【各地からのレポート】参議院選挙を考える–広島と大阪–

【各地からのレポート】参議院選挙を考える–広島と大阪–

広島から
a.. 参院選、中国地方は五選挙区で七議席あるうち、自民党は四議席にとどまった。過半数を超したとは言え、広島では二議席独占ができず、新人の一人の奥原氏が無所属(旧同盟系、造船重機)の柳田氏に競り負ける波乱があった。また、山口では公認の新人合志氏が元参議院議員の無所属松岡氏(元光市長、旧日本新党、戦前の外務大臣松岡洋右の一族)に圧勝を許した。岡山では無所属の江田五月氏が入り、鳥取では長老坂野氏が次点の無所属の田村氏(日本海新聞現役記者)に意外な高い得票を許した。
b.. 広島の現職は新社会の栗原君子氏だった。六年前に反戦・反PKOの波に乗って社会党として初当選したが、その後社会党の社民、民主、新社会への三分裂で、今回は広教組出身の社民新人、石田氏と骨肉相食む戦い。結局は共倒れに終わり、県労会議の流れをくむ議員が遂にいなくなった。原水禁運動、反戦・反基地運動の側の失望感は大きい。社民と新社会の間では候補一本化の動きも一時期あったが、潰えた。新社会の方針に大きな影響力を持つ解同広島県連の判断はこれで良かったのだろうか。
c.. 一方、山口は社会、さきがけ、日本新党などが細川政権当時、非自民・非共産の「山口県政治改革協議会」を組織し、動いてきた。労働界が知事選では政策次第で保守系も推す動きが早くからあったが、社会、さきがけは逆にその波にのみこまれ、衆参ともに議席を失った。今回の松岡氏の当選は非自民の力を何とか復活させたと言えるが、本来保守である松岡氏の去就は分からない。
d.. 共産は全国的には躍進したが、中国地方では魅力のある候補を立てることはできなかった。島根で衆院議員を当選させたことのあるさきがけは候補すら立てられなかった。総じて言えば、戦後最大の危機が呼号された参院選にしては論戦のない、候補に魅力の無い選挙だったと言える。重厚長大産業に依存し、産業構造の転換が遅れる山陽三県。過疎・高齢化に歯止めがかからない山陰両県。動脈硬化に陥っている自民党、実態の見えない民主党。民主党よりの候補が三人当選したが、民主党を支持してのこととは思えない。本当は有権者はいずれにもNOだ。(広島・S)

大阪から  「都市住民の怒りと投票動向」
参議院選挙は、マスコミのみならず大敗した自民党、躍進した民主党自身の事前の予想を覆す結果となった。
しかし、そうした兆候は橋本首相(当時)の「恒久減税」を巡る右往左往騒動から、急激に顕在化してきた。
絵に描いたよな「朝令暮改」発言を目の当たりにして「怒るな」という方が無理な状況だった。 89年の消費税選挙の時も、有権者は怒っていたが、バブル経済の追い風もまだあって、どちらかというと、カラッとした「明るい怒り」であった。その為「風」は最初から当時の社会党に向かって吹いていたし、土井たか子も「ダメなものはダメ、やるっきゃない」と気楽に叫んでいれば良かったのである。
ところが、今回の様相はまったく違っていた。戦後最悪と言われる経済のなか、有権者は確かに怒っていたが、もはや大声で怒る元気もなかったのである。
89年を「陽」とすれば、今回はまさに「陰」の怒りであったと言えよう。この様な水面下でたまりにたまった怒りの栓を開いたのが、橋本失言であったわけだ。
こうした動向を見誤った自民党から見れば「ムカついた」有権者が「突然キレた」と映ったのではないか。
とにかく、選挙結果は大量の自民党批判票が、民主、共産両党に流れ、橋本政権は崩壊したわけであるが、どのような人々が、民主、共産に一票を投じたのか。一般には「無党派」と言われる人々であるが、そうした大雑把なくくりでは、マスコミも政党も等身大の姿を見ることはできないだろう。
そこで、民主党が比例区で83万票を獲得した大阪の場合を見てみよう。
民主党が、第一位となった自治体(市町村)は、北摂のほとんど(例外は、摂津市(井上一成の呪い?)、能勢町(旧村)の2自治体)、枚方市、富田林市、大阪狭山、堺市、大阪市内でも都島、中央、北区といった、大きなニュータウンがあったり、新住民の比率が高い地域であり、中堅サラリーマン層を中心とした、本来の無党派層が民主党に投票したことがわかる。
一方、共産党がトップなのは、東大阪市、八尾市、城東区、生野区、大正区などの、下町、中小企業の多い地域であり、元来自民党の強かった所である。
これらでは、元々自民党支持層が民主を飛び越え、共産党に投票したことがうかがえる。今回の怒りは、無党派と党派移動派の合作がもたらしたと言える。(大阪 O)

【出典】 アサート No.248 1998年7月25日

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