよりも、現在の日本社会の中にそれを産み出し受容していく素地があることに強い危機感を覚えるのである。ーー
私たちは問われているのである。連日のように報道される「従軍慰安婦」問題に対し、「またか・・・」で済ますのではなく、上記のアピールを発表されている「憂慮する朝鮮人」の方々の切望に応え、「真実を隠蔽・歪曲しようとする人々の『歴史に対する暴力』を許さない声」をもっと上げていかなければならない。
(大阪・田中 雅恵)
【出典】 アサート No.231 1997年2月15日