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青年の旗 1979年4月1日 第26号
青年の旗 1979年4月1日 第26号
【主張】 統一地方選、”保守回帰”を許すな
<革新分断、自民・中道連合路線>
三月一四日の東京・大阪をはじめとする一五都道府県知事選の告示を先頭に、第九回統一自治体選挙がスタート、現在激しい選挙戦が闘われている。
政府・自民党は、「信頼と合意の政治」「田園都市構想」を掲げて、「革新自治体の時代は終った」「地方政治にはイデオロギーは不要。保守も革新もない」として、今回の選挙を″争点なき選挙″ に仕立て上げ、深まる保守の危機を、革新の分断、野党の取り込みによって乗り切らんと、全力を傾注している。とりわけ公明・民社両党を保守補強勢力として一層転進させるベく、自民・中道連合路線を前面に押し出した選挙戦を展開している。
これに呼応するかのように、公明党はすでに一月党大会で″中道・保守連合政権は可能だ」 (竹入委員長)として、結党以来はじめての予算案賛成の態度まで打ち出し、「革新自治体、清算の時期」とまで公言しだしている。民社党に至っては「革新知事の名の下に問題が山積してきた東京・大阪で変化を起こさなければならない」 (向井副委員長)として、何よりも自民との連合にすべての重点を置いている。この結果、公明党は、前回統一地方選では自民と連合した知事選は福井の一県だけであったが、今回は八都府県で自民と連合。民社に至っては、前回六県知事選で反自民であったが、今回は反自民はゼロとなっている。かくして、前回は四県知事選で自民対全野党の対決が闘われたが、今回はそれがゼロとなり、代って「自・公・民型候補」激増している。
これらの事態が、プレ統一地方選七県知事選の六県で保守の勝利をもたらし、自民をして「最近の政治情勢は、幸いわが党に有利に展開しており、これを″保守回帰″の傾向とする見方もある。しかしおごる気持はいささかもない」 と語らしめ、「とくに東京・大阪、日本の顔ともいうべきこの二大都市の知事選挙は、統一地方選挙における象徴的な選挙であり、何としても勝ち抜く」と言わしめている。
自民党は、今回の統一地方選を″TOKYO作戦〃「革新自治へとどめの一撃を!」をスローガンに、東京・大阪・京都・横浜・沖縄の首長を″革新″の手から奪い返す、まさに対決選挙として位置づけているのだ。
<反自民・反独占の対決の闘いへ>
保守・中道、そしてマスコミが流布する”乏しい政策の戦い”、”薄らぐ保革対決”とは、実はその裏に、保守にとっての重大な政治決戦をこそ内包しているのである。
対決さるべきは、「明るい」とか「活力ある」とかいった一般的抽象的政策の羅列にあるのではなく、首切り、人減らし、賃下げ、合理化、中小零細企業の切切り捨ての下で”減収増益”から、史上最高の”増収増益”をまで、財界、独占資本にもたらした政府独占の不況打開策を許すのか否か、福祉切り捨て、公共料金一斉値上げ、そして最も重大な一般消費税の導入を許すのか否か、軍事費の膨大な膨張、自衛隊の増強、元号法制化・有事立法・反ソ領土要求・冷戦外交・政治反動化・中央直結・地方自治破壊・独占本体のプロジェクトヘの地方行財政の動員を許すのか否、等々まさに政府・独占資本との対決は、きわめて具体的に提起されている。
今こそ労働者階級、社・共をはじめとする革新勢力、民主勢力の指導性、反自民・反独占の統一へのケン引力が強く問われている。社共の議会主議と民族主義の動揺は、反動勢力の攻撃の前に、反自民の統一を常に不安定にし、破壊し、議会主義的セクト主義を横行させてきた。ここ数年来、教師聖職論、公務員公僕論、スト反能否定論、全金・動労等への組合分裂攻撃等々労働運動の弱体化と分裂、反解同キャンペーンの下で差別感情をあおる反動的分断攻撃に狂奔してきた共産党指導部の責任はとりわけ重大であり、反自民・反独占の統一へ大きな否定的な影をおとしている。
”保守回帰”を許さぬ闘いの原動力は、何よりも労働者階級の闘い、勤労大衆の大衆闘争にこそあり、その統一への指導性にある。
都知事候補の太田薫氏が「国に要求をつきつけ、自民党と対決し、必要なら都民とともに座り込みもやります」と積極的に語る時、それが広範な大衆闘争として展開される時にはじめて巨大なカとなり、自民・中道連合による政治の右傾化を阻む力となることができる。我々はこの闘いのために全力を傾注しよう。
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青年の旗 1979年3月1日 第25号
青年の旗 1979年3月1日 第25号
【主張】 中国のベトナム侵略を糾弾する
<計画的で本格的な侵略行動>
二月十七日、突然開始された中国軍のべトナム侵略行動は、「限定的な軍事行動」という弁明にもかかわらず、今や長期化の様相を呈し始めている。
何故なら、十四日中国当局者は「全軍の撤収はきょう・あすにはない。べトナムにはもう少し”教訓”を与える必要がある」と述べ、侵略継続の方針を確認すると共に、撤退の目安となる国境線問題についても「当然中国が主張する国境線」だとし、侵略以前の国境線を守らず″この機会に領土拡張も〃という露骨な”覇権主義”を表明しているからである。
もともと、今回の中国の侵略行動は、ベトナムの中国領土侵犯に対する”制裁”という中国側の見え透いた言い訳に基づく一時的な「反撃」ではない。
鄧小平の帰国を待って決定されたこの侵略行動には朝鮮戦争当時の義勇軍司令官が最前線の指揮をとり、歩兵・砲兵・戦車を含む大部隊を投入し、長距離砲や重火器を使用し戦闘機の援護の下に、各省・軍基地の占拠・侵攻が進められており、この行動が計画的で本格的であることをよく物語っている。
中国がべトナムに対し軍事侵略に踏み切ったことによって、中国の世界政治における立場と役割が、今までになく鮮明なものとなっている。つまり、カンボジアでの民族民主連合政権の誕生によって一層前進したインドシナ革命と、ベトナム・カンボジア・ソ連など東欧社会主義諸国の同盟強化の中で、衰退する自国の政治的影響力・権威を挽回する為に米・日帝国主義と同盟を結び、反ソを煽り、世界各国での反革命行動を援助し、けしかけるという、血迷った民族主義・覇権主義が中国指導部の基本的立場だということをである。
<決定的な中国の孤立化>
しかし、この中国の野望と暴挙は成功することはないだろう。ベトナムの国境警備軍を簡単に打ち破れるという中国側の予想をはるかに上回る戦闘力がべトナムにはあることを米軍の情報筋でさえ認めており、焦点のランソン省も、圧倒的多数の中国軍をもってしても陥落されていない。
その上に、中国の国際世論における孤立は決定的になっている。以前の盟友アルバニアも非難しており、社会主義諸国でさえ、公然とは支持できず、「べトナムのカンボジア侵略」というありもしない口実と抱き合わせではあるが、中国の行動を”侵略”ときめつけ、その撤退を求めている。
Lかし、帝国主義者たちは、中国のこの愚挙に心中拍手を送っており、出来ればこの機会に社会主義の威信をおとしてやりたいと願っている。つまり、米国や日本の政府は、ベトナムもカンボジアから撤退すべきだというケンカ両成敗論に基づく筋ちがいの要求を持ち出すことによって、今回の紛争の原因があたかもベトナムにあるかのような印象を与えようとしている。ジャーナリズムは勿論、日本では社会党までがそれに同調しているのはゆゆしき事態である。
両成敗論は、米日中反ソ同盟を結び中国の加担者となり、ベトナムには援助を打ち切るなどの”制裁”を主張した日本政府の責任を免罪するものであろう。
わわわれは、今こそ中国がベトナムから即時全面撤退する事を求めるとともに日本政府が中国に武器を含む援助をせぬよう求めて大衆行動を起こす時だ。
カテゴリー: 青年の旗
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青年の旗 1979年2月1日 第24号
青年の旗 1979年2月1日 第24号
【主張】 不況・雇用危機と闘う79春闘の課題
七八年の労働組合運動は長期化する不況の中で、その諸矛盾を一方的に労働者階級に転嫁する政府独占資本の賃金抑制首切り合理化攻撃の前に後退を余儀なくされてきた。
この結果、労働者生活は四年連続の実質賃金の低下による生活危機・完全失業者一二五万人という雇用危機にさらされている。このような中で、いかにして労働者の闘うエネルギーを結集し、反撃に転ずるか、これこそ七九春闘の課題である。
<問題意識の方針化を>
すでに労働組合の各指導レベルでは、春闘再構築論が展開されている。その内容は、大産別構想と実質賃金の維持向上を内容とする総合的生活改善闘争論が中心である。
しかし、残念なことにはこれらの問題意識が春闘共闘や各ナショナルセンターレベルでの方針には生かされておらず、旧態依然たるバターンに終始しており、賃金要求についても、実質賃金の維持向上の一点で一致しているものの、その認識内容はバラバラであり、要求段階からすでに分散分裂春闘である。
又、政策制度闘争については、その柱を雇用保障闘争へ解雇規制・失業補償・雇用創出)におき、とりわけ雇用創出闘争に重点をおいて取り組まれることになっている。
だが、賃金闘争・反合闘争の今日的困難さからの活路を政策闘争に求めるとすれば、それは本末転倒である。
闘いの展望は、職場闘争を土台に産別闘争の強化をはかり反独占闘争への発展の中で切り拓かれる。そのために企業別組合の弱点を克服し、産別に向けての闘いの強化と全労働者階級の統一をめぎす闘いは、今こそ重要である。
<重点的課題は何か>
それでは当面する七九春闘の中で、何に重点を置いて闘うべきか。
まず、賃金闘争では、実質賃金確保のために、物価上昇は勿論のこと、経済成長に見合う賃上げは確保される必要がある。その意味で十二%以上の賃上げは当然かつ最低限の切実な安求である。
そして、この間に拡大された産業間・企業間の賃金格差(分散系数は〇・二で、1955年~59年の春闘発足当時に逆戻りしている)を解消し、賃金水準の統一的引上げを図る戦いが同時に強化されなくてはならない。
そのためには、政府独占の賃金抑制・分断攻撃と対決し、労働者生活を防衛し産別闘争を基礎とした個別賃金水準の社会的相場形成が追求されなくてはならない。このことは、企業の支払い能力や賃金コストを反映するベースアップ方式から、同一年令・同一条件の労働者について産別労組の統一基準にもとづく個別賃金方式への転換等による産別の賃金決淀機構確立をめざす闘いを意味している。
さらに、この個別賃金水準の相場化を最低辺で支える産別最賃の確立の闘いは急務である。
次に、雇用闘争については、同意約款を含む雇用保障協定・要因確保・作業量スピード規制等の労働密度の規制・時短などを、闘いの柱として、労働条件の産別規制の闘いを取り組まねばならない。
とりわけ、時短闘争に重点をおくべきだろう。
国民春闘共闘の試算によれば、完全週休二日制への移行によって新たに一六〇万人の雇用を確保し、又、ある銀行の調査によれば、所定外労働時間の規制によって三七九万人の雇用が創出され、有給休暇完全取得は九九万人の雇用を保障するとされている。
この意味で、時短闘争は雇用を積極的に創出する攻めの要求闘争だといえる。欧米諸国と比べ、著しく遅れているこの課題に、今春闘では特に力を入れて取り組むべきであろう。
開始された七九春闘の勝利と春闘五連敗阻止に向けて、青年労働者の今一層の奮闘が要請されている。
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【民学同の歴史】民学同十五周年と学生諸君への提言
【民学同の歴史】
<民学同十五周年と学生諸君への提言>「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
民学同十五周年と学生諸君への提言
高 橋 春 男
一九六九年春に長かった大学生活をおえて実社会に飛び出してすでに九年、最近では時折目にする新聞「新時代」と職場の同僚である若い民学同のOBのH君から、ごく断片的に学生運動について聞くだけで、現役の学生活動家諸君に何か積極的発言をすることなどできない。ここでは民学同・労働青年同盟(準)の活動に関わる二・三の点について、以下提言したい。
(一)
民学同創設十五周年ということを聞いて、まあよく頑張ってきたなあ、というのが率直な感想である。一口に十五年というが、大阪府立大学の片すみで開催された創立大会に参加した六〇数名の同志諸君の多くは、何人かの子供の親となり、生活苦にあえぎながら、それぞれの職場で重要な位置を占めて活動している。民学同という社会運動の予備校を卒業した同志はおそらく、数千名に達し、彼らの活動力の潜在的大きさは、実に大切を社会的財産となっている。
民学同が幾多の苦難をのりこえ、十五年間一歩一歩成長をとげてきたという、厳粛な事実は、民学同がさまざまな方法で日本の学生層の深部と結びつき、学生の要求と希望を体現しうる歴史的存在であるということを実証している。民学同の趣意と規約、経験と気風、同盟員相互の友情、先輩と現役諸君の信頼が今後のあれこれの局面の変化とともに生じる対立や内的緊張にたえ、同盟の針路を正しく復元させるに十分なものであることを期待しないわけにはいかない。政治的・社会的・イデオロギー的な矛盾とアツレキを最も鋭敏に反映する学生運動には、この運動固有の業病がある。それは、相矛盾する諸傾向が錯綜する複雑な社会現象のただひとつの面と、ただひとつの契機を不等に一般化する主観的な判断と、それに基づく急進主義と政治主義的ひきまわしがくりかえし現われるという事情である。われわれはこうした業病を克服するのにきわめて高価な代償をはらった。
十五年の歴史をふりかえってみて、こうした苦難を克服する上で最大の力を発揮されたのは小野義彦先生と故森信成先生の理論的・思想的指導にあったといっても決して間遠いではあるまい。あれこれの時期における日本経済の諸矛盾を具体的に分析し、それにもとづき平和共存・反独占民主改革の具体的適用を示す小野先生の分析の力量と発想は同盟員の成長と指導的幹部の継承性を保障した不可欠の要因であった。先生の理論の運動論的含意は最反動の敵に打撃を集中し、その社会的政治的基盤を切りくずし、多種多様なあらゆる勢力のエネルギーの最大限の統一を追求するという統一政策にあるように思われる。大衆的性格と目標の具体性こそ闘争の戦闘力をはかる基準なのである。
十五年の歴史における故森信成先生の学恩も忘れられない。マルクス主義と革命的民主主義・近代合理主義との合法則的継承関係を力説した先生は、主体性論と非合理主義に対する徹底的な批判者であり、同盟員の科学的世界観の形成と民主的理論の修得の最大の激励者であった。学生時代、のまず食わずで学園を走りまわり、真夜中に小野先生宅に突然飛びこんで、先生の助言を求める。「めし食わせ役」を自称するみどり夫人が、さっそく胃袋をみたしてくださる。こうした体験をした民学同の活動家も多いに違いない。杉本町の森先生の市営アパートに何人もの学生が泊まりこみ、先生のアパートは大阪市立大学全学自治会選挙の応援の根城と化した。先生自身の身のおきどころがなくなり、どこかに消えたということも再三だった。ともあれ、両先生の公私、あげての民学同の発展に対する支援は、いいようもなく大きい。民学同の若い諸君が両先生の著作と本格的に取り組むよう切に期待する。
(二)
矛盾した傾向が錯相した社会現象と述べたが、支配階級の内部矛盾、国独資下の政治闘争と経済闘争の連関、中間層と「中道」政党評価といった一連の問題を論ずる際に、これまでもくりかえし一定の偏向が生まれた。
ここでは中間層の問題を一例にとり上げてみよう。この点についてもわれわれの周辺に時に一面的判断と混乱が生じる。
日本共産党は「中道路線」を批判してこういう。「それは、自民党や公明党などによる革新分断の策謀と現体制擁護的な保補連合路線の実態についての、たえざる暴露と批判、同時に革新の大義を高くかかげ、あらゆる妨害を排して断固としてたたかいぬくことによってのみ、切り開かれる」(佐々木一司編集長「自公民路線の先兵-公明党」、『前衛』一九七八年七月号・五〇貢)
これに類似した意見がわれわれの友人のなかにもある。公明党や社民連を「得体の知れぬ政治集団」と規定し、中道諸勢力に対して非妥協的姿勢をとる社共の統一戦線形成を訴える主張がそれである。年初来の公明党の右旋回、自衛隊是認と有事立法をめぐる動揺が真面目な活動家の強い噴激を引きおこすことは十分理解できる。だがこうした気分に屈伏して、反独占闘争の戦略的展望のなかで、中間層とそれを代表する政党と労働者階級との同盟と協力の可能性一般に対する懐疑にまで議論をおしすすめてはならないのである。
中間層は独特の経済的・社会的特徴とその発展段階に応じてさまざまな層やグループから形成され、この層は本来動揺的で、あれこれの問題でジグザグを繰り返えす。だが、独占支配とそのもとに形成される深刻な矛盾と構造から労働者階級と中間層の経済的・社会的利害は一致し、客観的に共通の目的を担うことができる。今日、社会主義への移行の過渡期において恒久的を同盟の可能性すら真剣に追求されなければならないのである。
反独占闘争は必然的に反動の反揆を誘発する。この場合大切なことは広範な中間層大衆を敵の立場に追いやるのではなく、むしろどの局面においても人口の多数の同意を受けるような注意深い政策を追求することなのである。
社会党の中期経済政策のなかの「社会的消費手段の社会化」というスローガンが論議をよんでいる。このなかにも対中間層政策として再検討を要する問題点がある。医療供給、交通システム、住宅供給の社会化を性急に求めている点である。消費生活の領域はおそらく社会主義のもとでも全面的社会化は至難な筈である。だとすれば、現局面において医療制度の改革のなかで開業医との協力をあらかじめ断念することは正しいのか、公共交通優先を力説するあまり反文明論的アンティマイカー論は首こうできるのか、公営住宅の払い下げを求める市民の願いは小ブル的反動なのか。
チリ革命の敗北以後、中間層評価の問題は国際的理論研究においても中心的位置を占めてきた。今日多数の意見によればチリー人民連合の欠点は中間層・農民との協調を訴えていたが、長期にわたって中間層と協力する社会経済上のプログラムをもっていなかった所にあったといわれる。中間層との同盟に際して、長期にわたってその利益を守るプログラムが絶対に必要であるというのがチリーの悲劇の教訓なのである。こうした教訓を生かして、中小企業運動(具体的には中企連や大企連だが)にも大胆な発想の転換が求められているのではあるまいか。話を民学同の問題にもどそう。
(三)
民学同の歴史は、すでに日本の進歩的社会運動の一角に消すことの出来ない社会的財産を残している。民学同の卒業生、あるいは同盟と密に協力した友人諸君が地域や職場で果している役割の政治的全体図を知ることは出来ないが、散見するケースを見ただけでも相当なものだ。教員・自治体の職場あるいは造船・金属の職場で闘う仲間、部落解放同盟大阪府連の多くの活動家、関西労働講座に結集する労働青年、全国的な政治的影響力を持つ運動体の中心部隊として閥う仲間、広告会社の組合幹部として闘う真面目ひとすじのEさん、大阪の青年運動をリードし将釆を期待される社会党のTさん、二四時間労働運動をみつめる若いオルグのTさん、上田卓三後援会でむずかしい地域活動に苦闘するIさん、Yさん、Uさん。いのくら生協のFさん。埋蔵文化財保護ととりくむIさん。在日朝鮮人の権利擁護に没頭するGさん。新聞編集にどっしりかまえたSさん。東西貿易の戦線で孤独な闘いを進めるGさん。中小企業運動にとびこんだUさん。大阪の社会運動の条件と特殊性に応じてさまざまなやり方で民学同の先輩たちは一歩一歩大地にしっかりと根をおろしてゆく。
東京での先輩の活動もようやく軌道に乗り始めたかにみえる。こうした活動を通して民学同とはまったく異った経路で成長して闘う多くの活動家との実りある出会いの輪が広がってゆく。松原市のSさん。泉州労連のMさん。さらに郵便労働者の集団。おかれた環境も具えば、課題も異う。各地域・各戦線に広がった活動家群とその運動をどのようにして有機的に結びつけ、その潜在力を更に拡大するためには何が必要なのか。これが、今日の運動の緊急の関心事なのである。
率直に言って、大阪におけるこうした活動家の広がりと運動は労働青年同盟(準)の枠をこえている。しかも、多くの場合そうした活動家のエネルギーと実践がいくつかの注目すべき成果を生みつつあることもまた否定しがたい事実なのである。この場合、大切なことは、労働青年同盟(準)の枠に固執するものではなく、内外の運動を統合する積極的イニシーアチブを行使することである。こうした、社会的財産は誰か一人の所有物でもなければ、特定大学の卒業生のせまい友人の世界に帰属するものでもない。多くの活動家は十数年の歴史によっで形成された諸グループの指導的幹部相互間が民主主義以上の相互信頼を作り上げ、政治的指導を強化することを切実に求めている。このためには、共同の目標に向かった共同の作業の積み重ねが絶対に必要である。具体的にいえば、次の二点についてぜひ真剣に検討する必要があるのではないだろうか。
第一には、新聞の一本化である。「新時代」「青年の旗」は少なくとも一本に統合し、そのための共同編集部を作るべきではないのか。基本的な政治的方向の同一性が、以上二紙を統合し、単一の政治新聞を発刊する前提であるが、二紙を比較検討するまでもなく、そのための条件は存在すると断定できる。最近の数号だけみても、内容上の重複が多く、人と金の分散をこれ以上続けることはがまんできないと思うのは私だけではあるまい。私見によれば、新聞の名称は「知識と労働」「平和と社会主義の旗」といったものではどうだろうか。共同編集体制を通じて、学生運動に対する理論的思想的指導の強化のための条件が生まれ、学生運動の安定性と継旛怪を確実にすることができよう。関西の労働青年同盟(準)の指導的幹部が「青年の旗」の刊行に力を奪われ、学生連動に対する指導が事実上放置されているかにみえるが、いったいこれはどうしたことなのだろうか。また、新聞の一本化によって運動の多面的現実をより豊富に紙面に反映させることが可能となるであろう。
第二は、雑誌「知識と労働」の編集体制・発行方法、配布・販売方法、さらには編集方針をあらいなおすこせである。現状は「知労」を求める多くの活動家の要請に応えているとはいえない。労青(準)・民学同・解放唯研・知識人の構成で編集部をつくり、常設事務局をおく。発行は「知識と労働」社で行い、政治諸組織との直接的結びつきは絶ち切る。おそらくここまでの所は、最近数号の編集実務の実体である以上、誰も否定出来まい。解放唯研の「知労」配布部数、S先生・F氏の編集実務への協力がなければ、とても十九号まで続けることも困難だったと思われることも知る人ぞ知るというところである。これからの「知労」はおもい切って各潮流の相互討論を公然と組織しうる討論詰でなければならない。誤解をおそれず、あえていえば六・四の哲学でいいのではないのか。我々の見解はまあ六割のれば、あとの四割は少々異論があるものが乗ってもいいのではあるまいか。公正で民主的世論が勝利するように、批判・反批判の論文・意見に最大限のスペースを与えることが必要なのだ。「知労」の読者の目にとまる機会の無いすぐれた論文・闘争報告も多い。「労働運動研究」、「火花、「方位」、「香川文化通信」、「平和と社会主義」、「思想運動」、「社会評論」などに掲載される多くのグループのすぐれた成果をおもいきって転載し、相互批判の対象にする。「知労」を求める声が民学同・労働青年同盟(準)をはるかに越えて広がっているという現実を念頭に入れれば、しかも、そうした活動家の活動条件が政治的・組織的に多様であることをふまえるならば、政治組織とは自立した「知識と労働」社の出版という形態が特に重要であろう。「知労」の政治機関誌化と称して、その実、労働青年同盟(準)グループだけのサークル誌に転落するようなことがあっではならないのである。
年四回の刊行を実現し、そうとう部数を書店を通して販売するといった方向を追求する
ことは当然のことである。ただし、・現在の条件下で、「知労」八・九・一〇号当時に顕著にあらわれた総合雑誌的方向を追求することは通俗的で正しいものではあるまい。小冊子的形態でもよい。大事なことは、諸グループ間に本当の討論の場を提供するという「知労」を作り上げてゆくことである。五〇〇〇人の党員をかかえ、半世紀の伝統をもつアメリカ共産党が、今日でも驚ろくほど簡素な小冊子風の機関誌を確実に月刊で発行し、活発な討論を組織している姿に、みならうところが大きい。
(四)
政治新聞に関係して、民学同の組織形態にも検討を要する問題がある。民学同の文書のなかで、とりわけデモクラート派との分裂の前後から単一学生同盟論とか青年同盟論とかが何か一人あるきしているかに見えるといったら思いすごしだろうか。
民学同創立を前にして、組織名称を民育統一派でゆくか、それとも民学同でゆくかという点について議論があり、何度か民育統一派として学生大衆にビラを配布したこともあった。私の理解では、学生同盟を選んだ理由は当時われわれの周辺には、平和共存と反独占民主改革の立場に立つ党内勢力が大阪唯研の少人数の知識人と数大学の学生細胞の先輩諸氏より他に見当らなかったという単純な事情によるものであって、どうしても学生同盟でなければならないという積極的論拠に支えられたものではなかったのである。
ひいて理由を上げれば、六〇年安保闘争当時、大衆的学生運動の可能性を否定し、党の路線を大衆団体である学生自治会に押しっけた日本共産党の学生運動指導と激しく抗争したわれわれの先輩の大衆団体の自立性を最大限尊重しようという決意がそうした選択の背後にあったのであろう。つまり、学生運動の特殊な諸条件をフルに発揮するうえで学生同盟がよりいいのではないかという見地から仏・伊の経験なども研究したのであって、どうしても学生だけの組織でなければならをいといった強い主張でなかったと記憶している。
過去十数年、大学の社会的性格は大きく変貌した。学生層全体の生活の諸条件は勤労階級のそれと着るしく接近し、融合している。一方、学生層の政治的敏感性と行動性、様々な思想的対決が公然と展開される学園の精神的環境、青年期特有の激情と正義感、経験の蓄積と幹部交替の困難さ、学生であることの当然の帰結である知的・政治的未成熟-学生運動を特徴ずけるこうした要因は、学生組織が労働階級の組織としっかりと結びつき、適確な指導が存在することが、学生運動の発展にとって何よりも必要であることを示している。
事実、あれこれの局面の変化の度に発生した対立や論争を解決する際、ほとんど必らずといってもよいほど先輩の指導やら、知識人の助言を必要とした。しかもこうした先輩の指導は多くの場合有難たかったし、有益だった。恐らく現役の民学同の同盟員諸君もこうした形で、多くの内的緊張と危機を克服しているであろう。また、少なからずの数の指導的学生運動家の留年やら退学といった自己犠牲も、率直にいって学生だけの組織であるということにその原因の一端があるのであろう。
卒業生やら友人がさまざまな分野でようやく一定の政治的力量を結集させつつある今日、十数年前の条件下に選択された組織形態である学生同盟論に固執せず、動労青年と学生が同一の組織で協力しあう組織形態もひとつの選択枝として真剣な検討を始めてみてもいいのではないだろうか。もちろんこの際、学生運動の特殊性をフルに発揮する指導のあり方に万全の配慮が必要であり、先輩の指導は主として理論的・思想的側面に力点がおかれなければならないのは当然のことである。
(五)
トリアッチはかって「大衆の活動を組織する能力こそ、本当の政治路線をもっているかどうか、党内に統一があるかどうか、本当の規律があるかどうかを決める規準なのである」と述べた。こうした能力を作り上げるに必要とされる政治指導と新聞・雑誌の編集方針は当然のことながら、具体的情勢を具体的に分析し、それに基づき闘いの合い言葉を示すものでなければならない。そうでなければ、第一線の活動家の苦闘に答える実践的指針などとても不可能であり、指導部・編集部と活動家との本当の交流と信頼を固めることなどおよそ考えられないのではないのか。「デモクラート」派との分裂に際し、彼らの主張の眼目であった「部分的要求に常に根本的要求を並置しなければならない」という尊大な説教がその後いかに多くの活動家を悲惨な孤立においやったかを他山の石としなければなるまい。
学生運動出身の活動家の中には、時にこうした革命論議一般に傾斜する傾向が強い。こうした傾向は、不況と反動攻勢の対極に累積される大衆のさまざまな分野におけるエネルギーをときはなし、運動の前進に具体的に寄与しようとする最も困難を課題から一歩距離をおき、傍観しかねない、しかも、いささかも実践的気迫を感じさせ巧い偏向であるといったら酷であろうか。
研究と討論を用する緊急の理論的・実践的課題は山積している。大阪府知事選では黒田か岸か、それとも第三の候補か。新関西空港の建設に賛成か反対か、保留か。解雇規制の条例制定運動は是か否か。大阪での生活密着・福祉優先型の公共投資とは何か。社会党の中期経済政策は革新の反恐慌政策たりうるか否か。中道勢力は敵か味方か、切りくずしの対象か。
要求の具体性は大衆をゆさぶる。大衆運動の現実の推移があれこれのスローガンの当否を検証し、大衆運動の鉄火は指導者をふるいにかけ、本当の指導者を前面にたてる。理論は実践に従属し、実践的要求が理論のあれこれの側面の生き生きした研究を命ずる。現実の闘争の内容豊かな諸形態を一つ一つ研究し普遍化しうる方向をつかみとり、それをはっきりとスローガンに表現することが科学の任務である。
我々には、依拠すべき綱領的(プログラム)諸文書がある。一連の国際共産主義運動の諸文書がそれであり、日本共産党の第八回大会綱領(重要な修正は必要だが)、民学同の趣意、「知労」創刊の辞、あるいは、小野先生・森先生・吉村先生らの著作、さらに我々の友人・先輩の知識人・運動家の理論的成果も数え上げることができる。問題はこうした諸成果を具体的実践に応用し、大衆を組織化することである。
プログラム一般やら過渡期の権力形態について関心の中心であってはならないのである。
だからといって、革命の戦略・戦術にかかわる理論的研究の独自的意義を無視しているのではない。むしろ、こうした研究の重要性を理解すればするほど、我々の共通の財産たる綱領的諸文書のいかなる箇所が、いかなる理由で修正の必要があり、いかなる規定に発展させる必要があるかというぐあいに、具体的かつ限定的に問題を提起することが必要なのである。
時間と枚数に限りがあり、ごく二・三の論点にしかふれることが出来なかった。民学同の学生諸君の事業がさらに前進することを心から願ってお祝いの言葉とする。
(編集局…筆者は同盟第四回大会より、六〇年代中期に全国委員長(当時)を務めた。また本稿は、前号に掲載したものを加筆・修正し、再録した。)
【民学同の歴史】歴代・同盟東京都委員長の思い出
【民学同の歴史】<特集:民学同15年の軌跡より>
歴代・同盟東京都委員長の思い出
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
〈以下は、先日、東京で開催された〝同盟創建十五周年記念集会″での、歴代東京都委員会委員長・その他の諸先輩のあいさつを文章化したものである。尚、初代都委員長あいさつは、本号前項に掲載〔-文責は編集局)
M・T氏
皆さん今晩は、Tです。
今話された、Mさんなんかが東京で民学同という組織をつくられて、僕たちの世代は、御存知の通り、六八-六九年の学生運動の非常に高揚した時期、そういう時期の中で、都同盟というものに対して指導してきた、そういう時代ですね。まあ、十二回大会はもうちょっと後で話されると思いますが、Y君なんかの時代だったと思います。六八-六九年の一つの大きな成果、学生運動の成果は、現実的な学生運動をつくり、それが今の民学同を非常に大きくしてきたというふうに思います。
今、Mさんがちょっと思い出話みたいなものを話されましたけれども、(僕の場合も)たいした変わりのないもので、僕が民学同に入った時も、わけが分からない。僕はR大だったんですけれども、先輩に何かわけが、わからなかったんですけれども学習会に来いと言われまして、ついていったわけです。学習会に出ましたら、ちょっと選挙があるから手伝ってくれということだったので、僕なんか人が良いもので、あーそうですか、というふうに非常に素直に手伝いをした。そうすると、ある時、ちょっと喫茶店に来てくれないか、という話で、今もまあだいたい同じ様なことだと思いますが、Mさんだとか、Yさんだとかが釆まして、自分達は民学同という組織なんだ、お前もも入れ、と言われたんです。入れ、というふうに言われてもどういう様に入って、やっていくのか分からないので、しばらく考えさせてくれ、といったんですが、こういう問題は考える問題じゃあないからなあ、と言われましてね。今はよく覚えていないけれどだいたい二時間位粘られましてね。しようがないから入った方がいいんじゃないか、と思いまして入ったんです。当時は六八-六九年の時代、僕は六八年だったんですけれども、六八年という年は全共闘運動が非常に盛んな時期で、日大全共闘とか、東大全共闘なんかあったんですけれど、そういう運動に非常にあこがれてましてね。何か、非常に、デモにでても決して多くはなかった民学同の組織の中で、はずかしいなあと思いましたけれども。そうこうするうちに、R大には誰も指導に来てくれない。東京都委員会があるということを聞いていたんですけれども、都委員会のメンバーは普段はだいたい指導してくれるんですけれども、何か色々忙がしかったらしく、M大の方で、ブントと何かあったらしいんです。けれども、そういう時だけ、お声がかかるんですね。ちょっとM大の方が大変だからちょっと来てくれないか、という話で。それでM大の方へでかけていくと、何か自治委員会があるから、ブンドに殴られるかも知れないからちょっと防衛隊でここを守っといてくれ、というような時代であったんです。その当時は、M大のメンバーが非常に多く、デモをやると、M大だけの隊列を作った。M大の隊列は大体一〇〇か二〇〇名位の隊列だったですけれど、非常に多かったですね。まずもって、その指導が良かったんだろうと思います。そういう一つの同盟ができていく過程ですから、指導が他の支部にも充分に及んでいなかったという弱点があったのではないかと思いますけれど。今だからそう思うのですけれど、当時は非常に頭にきました。なんで、指導してくれないのか、勝手に入れるだけ入れといて指導もしてくれないから非常によくない、という様に頭にきた。それで、そうこうするうちに、一年位たちまして、うちの大学にも自治委員選挙があって、僕たちは御覧の通り、非常に軟らかい戦術をたてるグループでしたけれど、あまり過激的なことをやらないんですけれど、僕なんか、非常に消極的なもので、革マルとか中核とか、この辺の人達と一緒にやっていた。大体、R大の場合は○○人位は入ったんですが、たいがい皆、各党派を作って出ていったんです。中核を作ったり、当時のべ平連、また革マルを作ったりそういう人達と当時は一緒にやろうということで一緒にやってまして。その自治会選挙の時、執行委員長に出る予定の人が、革マルの人だったんですけれど、急に腹痛になったんですけれど、その腹痛というのは後で聞きますと仮病で、自分がやりたくなかったので腹痛になったんですけれど、それで急拠、おまえがやれ、と言われまして。誰もやるやつがいないからということで、革マルとか中核だとか、その辺の人達が推薦してくれまして、この僕を。それで執行委員長になったんです。そうこうするうちに、全体的な学園闘争が下火になって。大体、R大の学生運動は六八-六九年は下火だったんです。他の大学がおさまってくるとR大の方が興奮してきて、全学ストライキ・無期限ストライキというのをやりました。
そうこうするうちに、R大もだんだん人数が増えてきまして、例によって例の如く、何でもいいから入れや、という形のオルグをやりましてね。一定程度の人数まできたのです。そういう情況で(都委員会の委員長も)M大のメンバーがずっと出ていたけれども、R大の人数が増えてきたことから、(おまえが)委員長をやりなさい、という話になって、それで僕が委員長になったんです。まあ、短絡的に話しますと、あれは何なやっていたんだろうな、と思われるよくないもので、あまりそういうふうに誤解しないでほしいのですけれど。僕も一生懸命やってきたわけで、それなりに努力はしてきたのですけれど、あまり充分な努力はできなかったもので、今、反省しているわけです。これからも、若いどしどしこういう若い人達と、僕もまだ若いんですがまだ、二八位で、民学同を卒業してからー民学同を卒業するというのはおかしいが一大学を卒業してから五年目ですけれど、まあ労働運動の中でそれなりに頑張ってるんです。
今日は記念集会ということで、先ほどもMさんがおっしゃっていましたように、僕たちの時代から比べますと、今の人達というのは非常に人数的には多いわけであります。だからその多くの人達がですね、結集してきている民学同というものが、より一層、僕らのやっていた非常に低水準の運動ではなくして、もっと水準の高い、そういう運動をやっていただける様にこれからも一層の努力をしていただきたい、と僕は思うのです。それから、様々な問題がありまして、僕達がやっていた頃には学生共闘派という人たちとの分裂がありまして、-学生共闘派の諸君の前にも何かありましたね、六七年頃に、その時は入ったばかりでよくわからなかったのですが-、それからデモクラートを作ってゆこうというふうに、僕なんかは一緒にやってきたわけなんですが、なんか知らないうちに別れてしまったという形で、民学同も今は三つあるという形になっていますけれども、そういうものもいつか時間がくれば、いつかは統一できるのではないかというふうに楽観的に思っているのですけれど、まあ、結局は統一できる方向になってほしいし、僕なんかも昔のお友達なんかもいるわけですが、そのお友達とも話をする中にですね、まあなんとかうまくやってゆけるようになるんではないかと思うんですけれども。
まあ、非常に馬鹿馬鹿しい話になりましたけれど、あまりこういう所で話をしたことがないものでうまい話はできませんでしたけれども、これからの民学同のより一層の発展を願ってあいさつとしたいと思います。
K・K氏
民学同十五周年記念、おめでとうございます。
私は、只今紹介されましたTK大支部OBの一人としてお祝いの言葉を述べたいと思います。先程、Tさんの方からも少し話されたと思いますが、TK大はまず始めに、いわゆる「学生共闘派」の支部が建設されたわけです。そこでは、他の同盟関係大学ではほとんどそういった経験はないと思いますが、いわゆる内ゲバ、本当の内ゲバ、すなわち同じ民学同という名前の中で、鉄パイプこそありませんでしたが、約二カ月ほどTの地に内ゲバという状態が続く、その最中、同盟再建第十二回大会、民学同統一会議から中央委員会へ発展させる歴史的大会に合流していったわけです。それ以前においては、当時、私たちは民学同それ自身が「学生共闘派」、統一会議と二つに分裂している事を知らずにいたわけで、例えば、東京の集会とか、また広島での学生階層別集会(原水禁)等に参加して始めて、民学同を名乗る所が二つある事を知ったという状態だったのです。そもそもTというのは、ここ東京とはまるで違いまして、大学は群馬全体でも四年生大学が三つしかない訳です。東京の様に、学生運動のさかんな所ではもともとありませんから、始めてそういう所に行って事態がわかった訳なんです。
まあ、そういった状況の下で運動を進めていったわけなんですが、そのうち学内においては中核派が暴力的に全面的に支配していくという状況になり、非常に困難な運動を強いられました。しかし私たちは、地道に大衆運動を築きあげ、その中で力量をのばし、また理論的に打ち鍛えられていき、全学的運動を構築していくまでに至ったのです。そこにおいて、学生共闘派の誤りは除々に大衆の前に露呈されていきました。その一つは、彼等の平和運動の中における政治主義です。これはその当時の学生階層別集会の中で既に明らかになっていましたが、平和運動自体が持っている大衆的な基盤、大衆的なエネルギーを政治課題の押しつけによって解消させてしまう事を意味しました。二つ目は、「学生共闘」という名前自体に体現化されていますが、基本的な運動基盤を実行委員会形式におくこと、そして、彼等の言う「学生共闘」それ自身を「大衆団体」として組織するわけですが、それは名前のみの「大衆団体」であり、内実は彼等の政治路線をそのまま持ち込むもので、実質は民学同のかくれみのでしかないものでした。これ自体は、やはり彼等が私達の様に森さんとか皆さんの学ばれている森さんの哲学的側面、あるいは組織的な内容・思想的な側面をその統一の中において、きわめて政治主義的なセクト主義的な運動路線であるということを、実践・理論的な経験の中で把握していく、その意味でこれは克服していく必要があるという意味です。東京の今の諸君が、今の民学同東京都委員会に対して、積極的にこちらが話をしていき、当時の委員長が今あいさつされたTさんでした。彼から援助を頂きまして、第十二回大会の同盟再建以降、統一に向けて一緒に合流していった訳です。まあ、一応成果がありまして、御苦労もありまして、御協力もありまして、中核派の暴力による一元的支配の中でも、ほぼ全学的運動のへケモニーな私たちが握るまで一時は発展していったのです。
しかし、これまた、デモクラート派との分裂、いわば残念な分裂の中で、影響な受け停滞していってしまったわけです。そして、遂に三年前、最後の同盟員の卒業と同時に支部は止むなく解散に至.ってしまったのです。非常に先輩の一人としても、自分達自身としても残念でした。今、振り返ってみて、充分にかみしめている所は、過去、在学時代に私たちがやってきた平和委員会や唯物論研究会などの大衆サークルが民学同が停滞すると併行して活動が沈滞していったわけですが、唯物論研究会だけは残り、極めて地道な活動を展開し続け、その会員であった優秀な学友が結集し、再び輝かしき民学同TK大支部の伝統が受け継がれていった事を見る時、どんな困難な状況にある時でも正しい運動を継続し、正しい思想を継承していくならば、必ずその地道な闘いは身を結び開花するという所です。私たちは、それを貴重な教訓として確認していかなければならない、かように思うわけです。
自分自身としても、思想の内容の充分な伝統というものは、まだまだ不充分ではあれ、これからもOBとして援助していく中で民学同の強化、私たち自身、労働者ですから労働運動の面からも協力し、日本の新しい社会な築いていく為に頑張っていきたいと思います。
今日は、本当に十五周年、おめでとうございます。
K・Y氏
民学同創建十五周年、おめでとうございます。
私が、都委員長をやらせていただいた時は今ここで話をしていたTさんや、今デモクラートにいってしまった大阪のSさんが中心となり、第十二回再建大会を開催し、統一会議時代に終止符をうち、全国的に組織された民主的な中央集権制の全国組織に発展させる全同盟的努力がなされていました。その為には六八・六九年の全国学園闘争の高揚と、その敗北をきちんと総括して、我々が正しく学生運動を発展させることができるような科学的な理論に基づいた運動理論を確立しなければいけないということでした。私は、第十二回大会記念テーゼを、彼らのイニシアチブにより作成し、その下で働かせてもらったわけです。
思うに、七三年は、日本と教育をめぐる問題で非常に大きな結節点となった年でした。つまり、それ以前の教育再編が主要に現状の法体系の枠組みの中で可能な限りの再編攻撃を行なってきたのに対して、新しい法体系-既存の法体系の枠を超えた先導的指向というやつです。独占の為の高等教育・大学教育を作り出していくこと、そういう技術開発と人作り政策というものに本格的に乗り出してきたわけです。
今日では、本日の集会を記念して発行された新時代誌にも記載されているようやすが、教育再編の現状と我々をとりまく情勢を確認すると、不幸なことに、こうした教育再編が進んできてしまっていると思うのです。
ともあれ、非常に歴史的な転期であったと思うわけですが、筑波法案粉砕の闘いは、十二回大会以降、理論的にも、政治方針においても、それを闘う組織の内部の意志統一においても非常に充分な時間をかけて、組織的な統一を打ち固めて闘い取られた、ということです。当時、客観的な情勢からして非常に必要なことは、客観的に存在するエネルギーをいかにして全国的な大衆運動として組織化するか、ということだったわけです。
にもかかわらず、当時まだ民学同が小さな組織だったので、直ちに全国的な闘争を組織化していくことは、極めて困難でした。
こうした中で、我々は民青「全学連」、あるいは、その他の潮流が日和見主義におちいっているもとで、典型的な大衆的な闘いを通して、全国学友に実例の力で闘いへの決起を呼びかけていく、そういう方向が最も必要ではないか、と考えたわけです。ですから、R大の理工学部の学生大会を開催して、その学生大会決議にもとづいて、六月二三日の筑波大学法案粉砕のための全国統一行動を行なおうではないか、と呼びかけました。そして、O大学がこの呼びかけに学生大会決議で応え自治会間の統一行動が克ち取られたのです。自治会執行部のひきまわしということではなくて、言葉の真の意味において直接大衆が参加し、大衆自身の手によって決められていく学生大会、そしてそこで決定して、ストライキに決起していくという形態を実現することに最大限の努力を傾注しました。闘いは、ここにも来られている同志の人達とともに進め結果的に全国統一行動に一五〇〇名の学生大衆を統一行動に決起させることに成功したのです。
ふり返ってみて、私自身、今一番感じることは、ちょうど時期としては、いい時期に民学同の都委員長になることができたなあ、というある種の感激です。そして、それ以上にこの闘いの成功の基本的条件というものが、それ以前の活動の中で克ち取られていた、ということです。すなわち、民学同が統一会議という非常に日本学生運動全体を指導する上で、不充分な組織形態を清算し、六八・六九年の闘いの敗北をきちんと踏えて、そこから重大な教訓を引き出して、釆たるべき学生運動の爆発的な高揚を闘い取るための政治的・思想的・組織的準備を確実に進めてきたことの結果として得られた成果である、ということです。
同時に、理論誌が刊行されて、独自の自立した大衆運動としての学生運動、これを指導する民学同自身の理論的発展の努力が展開されていました。当然、民学同は、あらゆる組織から自立しているわけですから、理論的・思想的蓄積を保障し、組織の力量を不断に保持し、発展させる意味からして重要な活動だと思います。
ただそういうことが、思想的な自立、あるいは、労働青年同盟との思想的相異を全く意味しないことは、言うまでもないことです。
学生運動を導いていくうえでの理論的強化と理論的・思想的統一、そのことが不可欠であるとけう立場での理論活動が先輩達の手によって開始されて、それを引きついでいく上での橋渡しの役もさせてもらったわけです。
その後、着々と幾多の全国的な取り組みを成功させていく中で民学同も大きくなってきました。
けれども、非常に申し分けないと思っていますが、デモクラート派との分裂を経験しました。私もこの分裂には重要な責任を負わなければならない一人です。力及ばず結果的には不幸な分裂という事態になってしまいました。
やはり、我々はこの中からも貴重な教訓を導き出して、改めて、我々の主体的な運動を強化していくことを通じて、セクト的な小さな枠に閉じこもるのではなくて、全国学生にかけられている攻撃を粉砕する闘いの先頭に民学同が起ち、全国的な統一闘争を展開しなければなりません。そして、こうした闘いを踏え、もう一度、民主主義学生同盟の広大を統一隊列を実現しなければなこbないと思っているわけです。
こうした闘いを今度は、場所は異なりますが、民学同と兄弟的関係である労働青年同盟(準)の立場から、引き続き努力させていただきたいと、思っています。
最後に、日本の学生運動が確実に再び、爆発的な高揚の時代を向えるであろうし、その時には民学同の部隊が闘いの先頭にいるだろうことを確信したいと思います。こうした明日を闘い取る上で、考えねばならないことは今日、学生運動の沈滞という不幸な現状にありますが、その一番根本にある問題として全国二二〇万学生大衆が必ず決起するという確信が指導部にないということです。つまり、諸党派は、非常に根深い大衆不信にやられてしまっているのです。
民学同は、先輩たちが残し、こうして今この場にきている多くの同志たちが発展させている、又、第十二回大会でも明らかにした、学生は必ず全体として決起するという必然性を科学的な分析にもとづいて明らかにしたテーゼ、学生運動-層としての学生運動論を持っています。科学的理論に裏打ちされた不動の確信をもっているが故に、我々は、日本の学生大衆が全体として決起するために必要な共通する利益をきちんと取り上げ、先頭にたって擁護し闘わねばなりません。
そして、六八・六九年の全国学園闘争の中で破壊された全員加盟制自治会が、再び多くの点で赤色自治会と化し、また他方におけるサービス機関化、これらに加え、今日では独占の御用自治会化策動という新しい困難が加わっています。全国学生の共通する利益をきちんと擁護し、その先頭になって闘いながら大衆的な自治会を建設していく、そして、これら自治会の連合体としての全学連そのものを再建していく道が、我々の前に確実に開けています。また、この道を力強く進んでいかなけれならないのではないか、というふうに思っているわけです。
同盟の大衆に対するゆるぎない信頼を一つの重要な財産として、現実の諸闘争を今後とも力強く展開してもらいたいと思います。私も、民学同で学んだ多くの事を労働青年同盟で諸同志と頑張っていきたいと思います。
R・S氏
Sです。私もいろんな諸先輩の運動の中でその指導の下に、ちょうど五年間運動をやらせていただいたんです。その運動の入るきっかけですが、最初言われました時代と同じように民学同に入ったわけです。
私がTY大学に入ったのは七〇年です。この年は、七〇年安保闘争の大高揚の時代ですね。友達にオルグされて、民学同に入った人が沢山いると思いますが、私もそうでした。友達が民学同に入って活動していまして、あの六九年の羽田現地闘争や七〇年安保の前哨戦としてあった十一月羽田現地を全都一〇〇〇の隊列で闘うとか、言われて加盟したわけです。そのつもりで、学生部隊で一〇〇〇か、一五〇〇ぐらいというふうに聞いたと思うのですが、それ程の部隊で闘っている学生組織は他にないと思ったわけです。加盟したのが入学してすぐの四月二九日でした。その日、R大の神楽坂で日ソ親善の集いをやっていた時に加盟書を書いたんです。
民学同に入って最初のころ、沖縄闘争で闘いに参加した時、数十名ぐらいしかいないんです。一〇〇〇数名が、六八・六九年の闘い、安保の前哨戦で座折したのか、これは大辺な組織に入ったなあ、と思いました。又、大学に行けば、一〇〇〇名程の人達がいるということだから、幾人かの民学同の部隊が居ると思ったわけです。そのころ、大阪府学連の運動について耳にタコができるくらい言われましたから、自治会の一つや二つあると思っていたのですが、入ってびっくりしました。TY大学には、結局、僕一人しかいないんです。もう、ヘルメットの学生がいっぱいいましてね。七〇年安保の六月、それから毎日、クラス討論におわれて、六月十五日・二三日あるいは七月二八日の闘争を展開したわけです。その時には、きまって大学当局は、「今日は、社会的に、あるいは学内において政治的困難がおきますのでロックアウトにします」というように、いわゆる政治的昂揚期の中で、民学同に入っても民学同の運動がどうしても大衆的で巨大な運動として、どうしても展開できませんでした。その時の、僕の率直な実感でした。
話が、昔話になって恐縮なんですが、その意味では、当時、東京の民学同が七〇年代初期においてR大とM大を機関車の両輪のような形で運動が推進されながら、民学同の東京における大衆的基盤が確立されたわけです。というのは、私のTY大支部も、様々な形で全都からの動員だとか、集会への動員という形で何回となく支援をしてもらいました。こうしたように、支部を建設するということがどうしても一人だけの力ではなかなか困難です。組織の力の偉大さと組織のもっている理論的な確信が、僕のようなどうでもいいような一人の人間が一人で大学に入って運動を始め、巨大な支部建設と大衆運動への大きな影響力をもって闘いが展開されてきたわけです。
私が、都委員長を務めたのは、第十二回大会とその後の筑波法案粉砕の全国闘争を展開したY君の次の時期です。ちょうど一年都委委員長をやらせていただいたわけです。都大会が、○○○名を超えることができなかった時代です。
筑波法案粉砕の闘いの中で、R大のように一つの大学で何百という形で動員し、巨大な運動をつくりあげながらも、民学同都組織の強大な建設に充分に結びつかなかった局面から一年間ですね。
闘争としては、横須賀の現地闘争、それから横田の反基地闘争と、僕の時代は、安保・沖縄闘争が終って民主勢力が後退していく中で、反基地闘争ばかりでした。
毎日・毎日といっては語ヘイがありますが毎週一度ぐらいは横須賀に行きました。しかし、大衆的な運動は、充分展開できなくて、行く度に私達の部隊がじり貧傾向になっていったのを覚えています。しかも、週一度ということだから、つかれてくるわけです。それも、一週間ずっと天気がよかったのですが、動員の日になると必ず雨が降りました。
そういう意味で困難な反基地闘争の中で、R大支部の戦闘的な闘いの教訓を導きだしながら、私のTY大学も大衆的な闘いを展開し支部建設も進んでいったわけです。
私の時代以降からは、M大・R大の車の両輪がM大組織のじり貧傾向の中で、今ではこうして見回してもM大の旗が見あたらないようですが、だいぶん都組織も困難な時代であったようです。
困難な情況の中で組織の統一性と組織の団結の下、大衆的政治同盟の建設と、大衆的で系統的な運動がどうしても必要になってきているのではないでしょうか。
これは、第十二回大会・十三回大会で確認され「民学同一〇年の歴史と労働青年同盟結成の意義」という形でまとめられたように、労働青年同盟の建設と民学同との兄弟的関係の強化を実行に移すべきことを意味しているのではないでしょうか。
民学同が四年サイクルということで、理論的政策的な蓄積が思うにまかせない現状は、今も、さほどかわりはないと思います。
理論的政策的蓄積の弱さは、民学同の分裂という不幸な歴史を形成してしまった基本的原因の一つでした。分裂を経ながら、その教訓の下、労働青年同盟の結成を提起されたわけです。もちろん、民学同の強化は前提として確認しています。
大衆的で、戦闘的な青年同盟結成にむけ、多くの諸先輩による活動が展開されてきたわけですが、その過程で内容において青年同盟建設と前衛党再建の問題を明確に区別し、ともに建設していくことをネグレクトする事態が生まれました。その意味では、両方の解党主義があったのではないか、と思っています。それは、デモクラートの諸君らも、ともに学生共闘派との分裂の教訓、六八・六九年闘争の教訓を打ち固め、東京・大阪における大衆的な民学同の再生にむけて闘いを組織してきたあの二年間が、そうした民学同の限界性を突破することなく、デモクラート派との分裂を招いてしまったことに示されていると思うのです。
私は、諸同志とともに、その後、大衆的・民主的な学生同盟の建設と、青年同盟の建設を、卒業してからちょうど三年になりましたが、展開してきました。
この経験の中には、こんなこともありました。私達は、各級機関の決定事項について守らなければならないと教えられていますが、決定事項を守らない支部もありました。都大会の席上でも、保留にする人達が、それも集団的に保留する人達がいました。今、都大会がどうなっているか、わかりませんが、その当時、民学同が政治同盟なのだから全員一致で方針についてやるべきだ、との論議にもなりました。結局、各大学単位で保留の手があがったりして、かなり悲惨な都大会をしてきたわけです。
こうしたことを行う中で、強制的に処理するのではなく、理論的・政策的を一致に基づいた大衆的で戦闘的な政治闘争の展開で、民学同の統一と団結を打ち固めていき、そして理論的・思想的蓄積を克ち取ること、明日の労働者階級になる多くの人達とともに青年同盟建設の闘いを展開しながら、青年・学生運動の共同行動を展開していく過程で、問題を「歴史的に清算していく」必要があるのではないか、こう考えるわけです。闘いの中で、一つ一つの諸事件を克服しながら、大衆的で戦闘的な青年学生運動の大衆的な再生を獲得していく必要があり、七〇年代後半から八〇年代にむけた闘いとして、どうしても私達が闘い取っていかなければなりません。それはちょうど六〇年代の当時からありました反戦青年委員会と全学連との関係と同様に、六八・六九年全国学園闘争を揺り動かした、さらに安保闘争の昂揚という大衆的な青年学生運動の形成にむけ、一歩一歩前進しようではないですか。
私も、労働青年同盟として、闘いをともにしながら、兄弟的結びつきを深め、大衆的な青年学生運動の形成の為に頑張っていきたいと思います。
ともに、頑張りましょう。
T・H氏
民学同十五周年、おめでとうございます。
私の前の都委員長のSさんがTY大で、私もTY大なのですが、その後を引きついで、半期だけ都委員長をやったわけです。私の後に、すでに御承知の「ニュー・パースペクティブ」の編集長をやっているSさんがなっているのですが、事実上においては、様々な歴史的闘いをやった歴代の都委員長の助け舟があったのではないかという気がします。
やはり、私が民学同の闘いの中で印象的なものが二つあります。一つは、すでに言われたようにノースピアで闘われた連日の戦車輸送阻止闘争です。あれは、非常に印象的でした。というのは、学園闘争がおろそかになるぐらい連日、夜中や朝まで座り込みをやるという事態の中で、私も眼鏡を二つこわされた記憶がありますから印象的なのかも知れません。機動隊と非常にこぜり合いをやりました。それで、戦車を止める為に一生懸命やってゆくと、都平連の部隊というのは非常に、来ていた労働者の人達、労働組合の人達に好感をもたれて、信頼を受けるというようなことがあり、それが非常に印象的だったのです。
あと一つは、R大が数百名というように、非常に大きな結集をはかったR大を中心とした筑波闘争でした。あの当時の私の印象としては、R大のメンバーの顔はだいたい見たことがあるということがあったのですが、そのメンバーの顔は見合たらないのですね。何十人に一人位のメンバーの顔が、やっと見つかる。それほど大衆的なクラスからの大衆動員をしていたという記憶が非常に強いわけです。ですから、今までの都委員長が言われたように、学生が層として決起するということをですね、実例でもって確信できたのではないかという闘いでした。
そして、私はTY大出身ですが、TY大自身、最初は非常に小さな運動から始まったわけです。今では、多くの同志諸君がいることを聞いて驚いているわけです。自治会が偶然に最初はころがりこんで来たわけです。というのは、中核と第四インターの間をぬって副委員長のポストについて、その後、第四インター・青解などの内ゲバに入り、学内に諸党派が恒常的に登場できなくなってしまうという事態の中で、自治会だけはやっていこうと、委員長を代行してやっていったわけです。ですから、自治会活動家数人の運動だったわけです。朝から晩まで、授業に出ないでクラス入りばっかりやっているという事態がずうっと続きました。そうした運動が、今のTY大を築いてきたんじゃないかという気がします。
そういった意味では、様々な闘いを受け継ぎながら、今の民学同がこういう地位まで大きくなってきて、同時に十五年のくぎりをつけ、二〇周年に向けた飛躍としていかなくてはならないの思います。
そして、是非とも労働青年同盟を結成し、日本の平和・民主主義・社会主義の為に影響力を拡大し、兄弟的連帯を深める二〇周年にさせるように、共に努力していかなくてはならないと思っています。
私は今、労働青年同盟(準)で活動しているわけですが、ま.だまだこれから多くの課題を解決しなくてはなちない事があります。
私が民学同に入ったころ、当時学生組織ということもあり、卒業したらどうしたらいいのだろうと不安がありました。ところが、今では多くの諸君らが卒業しても立派に労青で活躍しています。ですから、学生の人達が学生運動で学びきたえあげられたものを是非とも労働運動の中で生かし、日本の労働運動の中で重要な役割を果していただきたいと思っています。
従って、二〇周年には、労働青年同盟と民学同との兄弟的連帯を軸にした運動が出来る様に、その第一歩としてこの十五周年がなければならないと思っています。以上です。
M・S氏
同盟創建十五周年、おめでとうございます。
僕は、都委員長を務めたのは、同盟再建第十二回大会が開催された七三年のあと、七四年の一年間でした。僕の場合は、R大出身なわけですが、ちょうど七四年という年がどういう年だったかと言いますと、世界的に、国際情勢の上で大きな変動の年であったわけです。例えば、ベトナムを中心としたインドシナ三国が完全に帝国主義に勝利し、解放されたのが、実はこの年の秋でした。、
こういう事情で、当時の都同盟の活動は反戦平和運動の課題が大きな位置を占めました。しかもそういう中で、日本の原水禁運動をはじめ、平和運動全体が新しい国際的な前進を心要とし、模索していた時期でした。ここに入ってきて、まず第一に思いましたが、七四年の原水禁大会に向けた東京の学生原水禁参加団の結団式を、実は、この同じ会場を使用したことでした。その時は、都委員会を中心とした都における平和運動、特に原水禁運動についてば、今までの都委員長からのあいさつにもふれられていたように、数十名とか、百名とかでした。七四年は、そういう時期でもありましたから、この会場には始めて○○○名ほどの学友が結集して、結団式をやった覚えがあるわけです。最近、聞くところによると、今年は○○○名を越える参加団を組織したということを聞き、僕はここにも都同盟の発展の姿の一つを発見しているわけです。七四年には、都平連が各種の学習パンフレットを発行したり、「核防パンフレット」を製作して、大会に参加した平和活動家に平和と軍縮をめざす、これからの日本平和運動の方向を訴える活動をしました。
思い出せば、各支部においても、七四年の段階では同盟再建第十二回大会と筑波闘争のような全国組織一丸となって闘った前年を継承して前進した時期でもありました。R大支部の場合は、神楽坂におけるある程度の暴力的な集団もいましたから、班の再建・強化というものが具体的に進行し、それが七四年でしたし、TY大での場合は、経営学部自治会の次に今度は、社会学部自治会への強力な指導を開始するというように、各支部の拡大が行なわれました。
今日は、十五周年ということですから、特に僕は名古屋にいますから、今、労働青年同盟(準)ということで、準備会が結成されて三年目に入って、いよいよ準備会という状態を脱して、これから日本の労働青年運動を全国的に前進させる為に、本格的な労働青年同盟の組織体制とそれから全国的な拡大の作業を一致団結してやっていこうという論議がまき起っているわけですが、そういう意味で民学同OBを中心として準備会を結成して頑張っているわけです。
民学同にとっては、今年四月に同盟組織が初めて名古屋にできました。僕ら労青愛知はこの名古屋に建設された民主主義学生同盟の発展の基盤を尊重し、その前進のために労青活動とともに、兄弟同盟の信頼と友情的関係を基礎にして、民学同の発展にも寄与していきたいと考えています。
民学同十五周年は同時に、全学連結成三〇周年であり、日本学生運動が直面している六四年民青「全学連」結成以来の分裂の十五周年でもあります。残念ながら、中部地方の学生運動はこの十五年間に民膏「全学連」の結成のある意味では中心的役割を果たしてきているという特徴を続けています。たとえば、民青「全学連」の呼びかけの中心になったのは「平民学連」愛知グループでありました。そういう歴史からも、すなわち日本学生運動の分裂を克服し、統一を実現していくという任務からして、中部地区学生運動の進むべき道と民学同の趣意・規約は完全に一致している………などと、同盟の後輩・若き活動家たちを激励しているわけです。
青年同盟準備会と民主主義学生同盟の発展の道は、深い兄弟的同盟関係をもって進むべきであり、両同盟はその活動内容とめぎすべき道において同一でなければならない、とは民学同第十三回大会の意志であったし、僕たちの基本的認識でもあります。
そういう事で、東京・大阪・名古屋など全国での活動を強めながら、民学同の二〇周年、三〇周年には、全国的な、より拡大された自治会運動や平和運動など、二二〇万学生の真に最先頭を任う中で、また大衆の中で向かえられるよう心から念願しています。
【民学同の歴史】第十六回全国大会
【民学同の歴史】<特集:民学同15年の軌跡より>
第十六回全国大会
第十六回大会中央委員長 Y・I
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
民学同の結成一五周年にあたって、自分の学生運動の時代をふりかえっておくことも有意義なことだと思い、寄稿を約束した。
私が同盟に参加した一九七二年は、沖縄-ベトナム反戦闘争を中心とした学生運動の昂揚期であった。
私が入学した大阪市立大学は各党派が一とおり顔をそろえ、キャンバスにも一種独特なふんいきがあった。
はじまってまもない教養講義のいくつかは、半ば押しつけに、半ば自主的に討論集会に切りかえられていった。
そういうふんいきの中で育った我々の仲間の多くが、早い人で夏頃、遅い人でも秋には民学同に加盟していった。あるものはサークルを通じて、あるものは「民雄派」との論争の中で、そしてより決定的であったのは、3・16闘争(工学部
民主化闘争)における同盟の最も民主的で大衆的な政策に共鳴して、同盟指導の正しさを確信したのであった。
当時の学生運動の大半は学生の高い意識性(反戦・反帝・反体制をど)にのみ訴える方針を提起し、ますます学生大衆から遊離する傾向にあった。あの全国を揺がした学園闘争と全共闘運動敗北の経験を正しく総括できずに、次々と提起させる政治諸課題に対して、街頭行動とそれへの動員にのみ窮々とする諸党派は活動家の一本釣りないしは他党派の影響下にある活動家「ツブシ」を唯一の党派的活動をしていた。
これに対して同盟は、七〇年の「民旗派」との分裂の中から、学生大衆の意識にのみ依拠する運動とりわけ、学生をその意識状況から「高・中・低」の三段階にふりわけ、「高」をとり「中」を引きつける、などという、主観主義、エリート主義を批判し、学生の多面的を要求をとり上げ、学生生活の改善と大学改革の課題を具体的に提起する中で学生の大衆的決起をかちとることに地道を努力を積み重ねてきた。
こうした努力が、七二年度、同盟に参加した我々の仲間に大きな確信を与え、その後、「デモクラート派」諸君の著しい主観主義、エリート主義から同盟路線を守る上で大きを役割を果たしたのであった。
ニ、
数度にわたる組織分裂にもかかわらず「新時代派」がその正しい方針をとり続けてきた背景には、多くの先輩や社会運動家の指導・助言を受け、また「新時代派」がそのことに最も謙虚であったということがある。
同時に「民雄派」 「デモクラート派」の両派と異なる点の一つに部落解放運動との結びつきを正しく堅持してきたことがある。
日本共産党の不当な分裂工作としつような差別キャンペーンによく耐え、被差別部落大衆の生活と権利のために果敢な闘いを進め、今日、反独占闘争の重要な一翼を担う郎落解放同盟の運動につねに注目し、学び、連帯することを通じて我々の大学改革の課題が具体化された。それとともに、解放同盟の大衆的活動スタイルが我々に教えるものは大きかったのである。
しかしこの解放運動との連帯の問題も同盟内で正しく理解されるまでには少なからぬ時間を要したのである。
関東における解放運動の立ち遅れともあいまって、解放運動の現実に学ぶことなく「解放運動は反独占闘争たりうるか、否か」などの機械的な「階級理論」が同盟内にも存在した。
しかしそれらは卒業生が教育や自治体の現場で解放運動にふれるにつれ、また解放同盟の有力な指導者である大賀正行氏や上田卓三氏、部落解放研究所などにつとめる諸先輩の助言、また、解放研・部落研に所属する同盟メンバーの努力によって克服されてきた。
東京において解放運動に学生がとりくむことの意義が充分理解されず、同盟の指導も不充分な頃から、各大学で解放研の基礎づくりを進めてきた同盟メンバーの努力は高く評価されるべきだと思っている。
学生が社会問題をとり上げ、その解決のための教育・研究を要求してゆくという、大学改革の典型的をパターンが部落解放運動との連帯の中で生まれてきた。同盟はこの闘いを今後とも一層押し進めるべきだと思う。
三、
さて、今後の活動について、提言めいたことを言わせてもらいたい。
それは、民学同の「本家争い」 「正統派主義」とはこの際、キッパリと手を切って、民旗派、デモクラート派との統一をあらゆる課題にもとづいて提起、追及してほしい、ということである。
私自身、有意義で楽しく、自分の成長にとって大きを影響を与えた学生時代の、唯一つの不愉快で悲しく、苦々しい思い出は、同盟の分裂とそれにからむ、対立・抗争のいくつかの事件だった。
民族派のある支部がまるごとわが派に結集した時、市大はその「主戦場」とをり、連日、府下からの動員合戦で新左翼そこのけの「集団乱闘」を学友の前で演じた。
そして、この「内ゲバ」で失った学友の信頼を回復するのに多大を努力と時間を必要としたことは言うまでもない。
デモクラート派の諸君との間で、未だこのようを小ぜりあいがあるとすれば、それはすぐにやめてほしい。こうした回答無用の、暴力的形態にまで発展しかねない「本家争い」は全く無意味であるばかりか、有害でさえある。我々の先輩の中にも個々の行動において誤まっていた人もいる。今必要なことは、過去のいきがかりを捨てて、まず「新時代派」が統一の門戸をひらき、他の二派に共同行動と討論を呼びかけることだ。
「いきがかりを捨てて」とは、理論闘争をやめよということではない。むしろ、正しい理論闘争とその成果を得られるような共通の課題、目的を他の二派とのあいだで持てるようにすることである。捨ててほしいのは、「近親憎悪」の感情とつまらぬプライドである。学生運動の統一を掲げ、他人から見れば、同じようを方向をめざす「民学同」が三つあるという事実はすでに悲劇を通りこしている。
かく言う私も、事態を客観的に、冷静に見ることができるようになったのは学生運動を卒業してからの事である。我々の先輩はもちろん、民旗派・デモクラート派の先輩もそれぞれ職場で、よくやっている。共産党や民同幹部の圧力の強い組合で、職場の民主化のために、労働運動の前進のために、共に協力しあっていることもある。学生時代に対立はしていても「民学同」の学校を卒業したものは、情勢の認識や、運動の方向において大体一致しうるのである。もちろん「新時代派」の諸君が「自分たちこそ民学同の趣意・規約を守っている」と考えるのも無理からぬことではある。しかし、そのことを主張するのであれば、諸先輩が繰り返し訴え、同盟趣意にも明記された「統一の思想」を本当に我がものとし、学生運動統一の大事業に先だって可能を「民学同の統一」をかちとってもらいたいのである。
その前提とも言うべき共同行動の積み重ねも我々がその気にをれぼやれる課題はたくさんある。
私自身その確信を得たのは、七五年夏原水禁大会の階層別集会の共同開催を成功させた時からである。
七一年以来、集会を単独開催してきた民旗派の諸君の抵抗は大きかった。また、それに加えて春に分裂し、「学生党的組織」に純化しようとしていたデモクラート派は、「平和闘争と社会進歩のための闘争の結合」というスローガンを掲げて登場。階層別集会開催の議論は何度も頓挫しかけた。しかし同盟を代表して彼らとの交渉にあたった私と、当時の都平連代表のS氏は、「地道を努力を続ける各大学の平和運動をお互いに評価しあおう。」と提案した。すでに全国実行委員会をつくっていた民旗派にも、集会開催委員会を共につくり、そこに入るよう呼びかけた。本当にやる気にさえをれば、集会を実現するあれこれの手段、ルールは話し合いでどうにでもなる。要は説得の努力と妥協することのできる度量である。議長団の構成や、基調提案の内容をめぐって、数十時間の討論、もちろん時にはヤジと怒号の中で混乱したこともある。集会前日の深夜、さらには当日の午前にかけてまで討論が続き、軍縮協の和田氏をどにも多大を迷惑をおかけした。しかし我々はそれをやり通した。結果、一番プライドの「高い」デモクラート派だけが、当日、別行動、自派のみの「原則的」な分裂集会をもった。
もちろん統一集会の実際の成果を考えるにそれは決して大きくはない。どことなくぎこちなく、お世辞にも大衆的で友好的なふんいきとは言いがたいものだった。しかし、階層別集会の成功は両派ともが認めあい、その共同行動はその後定着し、今年も何とかやれたと聞いている。
平和運動にたずさわる若い諸君は是非こう考えてほしい。君は都平連で、あるいは軍縮めざす会で正しい活動をすすめている。彼らのある人は君たちとちがう場所で、岩手大や金沢大や静岡大や熊本大で、君たちと大筋同じ立場で、平和と平和共存、軍縮と緊張棲和を訴え被爆者援護法制定のために闘っている。それを認め、評価することは学生の平和運動の前進にとってマイナスとなるだろうか、ということである。
学生運動全体の統一についても、やはり同じことが言えるのではをいだろうか。
民学同が全国のあらゆる大学の、あらゆるたぐいの運動と課題に精通し、これを指導し、もって諸党派の運動と組織を凌駕した時、簡単に言えば、我が派が全国制覇した時、学生運動が統一される…。こんな風に統一を展望するものがいるとすれば、それこそ「主体形成至上主義」である。現実には、民学同三派どころか、全国には十指に余る諸党派が存在し、それぞれの課題があり、少なからぬ学生がそこに参加している。それらはますます大衆的基盤をなくしているとはいえ、完全になくなってしまうものではない。それらは多かれ少をかれ社会的諸階級・諸階層の利害を反映して存在している。だから統一の問題は、この基礎の上に、つまり、異なる諸党派・諸グループの影響の下にある。現実の運動と課題、そこに参加する学生大衆の客観的要求をいかにとりあげ、解決するかをめぐる議論として、とり上げられねばならない。学生運動統一=わが派の全国制覇なる主観主義・セクト主義とは、民学同は無縁である。
だから我々は統一の条件のあるところで、大胆に、粘り強く活動し、最大の成果を上げ、その実例の力で、統一の輪を次から次へと、押し広げていかなければならない。
もし民学同三派が今すぐにでも連合し、協力するならば、その運動課題の多様性と大衆的影響力によって学生運動統一の条件は大きく拡大されるに違いない。 我々が一つかちとった統一の芽、共同行動の輪を次々にひろげてくれるよう切に望みたい。
もちろん我々もそれぞれの分野でできる限りの働きかけを開始したいと思っている。
四、
最後に青年同盟との強力について一言。
第一に、機関紙の一本化、共同編集を提案している高橋春男氏の意見(機関誌
新時代11号)に全く賛成する。
第二に、我々がめざすべき青年同盟の任務、組織形態、活動のスタイル等について、結論をうるまでの討議が未だOBの間でつくされていないことについてで
ある。
労青(準)の結成(七五年十月)にあたって、当時、私は民学同を代表してアピールを送った。その中で、労青問題をめぐる議論の経過と、不幸にもその混乱がデモクラート派諸君との分裂にまで至ったことを総括しつつ、事態の前進的解決のた一めに、学生とOBのそれぞれの努力を開始しようという当時の学生同盟として可能を限り卒直、かつ必要最少限の提案を行なっておいた。
民学同の学生たちは、「その日」のための準備を進めてきている。むしろ立遅れているのは労青の側の活動ではないだろうか。私や私の同僚の多くを含めて、更には高橋氏が指摘するような「労青の粋をこえた」活動家と運動にまで及ぶイニシアチブを発揮するためにしたいのである。
最近、私はつくづく思っている。民学同で得た最良の経験や理論がそのまま通用するほど社会的現実は単純ではない。学んだ理論や経験を導きの糸に研究し宣伝し組織しなければならない課題が山積して我々を待っている。
諸君の更なる奮闘を祈り、今後とも変わらぬ連帯を心から誓ってお祝いの言葉とする。
【民学同の歴史】 十二回大会からの五年間
【民学同の歴史】<特集:民学同15年の軌跡より>
十二回大会からの五年間
徳武一也
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
同盟十二回大会以来五年間の闘いは、数多くの成果と教訓を我々に指し示してきた。本稿は、第十七回全国大会(一九七七年三月)において打ち出された教育学園闘争の政策を歴史的に裏付け、その意義を再確認するために起草したものを、若干の手直しのもとに再度投稿するものである。
全国の学園闘争が著しく停滞を余儀なくされ、学生運動指導部の多くが政治主義とセクト主義、議会主義の業病から解き放されていない時、我々に果せられた任務は極めて重要である。全国学園闘争の再構築のために一助とならんことを強く願うものである。
筑波法案粉砕全国闘争方針を確立した
同盟第十二回全国大会の歴史的意義!
一九七三年三月、同盟再建第一二回全国大会は三年間の統一会議(支部連合体組織)に終止符を打ち同盟中央委員会を確立すると共に、全国九大学一八自治会を中心にして筑波法案粉砕全国闘争の政策、方針を確立した。
そして、大会テーゼ=国家独占資本主義段階における層としての学生運動論の中で、今日学生は、出身階層からして反独占諸階層であり、一部の「エリート」を除いて大多数は「明日の知的労働者」としての将来を約束され、客観的に増々その利害を労働者階級に接近させ、層として決起しうる一般的可能性をますことを明らかにした。
七〇年安保闘争、七一年沖縄闘争以降、全国学園闘争が停滞をよぎなくされ、中教審答申のなしくずし的実質化が進行するもとで、国会に上程された筑波法案は、その実質化の一定の 「成果」を足場にし、更に法的措置を通じて具体化、徹底するものとして特徴を分析した。また、大学臨時措置法期限切れを七四年八月にひかえ、一年余りの闘争は大学立法粉砕、大学の民主的改革闘争の重大な時期であると規定し、全国学園闘争の再爆発は不可避であり、独占資本の反動的な大学介入と鋭く対決するであろうと位置つけたのである。
大会は、阪大釜洞ファッショ体制打倒の闘い、市大、阪大、東洋大、立教大の大衆的に闘かわれた学費闘争、阪学大同実組運動、束理大学友会運動など全国に特筆すべき闘いのもとに、全国九大単一八自治会に影響力を拡大してきていることを再確認し、全国学園における寡頭独裁管理体制を粉砕し、中教審実質化として進行する反動的諸傾向に対する闘いを強力に展開する任務と共にその全てを筑波法案粉砕へ一点へ結びつけることを提起した。全国的視点に基く各大学の民主的改革闘争の必要性と広汎な学友の闘いを全国的政治闘争へ発展させることを不可分の任務として指し示したのである。
七三年六月二三日、五大学ストを背景に
千名の隊列で国会連帯行動実現
七三年春闘は、国民春闘の萌芽として、賃上げにとどまらず、年金、スト権奪還を要求し、また、田中内閣の小選挙区制導入策動に対決する果敢な交通ゼネストを貫徹した。六八単産六五〇万人の参加と共に、日教組も教頭法制化法案、筑波大学法案粉砕を掲げストライキ闘争に突入した。
五月段階から阪大工学部、教養部のストライキで全国闘争の口火を切った、筑波法案粉砕闘争は、政府自民党による六日二二日衆院文教委員会における強行採決に対して十三大学二九自治会のストライキで反撃を加えた。同盟の影響下では、東理大、東洋大、阪大、市大、阪学大の五大学ストを背景に、東理大理工学部、東洋大経営学部、阪大工学部を中心にして、全国二〇数大学一千名の筑波法案粉砕全国学生連帯行動を実現させた。
民青系「全学連」は、東京学大のストライキレベルに終わり、全国筑波共闘も有効な闘いを組織できず、各学園では「スト破壊」の役割を果した。それ故、各大学大衆的学生大会-ストライキを背景にした六・二二大阪学生連帯行動五百名、六・二三全国学生連帯行動一千名の実現は、全国学園闘争の停滞のもとで同盟の果す役割の重要性を明らかにした。
このような全国闘争の成果は、第一に、第十二回大会方針で確立された筑波法案の反動的内容を各大学の民主的改革、具体的内容と結びつけて闘かわれた結果もたらされたものである。
阪市大では、三・一六闘争=院生井関氏への思想差別に抗議し、工学部大アエ教授追放闘争を全学的に展開、そして、法、経、商三教授会の筑波法案反対声明を実現、大阪大では、釜洞総長の独裁管理体制に牽先をむけ、工学部一週間スト、教書部二波に渡る一週間ストを実現、阪学大では、新構想教員養成系大学院大学をねらう柏原総合移転計画に対する闘いとして展開された。また、東理大では、学友会規約を無視した自治会破壊攻撃、束洋大では筑波法案の先取り実施-朝霞移転白紙撤回の闘いと結びついて展開されたのである。
第二に筑波法案の国会審議の動向に機敏に対応した各大学の学生大会、ストライキ、課題の一致にもとづく地方レベル、全国レベルの統一行動の実現である。「全学連」不在の下で、全国的な学生運動の闘いの報告、到達段階を常に明示し、次の合流点を指し示す同盟機関誌「デモクラット」の発行は重要な役割を果し、また、徹底した学内の統一戦線形式に力点を払い、自治会運動の強化をもって広汎な統一闘争を繰り広げたのである。
しかし、残された問題として、全国九大学十八自治会に同盟の影響力がありながらも、三大学自治会レベルの全国学生連帯行動に終わったことである。このことは、各大学の反動的諸傾向に対して、同盟が今だ十分な政策を提起しえず、筑波法案粉砕全国闘争との結合が不十分にしか実現しなかったことと、全国自治会に対する同盟の影響力が弱いこと、各大学自治会の再建、強化の実例をもって全国の大学に影響力を拡大していく闘いの重要性を意味していた。
筑波全国化に対決、各大学の民主的改革闘争を通じて自治会の再建、強化へ前進!
法案制定後各大学で進行する大学再編攻撃に対決し、各大学で大衆的な自治組織が確立された。
大阪市立大学では、三・一六闘争を通じて工学部クラス学科代表委員会の一年間に及ぶ闘いを経て、九月二六日工学部自治会が再建された。また、反動大アエ教授を市大から追放すると共に、逃亡を続ける教授会に対して学生、院生、助手、講師による反独占、反公害の視点に立った自主講座が開始され、反独占攻撃の砦「論」の設置へとつきすすむのである。
阪学大では、池分自治会(民青執行部)の無政策、無方針の下で、春期、筑波法案粉砕関争、柏原統合移転反対闘争、また、寮、同実組、解放研等の学大の民主的改革闘争の構築を背景に、池分自治会選に勝利した。
関西大においても、中核派と右翼の二元支配が続くもとで、筑波闘争、全学六千名の学長団交に勝利した解放教育闘争を背景に、経済学部クラス活動連絡会譲が六月正式自治会に発展、当局、民青、トロ諸派の妨害を打ち破って選挙戦に勝利した。
東洋大経営学部自治会でも、十一月値上げ発表の中で、値上げ白紙撤回、移転阻止、団交実現のストライキを貫徹、五青協(党自、経自、中哲自、哲自、文連)のもとに全学的影響力を高めていった。
東理大では五年ぶりに十二月一日全学自治委員総会(理、工、薬、理工)の成功をかちとり、理工学部自治会のイニシアティブを全学的に拡大するに至った。また、新大管上程策動阻止、管内管理体制強化、理工系総合学園都市構想にもとづく神楽坂学部の野田移転策動を阻止する闘いとして展開されていったのである。
また、全国百校以上に及ぶ学費値上げ攻撃の中で、立教大における三千名団交、値上げ据置の確約、桃山学院大における七〇〇名の対理事会団交、国庫補助要求の確認、学費凍結の成果は特筆すべき闘いであった。
「学費凍結法」制定、「新大管法」粉砕十万名署名運動を提起
毎年連続する学費値上げ攻撃と七四年度予想される大学運営臨時措置法の改訂と新大管法制定策動に対し中央委員会は対政府緊急スローガンとして四項目を提起した。
①新大管法上程を中止し、臨時措置法を即時廃棄せよ!
②学費凍結法を即時制定せよ!私学教職員人件費を全額国庫負担せよ。
私学振興財団法を即時廃棄せよ!
⑨日本育英会制度を改革し、四万円奨学金を必要者に完全支給せよ!!
以上のスローガンを中心にして十万人署名運動を提起し、自治会連絡会議を提起するのである。
この闘いは、筑波闘争に際して協力を克ち取った宮之原氏(社会党)をはじめ、木島氏(社)、故望月氏(社)、有島氏(公明)との協力を実現し、衆、参二〇名近い議員を紹介者として通常国会予算修正の闘いに入る条件が一定存在していたこと、また、反インフイ、生活危機突破国民共闘(七三年末のオイル・ショックを契機として)の結成と相まって、社会党府本、公明党府本、民社党府連、総評大阪地評、解同大阪府連などからこの署名の支持がよせられたことなど広汎な社会勢力に、学生運動の課題が受け入れられる基盤がつくられていた。
しかし、これら政策の実現は、全国学園での大衆的をストライキ闘争、対政府交渉を通じてのみ可能であり、課題を明確にした全学スト、統一行動こそ現実的方針であった。とりわけ、同盟の長期的、また、根本的な反独占改革(教育政策の分野において)の政策の優位性の名の下に自治会執行部のスローガンとして確認することによって各大学の大衆闘争を少なからず後退させたのである。とりわけ、筑波法案粉砕闘争を経て、全面的を政策の必要性の強調から情勢、大衆運動の発展段階を無視した全国闘争の方針提起、主体的条件の過大評価が存在していた。全国的な環-新大管法とそれに結びついた各大学の課題の設定と具体的政策こそが第一義的に考慮されねばならなかったのである。
「新大管法」粉砕!「自治会連絡会議」、
「大学改革綱領」の政策が一般的に提起された同盟十三回大会
同盟十三回全国大会は、学生運動の政策方針の検討というよりも、青年同盟との兄弟的連帯を色濃く出した大会であった。
大会は第十二回全国大会以降克ち取られた一つ一つの教訓を十分に普遍化することなく民青系「全学連」にとってかわる地方別の自治会連絡会議の方針を確認した。
各学園の民主的改革闘争と結合した筑波全国闘争、市大、阪学大の自治会建設、強化の教訓、また、筑波全国連帯行動、対政府十万名署名に対する十分な総括、主体的条件の把握に対しての論議はつくされずに終わった。
そして、臨時措置法即時廃棄、私学助成法粉砕を課題として、全国闘争の準備には自治会連絡会譲は不可欠とのもと地方別自治会連絡会議を提起した。また、第十二回大会テーゼにもとづいて大学改革綱領(案)を提起するものである。
一般的に正しい自治会連絡会議、大学改革綱領も、主体的条件の到達段階、全国民主改革闘争の具体的把握が十分なされていないならば、全国学園闘争を一歩一歩有効に進めていく力とは転化しないのである。
沈滞した新大管法制定策動阻止闘争!
流産した地方別自治会連絡会議!
七四年、八月十五日、臨時措置法期限切れを前に、政府独占資本は新大管法制定策動、日教組弾圧という反動的対応に終止した。また、全国学園の”紛争”校に対して即刻機動隊導入を通じて管理強化を徹底させた。
全国各学園では、五月下旬、法政大工学部、阪大教養部、六月京大教養部、三学部、七月東理大理工学部-ストと単発に終わり、筑波法案粉砕全国闘争よりも後退した地点に立たされたのである。
大衆運動の発展が自治会連絡会議を必要とし、全国的闘争に首都、大阪の学生運動を引き上げらねばなこbないという認識のもとに闘われた新大管法、私学助成反対にした六日東京、大阪各々の自治会統一行動派百人足らずの結集という悲惨な結果をもたらすのである。
一方で、各学園の新大管法粉砕と結びつけた粘り強い民主的改革闘争は前進するのである。
法政大工学部自治会費凍結解除、学館建設闘争、関大経済学部、社会学部自治会の新大管法、狭山闘争での発展、東洋大経営、社会学部自治会の学費値上げ糾弾!朝霞移転阻止闘争の前進、東理大自治委長選勝利、阪大人間科学部自治会建設などの成果を収めてきたのである。
とりわけ、政治反動、管理強化を進める当局の具体的動向に牽先を向けて闘いは前進を見せたことが特徴的であった。
東理大・関大で典型的な学費闘争を牽引!
十三回全国大会第四回中央委員会は、新大管法・自治会連絡会議の十分な総括が宙に浮いたまま、秋期学費闘争に突入するのである。
学費闘争に対する政策提起は立ち遅れたものの、単なる学費値上げ阻止のみならず、文教予算拡大、学内予算配分へ介入する予算闘争の展開は新たな質を生み出した。
全国二百校近くに及ぶ過去最大の学費値上げ攻撃の下で、七一年全国一四二大学の国公私学学費値上げストライキ闘争以来、全国的大衆的を闘いは不十分にしか展開されてこなかった。しかし、東理大、関大は、後に我々が定式化していく学費値上げ阻止′文教予算拡大′の闘争の萌芽をつくり、その比類なき大衆性と戦闘性において高く評価されるものであった。
東理大においては、これまで学費値上げ発表(説明会)-バリケード封鎖-機動隊導入という悪しき循環を打ち破り全国的にも類のない大衆闘争として発展した。十二月学費物価スライド制導入、また、教職員への勤務評定導入の理事会発表に対し、一三〇〇名の学生大会の力を背景に「学費値上げ阻止!宮内教官処分白紙撤回!厚生施設改善!」を掲げ理事会団交を要求し、二日間ストに突入した。
当局は五名の学友に処分を決定、一日にはスト突入、連日二千名を越える学友の同盟登校で試験ボイコットを続け、対政府文部省デモには千五百名の隊列を実現した。また、関西大学では、理事会の値上げ発表以来粘り強い闘いが展開され、一月には空前の決起が克ちとられた。社、工、商、経、文、法の各学生大会が連日嵐のような勢いで開催され、十四日には五千名の結集で全学学生大会が成功した。結成された全学学費値上げ阻止共闘は、十七日理事会団交に七千名の学友を結集させ、居直る当局を追いつめていったのである。
学生内部の統一を徹底して追及し、当局、理事会の反動的部分を孤立化させる大衆的学生大会-ストライキ、団交による闘いは、全国学費闘争の先駆的成果をました。
分裂の困難を克服し、阪市大を先頭に学費-予書闘争の発展
第十四回、第十五回大会の二度の年内開催をもとにデモクラート派の分裂に終止符を打ち、第十六回全国大会へと前進していく。この過程での市大、田中会館-学費闘争は、全国の国公私学値上げ-国立大における学則改訂を通じた二・六七倍化、公立大の国立並みへの追随という情勢の下で、典型的な闘いをつくり上げた。十二月、二〇クラス決議、二度の工学部長団交を経て「学費値上げ阻止、文教予算拡大!」クラス連絡会譲が結成され、十二月十七日には、学長団交要求の第一波スト、そして、一月二〇日からは団交逃亡への抗議ストを行い、二月二日には全学学生大会が一三〇〇名で成立するのである。大衆的な七度の対市抗動、そして、総評、国労、動労、全林野、社会党、部落解放同盟からの連帯をかちとり、四〇〇名近くで二度の労学連帯集会を成功させるのである。
第十六回全国大会は、阪大はじめ国立大における学費闘争の政策の立ち遅れ、力関係の十分な考慮のない「反対声明!」一般の要求に停まった点を総括しながらも、市大における学費闘争を個別学園における最大限の闘いと評価し、①田中会館建設に伴う独占資本の介入に対して民主的権利を擁護した闘い、そして、寮、奨学金、また、解放教育確立-大学改革予算闘争として闘かわれた文教予算拡大闘争と結合して闘かわれたこと、②また、私学訴訟支持声明から学費値上げ反対声明として全学同問委はじめ各学部長声明を実現し当局内部の矛盾を最大限利用し、反動的基礎を堀り崩す闘いとして展開されたこと⑨そして、二度に渡る労学連帯集会の成功(市従労組は組織動員)をもって最大限社会勢力との連帯を実現したこと、④かつ、学内の自治会、クラスを中心に粘り強い統一戦線の形式への努力が払われたことなど、まさに学費-予算闘争の典型、明日の学生運動の未来を指し示す闘いとして教訓化されたのである。
「低成長下における学生運動の転換点」を提起–同盟十六回大会の全般的政策の確立
同盟第十六回全国大会は、七三年石油ショック以降の世界的規模での恐慌の進行、とくに、デフレ政策を基調とする三木内閣の経済政策(蔵相は福田)、また、高等教育懇談会報告に分析を加え、「各学園に広汎に成起する政治的可燃材料の蓄積」を指摘し、それらを吸収しうるTOTALな政策提起の必要性を強調した。奨学金改革闘争、寮闘争等の文教予算拡大闘争の諸政策と共に学費闘争、移転闘争、雇用闘争の政策確立に努め、先の市大、田中会館-学資闘争の全面的教訓化の下に、「低成長下における学生運動の
転換点」と同盟の闘いの到達段階を規定したのである。
第十六回全国大会に導かれた教育学園闘争は、これまで解放研運動の枠でカンパニアに淳っていた奨学金改革闘争の新たな発展を準備した。関西大国文学科で告発された成績条項による不当選考によって落選した「Ⅰ君に奨学金を貸与せよ!」のスローガンのもと、いわゆるⅠ君闘争が教官の支持アピールのもとに、全学に波及し、学内選考基準の改善、関大奨学金制度改革への突破口として発展した。
また、冬、新九〇名寮の無条件オープンを要求する市大寮闘争が二カ月間のストライキ闘争をもって勝利的に前進した。杉本寮の閉寮と、新寮立替による寮費値上げに抗議し、寮委員会とクラス、自治会の共同闘争を繰り広げ、新寮要求者組合のもとに多くの寮を必要とする学友が結集した。全国寮闘争が、独自要求を軽視し、戦術的エスカレートや政治闘争至上主義、反弾圧闘争へと傾斜し、政府、文部省の人退寮権利奪攻撃が強まっているおり、全国に輝く成果であった。
そして、とりわけ、秋、冬期力強いストライキ闘争で闘かわれた東洋大移転-学費闘争は十六回全国大会の内容を豊富化し、典型的な闘争として闘かわれた。長年に渡って闘かわれてきた朝霞移転阻止闘争の春期からの高揚の中で、同盟は「白山改善!学館建設!」のスローガンを提起し、四千名に及ぶ学長団交の勝利を武器に、十二月期から値上げ理事会決定に白紙撤回を求めてストライキ闘争に突入した。「移転の財源学費値上げ阻止!」のスローガンは、全学統一闘争の相合葉となり、社会、経営学部を中心に全学ストライキ共闘が結成され、数度の団交を経て、一月期当局のロックアウト、暴力ガードマンによるストライキ破壊に徹底して闘い抜き、二月四〇〇名の私大連抗議行動へと登りつめた。
また、東理大においても、大学祭の破壊攻撃に対して野田理工学部自治会、神楽坂自治会、サークル同好会、文化会の統一闘争によって千名を越える学生大会を成功させ、休講措置、施設使用権を擁護し、学友会強化へ飛躍的に前進した。
まさに、中教審答申の修正版=高等教育懇談会報告の示される政府・独占の攻撃は、各大学に全般的な大学再編、とりわけ、首都四二大学、全国百校を起える移転、統廃合として打ち出され、露骨な重点投資と低文教政策によって学生関係予算の一層の切り捨て、寡頭管理支配体制の強化を伴って進行している。
第十六回大会以降の総括で確認された四大学をはじめとする闘争は、各学園に成起する広汎な政治的可燃物に分析を加え、課題が提起されたらクラス、自治会、サークル、寮の統一戦線が形成され、文教予算拡大!大学の民主的改革闘争として学生運動に対する健全な意義がつちかわれている。
しかし、同盟の影響下にない大学では、学生運動指導部の悪しき政治主義とセクト主義議会主義によって、除々に大衆的決起の物的条件が失なわれ、政府、独占の反動的介入に屈服した姿をさらけ出している。全国学園闘争は、筑波法案制定以降、法案全国化、学費値上げの通年化、物価スライド制の導入の前に後退を余儀なくされている。
せまりくる攻撃に対して同盟は立ち遅れてはならない。諸党派が政府、独占の大学再編攻撃の分析をなしきれず、日常的な予算改革闘争、クラスを基本単位とした自治活動の再建を十分に担い切れない今日、全国学生運動の統一の旗手として我同盟の使命は極めて重要である。
全国的な情勢、どんな闘いも見逃すことなく教訓化し、大胆に前進しよう!更に多くの大学へ、戦線へ同盟の影響力を拡大し大衆的政治同盟の飛躍的強化をかちとろう!
勝利は我々の手中にある!
【歴史】同盟再建第十二回全国大会
【歴史】同盟再建第十二回全国大会
第十二回大会中央委員長 西野 治
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
<特集:民学同15年の軌跡より>
民学同が結成一五年を迎えた。私が同盟に参加したのは一九六九年七月一四日であるから、私個人の同盟とのつきあいだけでも九年余、実に感慨深い。
この一〇年の間だけをみても同盟は数多くの試練に直面した。私の経験からすれば、加盟と同時に「民旗派」諸君との分裂にまき込まれ、亡くなられた森先生から、「君、よくこちらへ来たなあ。学生はだいたい実感主義で、このごろはハネ上がりの実感が多いから自分の進む道がわからんようになったらシンドイ方を選んだ方がエエ。そしたらまあ間違わんよ」と励まされた。これが先生との最初の出合いだった。
大阪市大の文学部で自治会再建の気運が高揚した一九六九年ごろ、「学生共闘の連中に文学部委員会再建を先に呼びかけろと言うといたよ。彼らはセクトが強いから先鞭をつけささんと一緒にできんやろ。君らはそれに答えて二番目に呼びかけたらエエ」、万事この調子で、自治会再建や学生全体の利益のためには、自派の名誉や出陣争いのようなつまらない事にこだわるな、これを徹底的にたたき込まれた。
小野先生のことで最初に思いだすのは、工学部三・一六闘争中のことである。初めて工学部学生大会が提起された時、民学同(統一会議)工学部班名のビラを配布した。小野先生の一喝をうけた。「工学部の学生が民学同のスローガンを自分たちのスローガンと考えてたちあがっている時、今まで公然活動をしていない同盟のビラをいきなり出せば、無党派の活動家との間にヒビがはいるじゃないか。まったく不用なセクト的態度だ。」大衆の自発性を最大限生かし、政治同盟はの中でもっとも献身的に闘いぬくことによって、不抜の信頼をかちとること、最悪の敵に主要攻撃を集中し、他のすべての層を結集して統一戦線を築きあげること、両先生が哲学や政治経済分析を通じてくり返しわれわれの頭の中に、たたき込まれた理論と思想こそ、同盟一五年の歴史を支え、三度の分裂にもかかわらず、そのたびごとによみがえり発展してきたのであった。
同時に、吉村励先生や横田三郎先生・山本晴義先生、平和と社会主義の志賀義雄・小森春雄各氏・労働者党の松江澄・波多然・原全五氏、労働運動では、巣張秀夫・南野正明氏ら解放同盟の上田卓三・大賀正行両中執、平和運動の森滝一郎・近藤幸四郎‥堀一郎・和田長久氏ら、国会議貝の宮の原貞光・故望月優子さんなど、数えあげればキリがないほど多くの方々のご支援・ご埋解に支えられてきた。民学同はまことに幸せ者である。
民学同がほんとうに、大衆的政治同盟として成長するためにも、より一層多くの各界の民主的指導者・活動家との深い信頼関係を築きあげられるよう期待したい。
二
民学同が一五周年に際して発表されたいくつかのアピールを見せてもらった。歴史を総括するということは一朝一夕にはできない。民学同はまだ発展の途上であるし、”学生運動の統一”という事業は、まだ数歩前進したにすぎない。同盟内でもまだ未決着な理論的課題があって当然といえる。
大切なことは、未決着な課題に早急に結論をだすことではない。現実を直視し、冷厳な批判の精神をもっと検討し、現実の中に、発展のモメントを見つけだすことにある。
苦言を提する訳ではないが、たとえば一九七三年の筑波闘争も考えこみたい。一九七三年という年は、学生運動に新しい徴候が見られた年であった。その代表はなんといっても早大四万学生を総決起させた川口大三郎君殺害に端を発する早大民主化闘争であろう。関西でも大阪市大の三・一六闘争など、全学をゆるがす諸課題が相次いで火をふいた。
民学同は実によく闘った。束京理大のストライキをはじめ、阪大・市大・大阪学大がストに突入した。しかし、このストライキも様々だった。東京理大は筑波問題で、大阪市大の工・教養は三・一六で、大阪学大池分・天分は移転問題という具合で、六・二三中央集会を学生大会決定したのは東京理科大と阪大教養部だけであった。
当時学生単独の集会が首都でもたれたことは、特筆すべき画期的な出来事である。とくに大阪ではその年、学大池田分校自治会選に勝利し、市大エクラ代や阪大文学部自治会、関大経自選の圧勝など、学生運動統一へ大きな可能性を開いた。
「だが現実はまことに冷厳である。同盟がたとえ動員数を膨大に発表しようと、わが同盟が単独で全国自治会の統一行動をくり返し領導し、全国をゆるがすような力をまだわれわれに与えはしなかっ
た。
「画期的な結集」とは、七〇年安保のあとの低迷した(われわれも含めて)学生運動の諸集会と比べてであって、一挙に、全国自治会統一行動や大阪自治会統一行動の指導部隊として名実ともに認知されるようなものではなかった。
むしろ、この過大評価にもとづく「自治会統一行動」なる熱病は、一方で、やっと苦心のすえ再建された自治会に学友の期待が集中している目前で学生の意識情況もかえりみず強引な「自治会決定」をやってのけて、学友から孤立する結集を招いた。他方、自治会のない大学では、自派が認定した行動スケジュールをクラスやサークルに押しつけ、民学同が瞳のように大切にしてきた”クラス・学科・サークルを基礎にした統一”という、もっとも苦労の多い活動を軽んじる結果を招いたのではなかったか。
大阪学大池田分校自治会こそその典型であった。民膏指導部のセクト主義を批判し、全学大の統一を高らかに宣言した新執行部ではあったが、数年後、セクト主義の業病となったデモクラート派の拠点となって、みじめな敗北を喫した。
歴史的事実を過大に書きしるしてはならない。四年をサイクルに指導部が一新する学生運動の場合はとくにそうである。過大な評価をうのみにすることから、自分たちがいま立っている時点がどこであるのかを見失ない、より大きな誤まちをひきおこす結果となりかねない。
筑波闘争の総括を見ても、今さらながら私自身の重大を責任を感じてならない。理論的思想的にはすでに伏線があったとは言え、デモクラート派が、民学同の精神のひとつを投げすて、セクト主義へひた走っていった実践的な契機がここにあったように思うのは私だけだろうか。
学生運動統一の事業はまだまだ前途多難である。同盟組織も地方ごとに事情が異なり、各大学ごとにも条件は様々である。三ケタの同盟員を擁する支部もあれば、数名で悪戦苦闘し、一サークルでコツコツと基礎づくりに専念している活動家も数多いと思う。
また統一の事業には潮時というものがある。一党派・一個人の主観的意志によって歴史は変わるものではない。大きなうねりが起こりはじめた時、だれよりも早くこの流れに着目し、方途を見失って思うにまかせる学友に行く手をさししめすことのできる力量を一歩づつ積みあげ、みがきあげる地をはうような努力こそ大切であろう。正しい政策の提示すれば決起する、とはこういう苦労があってはじめて至言となる。同盟の指導部はこうしたもっとも困難な現場の活動家に細心の注意をはらって、行動の計画をつくりあげる必要がある。
三、
学生運動の統一のことを考える時に避けることのできない課題は、”民学同の再統一”という問題ではないかと思う。
三派の民学同の結集はたちまち全国北は東北地方から南は九州まで、全国一〇〇大学に近い支部建設を可能とする。
私はこのことが当面すぐに実現するとは思わない。しかし、平和共存や反独占民主主義あるいは単一全学連の再建を掲げつづけ、同じ趣意・規約をもつ組織が、将来統一される可能性は否定しえないし、むしろ、日本共産党の再建という事業が進行する過程で、三派の民学同や労働者・建設者同盟・思想運動などの民主的学生の統合が進む方こそ自然である。現実に民雄派支部の中でも、岩手大・静岡大・金沢大・熊本大や名古屋・兵庫の各大学で奮闘する諸君の活動とエネルギーには充分学ぶべき点もあれば、敬意を表すに値するものも多い。
しかも、一端卒業すれば、困難な職場活動や多くの戦線で互いに協力しあっているのが実情である。
しかし残念ながら、現在では相違点が膨大にされ、感情的に争う傾向が前にでている。組織の分裂は、一面、共闘のはじまりでなくてはならない。日本にこうした民主主義の伝統がないことこそ、森先生がもっとも嘆かれていた点である。
少なくとも新時代派の指導部の皆さんだけでも、つまらぬ正統派意識と手を切って、言わばケンカ分れした兄弟を見つめるような気持で、常に統一の姿勢を全面に押しだして口先だけでなく誠心誠意努力してほしい。これができるとすれば、それは今のところ新時代派の諸君ではないかと思う。
私は理論闘争を停止することを提案しているのではない。ただ激しい論争にもかかわらず、共通の課題においては共同行動をもち、そのための共通の作戦会議や、民学同統一懇談会のようなものが実現できるほどの民主的な気風を身につけるほどの努力を言っているのである。森信成先生の追悼記念集会からでもそういうことができるとすれば、頑固な唯物論者であった先生も、さぞかし草葉の陰で喜ばれるであろうと思う。
四、
もうひとつ、最近の急速な軍国主義強化とファッショ化の情報のもとで、われわれは真剣にわれわれの闘い方、運動の幅の広がり、ほんとうの意味での大衆運動のあり方、ということを検討し直す必要性について述べておきたい。
一口に言えば、左業主義の精算である。八月の原水禁運動でいつも思うのは、現地広島や長崎はともかくとして、日本の終戦記念日がちょうど盆にあたり、多くの国民は墓まいりをしては戦争で亡くした夫や父親や兄弟の歳をかぞえ、しみじみとした感慨にふけるのである。こうしたまったく素朴な”死者への思慕”が平和運動の中に吸収されているだろうか。左翼と称する人々が提起する課題やスローガンは、こうした国民感情を考慮の外においやっているように思えてならない。反戦・平和の闘いは一部の独占資本をも巻き込みうるようなもっとも広汎な社会的基盤をもっている。大学内でも、紋切り型のスローガンの押しつけでななく、それぞれの思想や信条・宗教をも認めあったうえで、なお共通の活動を進めることができるような創意ある多種多様な活動形態を考えだす努力こそ望みたい。
それは他の分野でも同じである。定期的におこなわれるゼミナールの交流会や学生の学術発表会などでも、同盟が一五年をへて学び蓄積してきた理論的成果は充分通用すると確信している。専門的な学問分野でも一人一人の同盟員が各闘争の中で学んだ階級的視点をみがきあげ、科学と民主主義の代弁者となることによって、理論的思想的信頼と影響力を学生運動とは直接関係のないようなマジメ学生や教官の間にも広めることができるはずである。自民党と政府が政治反動やファッショ化を進める背景には、既存の左翼勢力だけなら充分押しきれるという狡猾な読みがある。これと闘うわれわれは、より幅の広い層をまき込んだ統一戦線でこれにあたらないと勝利の糸口はつかめない。同時にこうした活動を通じて、民学同と学生運動が、より一層大きな社会的諸勢力と結合し、協力関係を深め、真にすべての民主的諸勢力の共有財産として成長することが可能となるのではないだろうか。
民学同は、小野・森両先生はじめ多くの先輩の導きをうけて不滅である。しかしこの理論を、各分野で実践にうつし、運動と組織の物質的力に仕上げるのは諸君とわれわれOBの仕事である。
苦労も多いがやりがいのある闘いが各戦線に待っている。ともに学び団結して前進しよう。
【歴史】統一会議時代の思い出
【歴史】統一会議時代の思い出 -民学同創立十五周年によせて
鳴海安英
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
<特集:民学同15年の軌跡より>
民学同統一会議は、「現政研」=学生共闘派の分裂活動に対して、一九七〇年三月、同盟の統一と全国的・民主主義的再建のために結成された暫定的組織であった。その後一九七三年春の民学同第十二回全国大会の開催によって、この統一会議は発展的に解消され、同時に私たち世代の仲間も大半が社会に出ることとをった。
嵐のような全国大学闘争、沖縄闘争、七〇年安保闘争に真正面からとりくんだこの時期は、日本の学生運動にとっても特筆されるべき激動の時代であったと思う。
小野先生・故森先生はじめ多くの先達、諸先輩に指導され、試行錯誤をくり返しながらも私たちの世代はこの時期に、実に多くのことを学び、青年期の形成をはかってきた。この時期に面識を得た中野重治、吉川勇一、小田実、故中西功、上原康助、武井昭夫、他各氏らとの接触と、いただいた協力・助言等も小生には忘れられないものである。
長かった学生生活を終え上京、既に五年半が経過した。私事で恐締だが、小生は既に二児の父である。同世代の仲間たちも社会人として、中堅のかかりに位置している。ある意味では学生時代はもはや過去のことであり、懐しい思い出にすぎないともいえよう。
今回、民学同創立十五周年に際して、原稿依頼を受けたが、現役当時の闘いを総括することは適任ではないし、現在の同盟員諸君に教訓を垂れる程のキャリアもないので、勝手ながら、自分の経験の中で最近の思うところを述べてこれにあてたい。
(専門家としての自覚を)
民学同が学生同盟である以上、同盟員はやがて卒業し、社会に出る。大学院に残って研究生活を続ける人もいる。ところで、最近の雇用状勢は悪化する一方であり、卒業後の進路選択は思うにまかせないのが実状である。
私たちの時代も同様で、活動家排斥もあって多くが第一志望の途を歩みえなかった。小生の仲間の中には、ずば抜けた才能の持主も数多くいたが、これを活かす職場を見い出すことは極めて困難であったといえよう。このことは、私たちに一つの傾向を生じさせることとなっていると思う。すなわち、大学における専攻とは無関係を職場の選択である。同時にこのことは学業(=専門家としての基礎的蓄積という意味で)を軽視することにも通じている。率直にいって、小生が五年間の学生生活の中で、講義に出たのは全体でせいぜい一年間位であった。物理的余裕がなかったといってしまえばそれまでだが、そのことによる影響は現在にも及んでいる。学生運動と学業の両立を可能にするためには、睡眠時間を減らすこと、優秀な学友を見い出すこと、短時間でも集中しうる習慣を身につけることなどが必要である。
このような問題は、自明のことではあるけれど、この際あえて強調しておきたいのである。
小生はこの間、「知・労」に日ソ漁業交渉や「日中条約」問題について寄稿してきたが、そのための取材活動を通じて、実に多くの専門家たちと知り合った。国家公務員・外交官・商社員・水産企業・国連職員・経団連など各種団体の専門職員・新聞記者・全日海幹部・防衛庁OB、各種研究機関の研究員、等々。
現在わが国をめぐる政治・外交・軍事・経済・文化・労働運動、いずれをとってみても各界各層の専門家がそれに携っている。独占資本は、大衆から収奪した資力で、自らの延命のためにのみ大量に専門家を養成してきている。国家的規模で、あるいは各企業毎に専門家は生産されている。
先に紹介した専門家たちも個人的には能力もあり、仲々好ましい人々であるが、その世界親・価値観は、多くがわれわれとは全く逆方向を示しており、実に不気味である。
社会変革の中核は労働者階級であり、それを中心とした広範を統一戦線の形成こそ、原動力である。そして、現代社会のように社会的分業が広範多岐にわたり複雑化している中では、各分野の専門家の存在の重要性は言を待たない。
国家独占資本主義の下での、進歩的意識をもった大量の専門家の輩出は、今日の日本の労働者階級、反独占民主主義勢力の最重要な課題の一つといえよう。これは、民学同という”学校”を卒業する人々にとっても最も関心を払うべき課題になっていると思われる。
このことは、小生にとって古き良き時代をかえりみた時に思い起す苦い教訓でもあり、現在の民学同同盟員諸君への期待でもある。専門家としての自覚を高めそれを活用しうる条件を獲得していただきたいと思うのである。
(大衆的基盤の強化を)
民学同は、プロ学同派・学生共闘派・「デモクラート」派らの脱落による三度の組織分裂を経験している。十五年の歳月を考えた時、組織分裂という不幸を事件の代償がもいかに高価なものであるかと思わざるを得ない。
万一、かかる不幸を事態が回避されていたら、民学同は日本の学生運動の歴史を書きかえていたといっても過言ではあるまい。しかし、-このようを仮定は、現実主義的ではなく、われわれには許されないことである。
現在では、OBを中心として労働青年同盟(準)が組織され、学生諸君との連繋を深めながら闘っており、さまざまな大衆団体も活動を続けている。このようにわれわれの存立基盤が強化されることを通じてのみ、大衆的影響力が増大していくのである。したがって、今後は現在ある基盤をいかにして強化していくのか、さらなる、発展をいかに推進していくのか、あらゆる面から具体的に検討をすすめていかなければならない。息の長い、同志的討議による作業が前提であるが、学生諸君からの積極的をとりくみにも期待しておきたい。最後に故森信成先生の言葉を引用して、結論としたい。
「理論と実践の統一は.、わが国では、理論の現実への具体化としてではなく、しばしばアジア的な『知行合一』の問題として、すなわちただちに身をもって行動することとして、それへの『注意』『決断』『踏みきり』の問題として把握され、戦後、幾多の決意・実践の哲学を、つまり主体的唯物論をうみ出してきた。しかし、人間の行動を根本的に規定するものは客観的な物質的必然性であってあれこれの理論ではなく、マルクスやレーニンの書物を読んでも容易に腰をあげようとしない人々が、主体的唯物論者たちが実践の哲学を捻出したからといって動き出すものではない。したがってこういう企図は哲学者たちのたんなる自己満足以上の意味をもちえない。こうした容易に動こうとしない善良な意志を動かすにはどうすればよいのかの具体的な政策について考えること、これが唯物論的な問題のたてかたである。問題解決のカギはしたがって、天上にではなく地上に、意識の内部や奥底にではなく外部に、実践の哲学にではなく政策-戦略・戦術-にある。そしてこれが理論と実践の統一の意味である」(森信成『マルクス主義と自由』合同出版・六六頁)
一九七八年九月三〇日
民学同の一層の発展を祈りつつ。
(元民学同統一会議議長)
【歴史】都委員会結成の思い出
【歴史】都委員会結成の思い出
初代都委員長、A・M
「新時代」誌 第12号 1979年2月14日
民学同創建15周年に対して心から御祝いと連帯、共に闘う決意を表明いたします。
東京の地に民学同が、都委員会という地方指導部を持ち具体的に結成されたのは、一九六四年でした。大阪から遅れること一年半あまりでした。
当時、東京における学生戦線は、きわめて混乱と分裂の状況にありました。その中で、平和共存派と言われる共産主義青年同盟、社会主義学生戦線・フロントが、一定の影響力を持っていたわけです。したがって、彼らと一時期、兄弟的同盟の関係を樹立する努力をしようではないか、ということで、一定期間、努力を続けた経過がありました。残念ながら実りある成果は得られませんでした。と いうのは、彼らの持っている小型共産党的性格、あるいは、一連の平和闘争・反独占闘争をめぐる評価等において、大きな相違が存在した実情の中で、兄弟的同盟への結合の努力というものは、実を結ばなかったということです。
したがって、この時期は、民学同を結成することを留保していた時期で、その話し合いの決裂とともに、東京における具体的を結成が始まったということです。
こうした歴史的経過も、東京での結成が若干遅れた事情の一つとなったわけです。
それから、当時、学生運動の混乱ということを申しあげましたけれども、学生運動全体が、いわゆる社会主義学生同盟-プンドと言われた部分が、束京では主流派を占めていました。その他、諸々のトロツキスト諸派と言われた諸潮流が存在し、特にこれは思想状況の問題でもありますが、きわめて思想的にも混乱が著しかったわけです。
このような事情も影響していたかと思い出します。
こうした経緯を経てー東京における具体的な同盟建設というものが行なわれたのです。
まあ、建設に際しては、当時、民青指導部により除名されたグループですとかーその後、新たに結集してくるグループを含めて東京における建設が進められたかと思います。
そして、民学同東京都委員会準備会の名乗りを上げて活動し始めました。厳しい試練の連続でしたね。
例えば、各支部一人という状況が多々ありまして、これは私なんかの経験も含めてですけれども、当時、日「韓」・原潜闘争がありましたけれども、各大学では同盟員が一人で民学同の旗をかついで校門の前に立ち、闘争への決起を訴える、こうした闘いが当時としては典型的なを取り組み方でございました。今だから言えますが、かなり無茶をことをしたもんだと思い出しますね。あるいは、私の所属する大学でこんなこともありました。原潜阻止闘争を展開した際に、全員で横須賀まで動員をかけたわけです。ところが、とにかく金がない。どうするのか、との話しにをりましてね。一晩かけて譲諭したけれども結論がでない。とにかく金がないからどうしようもないじゃないか、という話になりましてね。結論としては当時、自治会をにぎっていたブンドがバスを出すから、このバスに乗っていこうということにしたのです。プンドは、かなりの影響力も低下していました関係もあってバス二台位出したわけです。数としては一二〇~一三〇位で、その内、我々が意図的に乗っているのが三~四〇名でしたか。そして、着いたとたんブンドの集会には行かないで、我が派の集会の方に結集したわけです。そういうことで、多少のトラブル一めいたこともありました。
このようを、かなり”悪どい”こともしながら、束京における同盟建設というものが進められていきました。
というような経過で、あまりにも思い出話みたいをことになって恐縮です。若干ですが、東京における当時の結成をふりかえりをがらエピソードみたいをものを紹介させていただきました。
ところで、今日、皆さんを見わたしておりますと、当時とは比べものにならないくらい、非常に多数の同志が結集されていて、たいへん心強く感じます。その意味において、同盟建設から十五年の闘いが決して無意味ではをかったし、むしろ、大きな足音を、日本の学生運動・青年運動を築いていることに心から喜びを感じるとともに、この喜びをもっと大きくしたいと思います。とくに、十五年ということを一口で言いますと、サイクルとしては民学同に所属する期間が四年ですね、それをおし計れば、以降十一年間にわたって労働運動や各戦線に多くの同志を送り出しているのであり、これは、やはり大きを力であろうと思います。この力を踏まえて、青年同盟建設の闘いも、同時的に闘われているわけですけれども、やはりその力を土台として大きを財産として我国の平和と平和共存、社会進歩の為の闘いを担うことを確認する為に、今日の集会があるだろうと思います。その意味で、今日、開催された十五周年記念集会を心から祝うと共に、これから更に我国の平和と平和共存、そして社会進歩に向うための巨大を共同闘争の新たな出発点として、闘いを開始すること、そのためのエネルギーの結集、そして闘う宣言の日とすることを皆さんとともに御誓いして、御祝いの言葉にかえさせていただきたいと思います。
(記念集会でのあいさつより)
【歴史】民学同十五年の軌跡
【歴史】 民学同十五年の軌跡
元大阪府学連委員長 松原 敬
民学同理論政策誌「新時代」第9号(1978年5月)より
民主主義学生同盟の誕生は、私達にとっては、急速な流れの中の、いわば必然的な出来事でした。
日々要請される大衆的自治会運動前進への苦闘、大衆運動の力によって、からくも統一を堅持していた大阪府学連の闘い、全国的統一への拠点としての関西三府県学連の共同闘争、極左緒潮流のセクト主義・冒険主義との闘い、そして民青同盟内における民族主義とセクト主義に対する闘い、これらは、多くの先輩や学友のよき指導と援助にささえられていたが、現在の民学同の仲間が苦闘し、前進する姿と共通のものであった。
民青同盟内における私達の柔軟で頑強な闘争によって、共産党中央の学生戦線分裂方針(平民学連結成方針)を多数によって否決、これに対する大阪府委員会や、党中央学対の一方的介入による私達の除名決議、数カ月後の除名不確認、府委員会直属同盟員への移行、そして組織的断絶、等々(当時、私達除名の先頭にたった民青大阪府委員会副委員長北島は、その後五年程前の赤旗に写真入りで、入党以来一貫して警察のスパイであったという除名発言が行なわれた)-これを背景に、民学同は結成された。
民学同の誕生は、平和と反独占民主主義、大衆運動の統一と統一戦線を、なによりも重要なこととして、登場したのは必然的なことであった。
この小論は、一九六三年九月一五日に結成された民主主義学生同盟が、大阪府学連を指導し、全国学友に共通課題にもとづく共同闘争の大胆な呼びかけを通じて、「左」右の日和見主義と闘い、自己を鍛え、全国的に成長を遂げた第四回大会までの闘いの歴史と教訓について述べた。民主主義学生同盟の仲間の諸君、並びに全国の民主的学生諸君の闘いの糧になれば幸いである。
民学同の結成は、何よりも大衆運動のるつぼの中から、大衆闘争そのものの要請として提起された。
一九六〇年日米安保条約反対闘争後の、全学連(全日本学生自治会総連合)の分裂、各都道府県学連の解体、学生運動の沈滞後も、一貫して統一を堅持し、政治的暴力行為防止法案反対闘争、大学管理法案反対闘争、米原潜寄港阻止闘争、等々、平和・民主・学生生活擁護の大衆関争を力強く推進してきた大阪の学生運動に依拠して、民学同は結成されたのである。
この間の事情について、民学同第二回大会常任委員会報告は、次のように述べている。「わが同盟は、その綱領的文書『結成趣意』において、平和共存、日本の民主的革新、全学連再建の旗を高く掲げている。この基本的立場こそわが同盟が、現在の学生運動の混乱を止揚し、その真の発展を勝ち取る最も先進的を部隊であることを明確に示すものである。わが同盟はほかではなしに、あの時期に結成されたことの意義については次のことがいいうる。学生運動の危機がもはやゆうよできないところまできたこと、そして民主主義的青年を代表すべき民主青年同盟の指導部の多数がますますセクト的分裂主義的、民族主義的傾向を深め、ついには平民学連結成によって学生運動の発展と全学連再建の最大の障害と化したこと、さらにかかる危機的状況にあって原則的な大衆闘争を展開してきた大阪府学連に対して、民青=平民学連派は、執ような分裂活動を行っていたこと、そしてこの任務を遂行するためには、これまで我々が行なってきた大衆団体を通じてのもしくは個人的マニュファクチュア的な連絡ではもはや限界に達し、新しい飛躍がー広範な民主主義的学生の結集を可能にする強固な同盟の結成-が必要とされていたことである。このような学生運動の現状にあって、平和共存と民主主義、真の大衆闘争の統一の立場を貫徹する大衆的部隊はわれわれをおいてほかにないこと、われわれのこの判断が正しかったことは結成大会後の情勢の進展そのものが証明している」
それは、学生運動の危機と分裂を一層押しすすめる左右両翼の日和見主義との闘いであった。このことについて民学同第一回大会「現情勢と当面の任務に関するテーゼ」は次のように強調している。「全学連の分裂の原因は、共産主義者同盟=社学同、革命的共産主義者同盟=マル学同など次々登場した諸政党派によって、全学連中執、地方学連、自治会にそれら諸党派の「革命」の路線が、しかもまったく勝手きままを誤った「革命」の路線が直接おしつけられたことに、そしてそれら極左小児病的・セクト的路線を承認しない自治会の代表を大会その他から暴力的に排除したことに、全学連・地方学連・自治会の組織内民主主義の極端な破壊に、一言にしていえば、諸党派による大衆組織の私物化にあった。
かくして学生の共通の利益を守り、平和と民主主義のために広汎な学生が結集すべき全員加盟制の自治会は多くの大学で破壊された。
これらの党派は浮き上り、ますます細分化し、政治的に堕落した投機分子の小集団にかわっている。」
これらは必然的に、全国的に統一された広範な統一闘争、日本の学生運動が誇りうる巨大を全国的統一行動、共同行動をまったく不可能にしてしまい、全学連の基礎的単位たる自治会組織そのものの危機をまで招来したのである。
一方、学生運動の中においては「歌って踊っての民青」とさえいわれた民青指導部は、共産党の指導と引きまわしによって、一九六三年米英ソ核実験停止条約を「ペテンだ」「毒まんじゅうだ」とする中国毛派の見解を全面的に支持し、平和・原水禁運動分裂の先兵となりつつ、学生運動の中に、自治会組織そのものの中にまで、分裂組織の結成に乗りだした。
「一九六二年七月結成された平民学連は、この混乱に拍車をかけ、全学連の分裂をますます押し進める方向に作用している。平民学連はその指導部をセクト的民族主義的冒険主義的分子によって占拠された日本共産党・民主青年同盟によって直接指導されている自治会・サークル・個人の連絡組織として結成されている。彼等は一方において、「だれでも、どこからでも」「いかなる要求でも」というまったく無内容な.身の回り主義的なスローガンを掲げつつ、一方では共産党・民育の民族主義的セクト的政策を直接自治会に押しつけ、意見の違う人々をすべて敵視し、修正主義者、トロツキストを追放しない限り、全学連の統一はありえないと、問題をまったく逆さに立て、「修正主義者」「トロツキスト」狩りに狂奔している。」(同上「テーゼ」)
民主主義学生同盟は、以上のような情勢の下で結成されたのである。それは、平和共存・反独占民主主義・統一戦線の旗を高く掲げた「広範な民主主義的学生の結集を可能にする強固な同盟」として結成されたのである。
それは誕生の当初より、大衆闘争の防衛と発展、統一をなによりもひとみのように第一義的に重視する大衆的政治同盟として結成されたのである。
当時すでに、平和共存・反独占民主主義を掲げながらも、共産主義青年同盟や共産主義学生同盟、あるいは社会主義学生戦線(フロント)等を名乗っていた人々が、現実の大衆闘争・統一戦線の要請とは別個なところから組織路線を出発させたものとは、決定的な相違をもっていたといえるのである。
「大阪府学連二七五〇(阪大一五〇〇、大工大四〇〇、市大四〇〇、学大一五〇、経大一五〇、女子大・関大その他一五〇)、京都府学連二六三〇(立命一五〇〇、京大五〇〇、同大四〇〇、京学大一〇〇、京医大一〇〇、京工繊三〇)、兵庫県学連二〇〇、その他五〇、総計五六〇〇余の学友を結集して開かれた 『六・一九改憲阻止・日韓会談粉砕全関西学生総決起大会』は、改憲阻止勢力の健在を高らかに証明するとともに関西学連結成に向けての前進を勝ちとる巨大な集会として大きな成功を収めた。」(「民主主義の旗」16号)
この六・一九京都円山公園音楽堂に結集した関西三府県学連続一行動は、岸・佐藤に代表される極右冷戦反動グループの胎頭、憲法改悪の動きに鉄槌を与えると同時に、分裂と混乱の中で停滞する学生運動に対し、五八年警職法反対闘争以来の学生の大集会として圧倒的成功を収め、全国の学友に、学生運動への、その大衆的基盤への大いなる確信と連帯を呼び戻した。
このようを大阪府学連を中心とする関西学生の統一した闘いは、学生戦線の全国的統一闘争を強力に推進する軸となり、原潜寄港阻止闘争において、ついに東京においても三五〇〇名の隊列を築き上げるほどの無党派活動家の登場をもたらすに至ったのである。
民主主義学生同盟は、「セクト的利害でなく大衆闘争を追求する以外に全学連再建と学生運動統一の道を切開くことはできない。」 (第二回大会常任委員会報告)との基本方針のもとに、これらの闘いの献身的な推進者となると同時に、自らの大衆的同盟への飛躍と全国的同盟への前進を勝ちとるべく多くの努力と闘いを推進する。
民学同第二回大会は、「大衆的同盟への飛躍のために」と題して、「我々は広範な学生を結集しなければならない。そのためには、我々の活動が意識の高い活動家だけを対象としたものであってはならない。我々のすべての情動-宣伝、煽動、活動形態等々-が同盟に結集しうるすべての学生を対象としたものでなければならない。従って、①セクト主義を払拭すること、②全戦線分野で活動すること。」を特に強調している。
そして同時に、「平和共存・反独占民主主義、関西学連の再建で一致できる政治同盟との強力な統一指導部を結成しなければならない。」として、東京教育大を中心に東京において大きな役割を果たしていた共産主義青年同盟、法政・立命・神戸大を中心とするフロント(社会主義学生戦線)との協議機関、並びに統一指導部の確立、全国的単一学生同盟結成への共同の努力を呼びかけるのである。
共青については、「共産主義青年同盟の諸君を、我々は平和と民主主義のための闘争における兄弟的同盟者として考えているばかりでなく、現代の基本的諸問題についての見解が一致しており、きわめて近い将来、組織的に統一する。そして出来うる仲間と考えている」(第二回大会報告)と評価したのである。
そして統一指導部結成のために「わが同盟は、あらゆる努力を行なったが次の諸点で会議が不成功に終ったことを確認せざるを得なかった」として、民学同第三回大会報告(六四年)は、「統一指導部の組織形態について主要には共青との不一致があった。共青は将来にわたる問題としても、民主集中制の指導機関ではなく、協議機関的・調整機関的をものとして統一指導部を位置づけていた。それは運動の要請にそわないものであったことを明らかにし、具体的には、共青の諸君の関西学連結成についての消極性、全学連再建のもつ意義についての軽視を指摘し、統一指導部結成のための交渉は一時中断されたものである。
共青は一九六二年一月東京準備会、同二月教育大支部結成により公然化したのであるが、当初は政治路線についても民学同と多くの共通点を持ち、統一闘争・共同行動を積み重ねてきたのである。がしかし、その名称に体現される組織性格・組織論については、共青結成準備過程より、日共内・民青内において内部闘争を継続し、かつ大衆闘争の先頭に立っていた我々は、多くの批判的意見と同志的忠告を行なっていたのである。
共青は、六二年一月の東京都準備会結成総会において、「共青とはどういうものか」として「第一にそれは、共産主義運動の一環であるという前提を明確にすることが最も重要である」ことを強調し、同時に、「しかし、共青は、ほとんどの場合に、共産主義について全く知らないか、ややぼんやり知っていても実際の行動の中でしっかりした信念にまで固まっていない青年が対象である」と、まったく矛盾に満ちた組織性格を明らかにするのである。このような組織路線と、「反独占社会主義革命を目指す前衛党建設を目的意識的に目指う」という結党路線、「軍縮世代、生産代議制、自主的世界観の形成」という政治路線は、それぞれが全く混乱したものとなり、闘いの存立基盤、運動の内的根拠をまったく無視した、彼ら自身の言葉によると「指針なき後退戦」によって、数年後にはそれぞれの支部は独立同盟化し、消え去っていかざるを得なかったのである。このような過程は同時に、フロント(社会主義学生戦線)においても進行した。
民学同は結成以来一五年の過程で、「プロレタリアートの階級的見地を学生の中で代表する」としたプロレタリア学生同盟の分裂をはじめ、数度の苦い経験を経ながらも、大衆的政治同盟として一層の発展を積み重ねてきている。
今再び、民学同の名称、形式、性格、目的、 「反独占民主主義の実現」「科学と民主主義の理論」「民主団体との自主的協力」等について、 「プロレタリアートの党派的見地」からすれば、まったく妥協的表現であったとして、この制約を取り除くことを茶番劇とも知らずに実演しようとしている無責任なデモクラート派OB諸君が存在する時、そのような愚行は破産をしかもたらさないことを同志的に忠告せざるな得ないであろう。
全国的大衆的政治同盟へ
「一九六三年九月一五日、大阪の地に登場した民主主義学生同盟は、その後、東京・京都・岡山等に建設され、今や全国津々浦々の学園に燎原の火のごとく燃え拡がろうとしている。大阪においてともされた一点の火花はもはや消すことのできない大きな焔となりつつある」 -六五年一月一五日、同盟の全国化、三月の全国大会に向けて呼びかけられた「全国学友へのアピール」は、冒頭このように述べ、「全国同盟として登場する民主主義学生同盟-それは層としての学生運動の指導的中核部隊であり、大衆性・科学性・戦闘性・民主主義に貫かれている組織である-は輝かしき全学連第三創世期を必ずや担うであろう」として、すべての民主的進歩的学友の共通の事業として、全国的大衆的学生同盟の建設を呼びかけたのである。
全国に拡大する闘いの輸
すでに、このアピールに先立ち、六四年四・一七ゼネスト破壊への共産党・民青指導部の犯罪的役割に対する党・同盟内外での闘争を経て、岡山大学支部が結成され、短期間の内にその大衆的影響力を確立し、自治会指導権の確立にまで達しようとしていた。さらに同年十一月には、京大・同志社大を中心に京都民主主義学生同盟(準備会)が結成された。京都民学同(準)は、その行動綱領において 「われわれは、この重大な任務を実現すべく学生戦線に結成された民主主義学生同盟の先進的闘いを高く評価し、その趣意と規約を基本的に支持する。民主主義学生同盟をこの京都の地に建設し、東京をはじめとする全国の大学・学園のすみずみで民主的な学生を結集し、名実ともに単一の全国学生同盟に発展させることはわれわれの急務である」と宣言している。
これらの闘いは同時に、東京においても、共産党内民青同盟内闘争を経て中央大学に民学同が結成され、すでに大衆的影響力の確立へ一歩踏み出していた神奈川大学支部とともに、同盟の全国化をめぎす首都での闘いが着実に開始され、明大・東理大・教育大・東洋大・早大へと、支部結成・拡大の闘いが展開されていくのである。
冒頭の「全国学友へのアピール」は、このような闘いを背景として、大阪・京都・岡山・東京を中心とする民学同全国(準)委員会の結成によって発せられたものであった。民学同第四回大会は、このような経過を経て、六五年三月全国大会として開かれたのである。
民主的学友の共有財産
これらの闘いの中で明らかなように、民学同が他の政治諸党派と違って特徴的な事の一つは、共産党の評価とも連なる民青同盟の評価である。第四回全国大会においても、「結成趣意」の中であらためて確認されているように、民学同は、民青を「日本の民主的青年を結集し、代表すべき民主青年同盟」として評価し、かつ、「一部指導部の民族主義・官僚主義・組織内民主主義の破壊により、民主的青年の要求を反映しえなくなっている」こと、また、「青年の先進的部分が民主青年同盟から組織的に排除されている」こと、そして「民青一部指導部のセクト主義、分裂主義は青年戦線の統一と学生運動の正しい発展と全学連再建の大きな障害になっている」ことを明らかにしている。
同盟第四回全国大会は、これらのことを踏まえつつ、「同盟の基本的性格の徹底と同盟の全国化のために当面次のことが課題である」として、第一に「我が同盟は全国のすべての民主的・良心的学友の共有財産となるべき性格を名実ともに明らかにするためには『先進的学友は民学同に結集せよ』では全く不充分である。それは『すべての民主的学友は民学同に結集しよう』というスローガンによって置きかえられなければならないことを強調しつつ、民青評価に関連して次のように確認している。
「民主青年同盟の中で献身的・良心的に闘っている部分(それは全国に広汎に存在する)との接触を話し合いと連帯を深め、共同の闘いを粘り強く追求し、これらの学生が学生運動の統一と高揚のために我々と共に努力するよう働きかけ、民青指導部のセクト主義・分裂主義・プチブル民族主義の克服という共通の課題のために闘うこと。民青同盟の中にはいまでも全国で最も多数の戦闘的でまじめな青年が広範に組織されていることを決して忘れることはできない。この評価と他の潮流とを区別する大きな特徴である」
現時点における日共・民青指導部の一層の民族主義と議会主義・セクト主義への下落の中で、評価はより一層厳しくされて当然であるが、空文句的な革命党建設や小型共産党的青年同盟論が横行している時に、この原則的見地をあらためて豊富化することが要請されているといえるであろう。 (つづく)
青年の旗 1979年1月1日 第23号
青年の旗 1979年1月1日 第23号
【主張】 ”三国同盟“の危険な幕開け
<平和に敵対する同盟>
一九七九年は、米中両国の国交樹立をもって幕を開けた。一月二九日には、鄧小平を団長とする中国政府代表団がワシントンを訪問し、三月には、大使交換が行なわれる。アメリカは、米台相互防衛条約を廃棄するとともに、四か月以内に在台米軍の撤退を行うという。
ここに、昨年五月のプレジンスキー米大統領補佐宮の訪中と反ソ大合唱以来、急速に進展してきた米中反ソ同盟は、一つの結実をみた。カーターは、共同コミュニケ発表に当って「両国は、ソ連あるいは他のいずれかの国に損失を与えるために新しい相互関係を利用しようとの意図をまったくもっていない」と声明したが、華国鋒は、コミュニケ本文中の”アジア・太平洋地域における覇権に反対する”という項目は、ソ連とベトナムの”覇権主義”に対するものであることをあからさまにした。
米中団交回復に当っての最大の難問であった台湾問題は、こうして反ソ統一戦線の利益の上に埋没してしまったっ アメリカにとっては、米中国交正常化後も、台湾の米大使館の全機能は米通商代表部の設置によって遂行され、米台貿易と兵力50万に及ぶ台湾軍への軍事援助は続行され、台湾の全現状は維持されるのであり、中国はそのことを承認したのである。
そして中国にとっては、台湾をソ連、べトナムに対する″反覇権の行動調整”、共同行動をめざしうる足場にすることにあった。それは、日本、韓国における米軍の強力な存在を何度となく公式非公式に肯定してきた同じ立場である。さらに重要なことは、台湾には、米国独占体、多国籍企業の中国への進出、導入の足場としての役割が与えられつつあることである。
<真価問われる民主勢力>
昨年の“反覇権”日中条約の締結、そして米中国交正常化によって日本は、いよいよ米中日反ソ三国同盟の当事国となったのである。この三国同盟の本質は、アジア・太平洋地域における平和と緊張紹和、軍縮、民族解放と社会主義に敵対する、いわば集団覇権主義にある。日本は、自らの軍事力、自衛隊の増強、日米軍事同盟の強化を通じて、また中国の軍の増強、近代化政策に直接間接、大規模に加担することによって、世界とアジアにおける平和と軍縮の敵対者、冷戦と反動の共犯者となっているのである。
あらためて指摘するまでもなく、中国は核実騒停止条約や核拡散防止条約など、平和と軍縮のための国際条約や協定のどれ一つにも一切加わらず、緊張緩和のための良心的で現実的な提案すへてを口ぎたなくののしり、毛批判の進行の中においてさえ第三次世界大戦は不可避だなどと危瞼で馬鹿げた反ソ言辞を大まじめにふりまわし、帝国主義諸国、ファシスト諸国との恥知らずな同盟に全力を投入し、ついには最も犯罪的な、べトナム人民への敵対行動にまでエスカレートさせて、世界の冷戦反動勢力を喜ばせている国である。
そして日本政府は、中国、米国と共に、昨年の第33回国連総会においては、「核兵器を保有していない国の領土に核兵器を配備しない」というソ連の提案に反対票を投じ、「核軍拡停止と核兵器のストックなどその運搬手段の段階的均衡的縮少に関する交渉の早期開始」の非同盟諸国決議案を支持せず、武力不行使世界条約締結についてのソ連提案をも支持しなかった唯一の被爆国政府である。
日中条約締結への消極的賛成の日本共産党まで含めて、日本の反自民野民勢力はすべて、反ソ北方領土要求においては中国の支援を背にその反ソ民族主義の覇を競い合っている。一九七九年、日米中の平和と緊張緩和に敵対する危険な同盟の出現に対し、日本の民主勢力の真価が問われている。一九七九年を、意義ある大転換の年とするために闘おう。
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新時代 第94号
青年の旗 1978年12月1日 第22号
青年の旗 1978年12月1日 第22号
【主張】 首切り・合理化旋風と対決する強大な産別統一闘争を
79春闘を前にして、人減らし、首切りの雇用合理化施風が吹き荒れている。74年の経済恐慌以来、資本は減量経営の名のもとに、競って人減らしをはかってきたが、今やその総仕上げともいうべき全面的な合理化攻勢に出てきている。
その最も典型的な現われは、日本を代表する独占的大企業が具体的な人員削減計画を発表し、率先して首切りの大なたをふるおうとしていることである。新日鉄七千人、三菱重工一万人、石川島播磨重工人件費20%削減などがその事例だが、いずれも社会的影響の大きいビッグビジネスだけに、業種の好不況を問わず、特に製造業全般にわたって、ますます減量経営・合理化の嵐が吹きあれることは必至である。
最近、沖電機で実施された指名解雇は、その一つの現われであり、これまでになかった露骨な首切りをなりふりかまわずやりぬこうとする資本の意思を有弁に物語っている。
構造不況業種の中でも最も深刻な危機にさらされている造船業界では、運輸省が35%の設備廃棄を告示したことにより、工場閉頒が相次ぎ、ナダレ現象的に首切りが起こることが確実視されている。有名な大阪の木津川筋から造船所がなくなるという前代未聞の事態さえ予想され、こうした「官制首切り」ともいうべき運輸省の35%削減告示に対して造船労働者の反発はにわかに強まってきている。
「減量」でポロ儲けの上場大企業の九月中間決算は、売り上げの伸びがゼロだったのにもかかわらず経常利益は一四・一%も伸び、戦後初の「減収増益」決算になったと報告されている。
なかでも、鉄鋼・繊維など素材産業の急激な収益回復が目立っている。
七千人の合理化計画を打出した新日鉄の経常利益は対前年比四・四倍にも増えている。
構造不況の代表格である繊維でも、大手合繊七社がそろって黒字を計上し、著しい回復を見せている。繊維労働者がこの四年間で約二三万人、合繊七社で三万二千人とおよそ四割も減らされたことが、黒字転化の最大の要因であることは明らかである。
産業労働調査所の調べでは、四十九年四月から今年の春までの四年間で主要二百五十社の人減らしは約十七万三千人、四年前の従業員数の約七・五%に達している。円高・不況にもかかわらず、「減収増益」という戦後初めての収益構造が生まれたのも、石油ショック後の減量作戦がもたらした結果といえよう。
この四年間、実質賃金の切下げと抑制に成功した資本は、雇用面でも大巾な人減らしを達成してきたのである。賃金か雇用かという選択を迫った資本の狙いが、実際は賃金も雇用も削減して、不況下でも自からの利潤拡大のみをはかることにあったことは今や明白であろう。
しかも、資本は、大企業を中心に、第二次減量作戦ともいうべき、質量ともに厳しい減量合理化を新たに強行しようとしているのである。
<雇用合理化との全面対決を!>
この間の雇用不安が、春闘四連敗の背景であったことを考えれば、資本の計画する雇用合理化と全面対決することなくして、79春闘の勝利はおぼつかないといえよう。
″第二次減量作戦″では、これまでの自然減や新規採用の中止などのソフトな方法だけでなく、配転・出向・転職優遇制・定年選択制・一時帰休・希望退職募集・長期帰休・指名解雇など質量ともに厳しい減量手段をいくつも組み合わせて目標を達成しようとしていることが特徴である。
それだけに、労働者の対応も、人員滅につながる具体的な現われを一つ一つつぶして、雇用の確保・拡大をはからねばならない。希望退職-指名解雇に至るまでの雇用合理化攻撃にきっちり反撃しなければ、いざ指名解雇が出た時、闘えない状況に陥る危険性がある。
このような職場での抵抗闘争を基本に、同意約款を含む雇用保障協定・職場定員制・時短と完全週休二日制・定年延長などを、労働者の雇用確保・拡大の要求の柱としてとりくまねばならない。とくに、個別企業毎の各個撃破を阻止するためには、雇用闘争を産業別の統一闘争の中心に据えてとりくむことが必要である。
<79春闘で大胆な賃金要求を!>
大資本は、賃金抑制・人減らしで不況下にもかかわらず利潤を拡大してきた。79春闘は、この四年間の実質賃金の低下を回復させる闘いである。そのためには、雇用不安の脅しに萎縮することなく、実質賃金の維持・向上がはかれるような大胆な要求を組織しなければならない。
私鉄総連の79春闘要求案十二・一%、二万円の賃上げ要求額は、実質賃金の維持向上をはかる上での最低ラインであろう。同盟の六%要求では実質賃金の維持さえできないことは明らかである。
経済恐慌の犠牲をもはやこれ以上労働者にしわよせすることを許してはならない。大儲けした大資本の利潤をはき出させるためにも、私鉄総連を上回る要求づくりを行う必要がある。同時に、私鉄総連の提起した賃金・物価スライド制の要求は国債の消化が困難化し日銀引受け、財政インフレも予想される情勢のもとで合目的であり、前号で紹介した賃金政策と合わせて闘われるならば、これは日本の労働組合運動を前進させる重要なポイントとなるであろう。
いずれにせよ、79春闘は大企業労働者に首切りが断行されるという新たな危機のもとで闘われる。
新日鉄・沖電気に代表されるごとく労働者の反撃は開始され、それは拡大しつつある。JCの右翼的組合幹部の「雇用のために賃金抑制を」というデマゴギーは次第に通用しなくなっている。
問題は、こうした大衆的な反抗を部分的あるいは地域的なものにとどめることなく、それを全国化させ、統一させることである。そのためには、わが国の全民主勢力がそのセクト主義と議会主義の悪しき偏向を捨てさり、正しい統一政策を打ち出し、大衆の利益のために闘いぬくことが不可欠である。
われわれの基本任務もまたここにある。
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青年の旗 1978年11月1日 第21号
青年の旗 1978年11月1日 第21号
【主張】 鄧小平来日と危険な同盟
<「新時代」の意味>
鄧小平副首相の来日は、確かに「日中の新時代」を画するものとなった。しかし、その意味は、ジャーナリズムが描くような「アジアの平和への寄与」 にではなく、日本が「中ソ等距離の立場をやめ、中国に傾斜する」という「戦後世界政治の大きな転換の一つ」(ワシントン・ポスト紙)を行い、「アジアの新らたで危険な緊張激化の火種」を生み出した点にある。
日本政府は、「日中条約」が反ソを意味するものではなく、すべての国との平和友好を願う日本の”全方位外交”の路線上にあると必死に印象づけようとしてきた。しかし、その化けの皮は鄧小平のみならず福田自身の発言によって剥がされた。
鄧発言によれば″覇権主義反対″は「条約の核心」(25日記者会見)であり、それをうたい込んだことは「国際条約の中における一つの創挙(はじめての出き事)」(23日歓迎会での挨拶)であった。そして、この規定は「中日両国自身を拘束し、覇権を求めない義務を担うものであると同時に、国際の安全と世界の平和を脅かす当面の主な根源である覇権主義に手痛い打撃を与えるもの」 (同右)なのである。
つまり、″覇権条項”は、単なる抽象的な理念の表明や言葉の言い換えではなく、条約の根本精神であり、具体的な特定国への政治的打撃を狙った現実の政治的行動である。その行動は、「ある行為についてそれが覇権にあたるかどうかを中国と話し合ったり、結果的に日中共同で覇権かどうかの意思を表明することもありうる」(園田外相、国会答弁)かなり緊密な共同行動も含んでおり、政治的同盟を意味するものである。
<ソ連主敵を確認>
「中日両国が現実的脅威に直面している」その覇権主義が、はっきりとソ連を指していることも明確に語られた。鄧小平が、「新らたな世界大戦の危険」として挙げたのは、「ソ連は核軍備と通常兵器を強化している」 (福田・鄧会談)ことだけだった。一方福田は、「これ(全方位外交)は等距離を意味しない」「世界の現状の中では、日本への侵略があるかも知れない」ので、安保と自衛力で「日米共同して日本を侵略から守ることにしている」と鄧小平に弁明した。ここに至って、日中両首脳は、覇権に侵略の国がソ連と認め合って会談を進めたのである。
更に、「日米安保支持、日本の自衛力強化当然」の鄧発言が出るに至るや、反ソを核に結ばれた日中同盟が一層軍事的色合いの濃いものとして浮かび上がってきた。従って、アメリカが「(アジアに関する限り)ソ連に文句をつけられる筋合いなしに、自国安全保障を強化」することができた(ワシントンポスト紙)と、ほくそ笑んだのも当然だった。
<国際世論からも危険視>
”覇権条項”を含む対中条約は、諸外国にとって”火中の栗”である。アメリカでさえ対ソ・対中関係はあくまでもビジネスライクであれ、と慎重に構えている。それを敢えて拾い上げた福田と日本独占の狙いは、勿論中国市場にある。石油公団の権限を拡大して乗り出そうとしている珠江油田を始めとする原油や三倍近く伸びたプラントなど機械類、それに鉄鋼、肥料、化学と財界の触手は活発に動いている。
しかし、目先きの果実を得ようとして決断した、世界で類をみぬこの重大な選択は、将来世界からの孤立を招くことになるだろう。
第一に、ソ連に対する領土要求や反ソ冷戦緊張激化政策は、世界の平和共存の巨大な流れに逆行し、手厳しい経済的政治的打撃を日本は被むるだろう。第二に、東南アジア諸国は軍事大国でもある日中の共同進出に警戒心を一層強めており、フィリピンのマルコス大統領は、「アジアの二大国の関係強化で、アジアの他の国々が脅威を感じてもそれは自然だ」とさえ語っている。
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