【書評】徐京植『半難民の立場から–戦後責任論争と在日朝鮮人』

【書評】徐京植『半難民の立場から–戦後責任論争と在日朝鮮人』
                   (2002.3.25.発行、影書房、2,800円)

「植民地支配、世界戦争、大量殺戮に特徴づけられた二十世紀は、まもなく終ろうとしている。その最後の十年間、日本における『証言の時代』は、日本と日本人が過去の国家犯罪への謝罪と償いを通じて新しく生まれ変わるための好機であった。日本国民が国民大多数のコンセンサスを得て、アジアの被害民族に深く謝罪し、個々の被害者にその損害を賠償することは、過去の犯罪の償いという意味からだけでなく、未来の東アジアにおける相互信頼の醸成と平和の確保のためにも避けて通ることのできないプロセスである。元『慰安婦』などの被害者証人は、その意味で、いわば未来の平和のための証人であった。

しかし、日本において、この証人たちは尊ばれなかった。むしろ、しばしば辱めさえ受けた。『証言の時代』は、無残な現実を私たちの眼前にさらけ出している」。

本書の著者、徐京植がこう書いたのは、2000年のことであった。あれから21世紀となった現在、事態はむしろより悪化して、かたくななナショナリズムと全くの無関心とが手を携えて進んでいるように思われる。本書は、「在日朝鮮人」の立場から、日本社会のあり方を厳しく問い続けてきた著者の姿勢を鮮明に示す書である。

著者によれば、「在日朝鮮人」とは、「日帝の植民地支配の歴史的な結果として旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮人とその子孫」と規定される。すなわち「在日朝鮮人が①『少数民族』一般とは異なり、『本国』をもつ『定住外国人』であること、②「『移民およびその子孫』一般とは異なり、その定住地がほかならぬ旧宗主国であること」という特質に加えて、「③その本国(とくに『北』)と日本とが分断されているという、ヨコにもタテにも分断された存在」である。そしてこの複雑な状況が、個々人の内部にまで抱え込まされている。またこの状況は、「祖国」(祖先の出身地〔ルーツ〕)、「母国」(自分が現に国民として所属している国家)、「故国」(生まれたところ〔故郷〕)が分裂した存在とも定義できる。ちなみに著者の場合には、「祖国」は「朝鮮」、「母国」は大韓民国、「故国」は日本ということになる。そして在日朝鮮人の置かれている状況は、これら三者が分裂しているというのみではない。

「その『故国』と『祖国』とが価値において対立しているということが、いっそうの問題なのである。『故国』である日本社会の多数派は天皇制をはじめとする植民地支配の時代以来の価値観を改めようとはしない。それどころか近年では、日露戦争は正義の戦争であった、日本の挑戦植民地統治は善政だった、劣った朝鮮人を日本人並みに引き上げてやった、などという醜悪な自己中心主義の言説が台頭している。そうした価値観は『祖国』朝鮮のそれと真っ向から衝突するほかない」。

このように著者は、在日朝鮮人の複雑な位置を踏まえて、近年日本社会の危険な動向とそれに伴う「断絶」を指摘する。著者は、この「断絶」を、アウシュヴィッツの生き証人の作家、プリーモ・レーヴィの例を引いて語る。

すなわち、人間の理解・表現能力を超えたアウシュヴィッツの悲惨な出来事について証言するという必死の努力を続けたプリーモ・レーヴィは、その凄絶な体験を全身全霊で語るなかで、かえって自分の周囲に冷たい無関心や無責任な批評–「そんなことは想像できない、実感がもてな、信じられない、重い、暗い、はては『ルサンチマンはもうたくさん』など」–を見出すことになった。「こうしてプリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツの証人になっただけでなく、その証言が一般社会に伝わらない、理解されない、真摯に受け止められないという『断絶』の存在を証言する証人にもなったのだ」。

これと同様のことが、元「慰安婦」の証人たちにも生じている。

「証人の数は多くはないが、いないわけではない。証言がないのではない。しかし、ほとんどの人々は、無知と無関心、愚かさや浅薄さ、利己主義、根拠のない楽観主義、想像力の貧困や共感力の欠如–その他どんな理由からにせよ、証人の姿を見ず、証言に耳を傾けないのである。ここに、二十世紀を特徴づける深い『断絶』が口を開けている」。

著者は、この日本社会の責任を明確に問うための手がかりとして、ハンナ・アーレントの「罪」と「責任」の区別を提示する。それによれば、「罪」は個人に帰属するべきで、集団に帰属されるべきではないが、「集団の責任」には2つの条件がある。すなわち、①「自分が行なっていないことに対する責任があると見なされること」であり、②「自分の自発的行動によっては解消できないしかたである集団(集合体)に成員として属していること」である。それ故この責任は、常に政治的であるとされる。

この視点から言えば、「なるほどこのように『罪』と『責任』は画然と異なるものであるが、当事者でない戦後世代に『罪がない』という側面のみが強調されて、『責任がある』という側面が捨象されてはならない。そもそも明確に『罪』がある当事者たちが平然と跋扈し社会の中枢に位置を占め続けているのが日本社会である」。そして現在の日本社会で圧倒的な部分を占める中心部多数派日本国民にとっては、この視点を欠落させていく傾向がある。しかしこの傾向を黙認していくことは、むしろ現在の「罪」につながると著者は強調する。

「『証言の時代』の十年間を経たいま、『知らなかった』『気づかなかった』というような言い訳はもはや通用しない。考え抜かれたものであるのか、それとも、あまりにも考え足りないのかはともかくとして、『意図的怠慢』という告発は大多数の日本人たちにも向けられなければならないであろう」。

著者のこの言葉は、まさしくわれわれ自身に向けられており、われわれの姿勢が問われていると言えよう。

著者の他の著作–『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999年、朝日新聞社)、『断絶の世紀 証言の時代–戦争の記憶をめぐる対話』(高橋哲哉との共著、2002年、岩波書店)等–ともども、現代日本社会への批判と警告に満ちた書である。(R)

 【出典】 アサート No.310 2003年9月27日

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