【投稿】なぜ物価は上がるが賃金が上がらないのか
福井 杉本達也
1 実質賃金が3.8%も低下
厚生労働省の1月6日発表の毎月勤労統計調査よると、2022年11月の1人あたりの実質賃金は前年同月比で3・8%も減った。過去最大の減少幅で、実質賃金の水準も最低に沈んだ。消費者心理を冷やし、個人消費には逆風となる(日経:2023.1.7)。岸田首相は1月4日の年頭記者会見では、「この30年間、企業収益が伸びても想定されたトリクルダウンは起きなかった。この問題に終止符を打ち。賃金が毎年伸びる構造をつくる。23年春闘で連合は5%程度の賃上げを求めている。ぜひインフレ率を超える賃上げの実現をお願いしたい。」とようやくトリクルダウン理論の大ウソと賃上げしかないことを認めたが(日経:2023.1.5)、「インフレは昨年来、予測を上回るペースで進んでいる。物価上昇が長引けば、政府が求めるハードルは高くなる」(日経・上記1.7)。
2 労働運動を「マクロ経済を守る守護神」としてしまった宮田義二鉄鋼労連委員長
なぜ、物価が上昇し、実質賃金が3.8%も低下しているのに賃金は上がらないのか。濱口桂一郎氏は、その理由を、オイルショックによる狂乱物価の中、1974年春闘では、32.9%という空前の賃上率を実現したが、当時の福田政権から過度な賃上げがコストプッシュ・インフレを生み出しているとして『所得政策』を求められた宮田義二鉄鋼労連(現連合:IMF・JC)委員長は「賃上げを控える」として、「その後の日本の労働運動をインフレからマクロ経済を守る守護神という位置に縛り付けてしまった」からであるとする(濱口「日本の賃金が上がらないのは『美徳の不幸』ゆえか? 」(『世界』2023年1月号)。「労働組合が自らの独善的利益よりも優先して、世間常識的に正しいこと、美徳とされるようなことを、率先垂範してきたことが、結果的に賃上げできなくなってしまった最大の要因なんではないか、」「オイルショックで狂乱物価になっているのに、労働組合がそれを取り戻そうとして大幅賃上げを要求して勝ち取ったりしたら、ますますインフレが昂進して、賃金と物価のスパイラルがとめどなく進行する。だから、ここは労働組合がマクロ経済のためにあえて本来やれるはずの賃上げを要求しない。それによって物価を沈静させることが天下国家のためになるんだ。」、「マクロ経済のために自分たちの局部的利益を捨てて天下国家に奉仕」したことであると書いている(濱口:hamachanブログ:2022.12.22)。
3 「美徳の不幸」の第二幕―山岸連合会長の「物価引下げ」要望
濱口氏のブログはさらに続けて、1990年の山岸章連合会長が日経連(現経団連に合併)と連名で出した「内外価格差解消・物価引下げに関する要望」にふれ、「消費者の利益こそが一番大事だ。物価が高いことが一番悪いことだ。労働者も一面消費者なんだから、企業と一緒になって、物価の引下げに粉骨砕身しようという、これは今から30年ほど前の連合の運動です。」「日本の物価が高すぎることが諸悪の根源であって、物価を引き下げれば世の中万事うまく廻るようになるという思想」「これこそまさに『虚偽意識』という意味で、その後の30年間の日本社会を呪縛してきた『イデオロギー』そのものというべきでしょう。」と述べている(濱野ブログ:上記)。その後の失われた30年は、この「物価引下げ⇒実質所得向上⇒経済成長」というもっともらしい経済理論は「100%ウソであったことを証明している。名目賃金も実質賃金も下がり続け、…企業の研究開発や設備投資も欧米どころか中国など他のアジア諸国にも見劣りする水準にまでで後退し、これら全てが日本の経済力の劇的な引下げに大きく貢献してきたことは明らかであろう。よくぞこんなパラ色の未来図を白々しくも描けたものである。日本の労働者の『美徳の不幸』第二幕と評すべきであろうか。」と酷評している(濱口:『世界』上記)。
4 産業別最低賃金(特定最低賃金)を使った横断的な産業別賃金交渉
1月7日の日経新聞では「マック、8割商品値上げ、ハンバーガーは150―170円」・「雪印メグミルク再値上げ」との見出しが躍る。渡辺努氏によると、商品の値上がり率は2022年12月時点で6%くらいどんどん上がる状況がうかがえる。消費者は物価上昇は仕方ないと考えるようになってきたことを企業が認識し、また、値上げする品目も増えている。デフレで据え置きになっていた品目も上昇してきた。いままでは物価が上がらなかったので、賃金がそのままでも生活が困ることはなかった。しかし、物価高が進む中では賃上げに生活がかかっており、労働組合には腰が据わった強い態度を求められると書いた(渡辺努:「世界的インフレ続く、日本も2%超。物価高を賃上げにつなげられるかが鍵」楽天証券『トウシル』2023.1.6)。
渡辺氏は、日本はこれまで名目賃金(実際に支払われる賃金の額。これと別に名目賃金から物価変動を考慮し算出した実質賃金がある)が全然上がってこなかった。欧米は物価も上がっていますが、賃金も上がっている。」「欧州、特に英国は生産性が向上していなくても物価も賃金も上がっている。日本もそうしたメカニズムを少し導入して、価格転嫁と賃上げがぐるぐる回るサイクルを作って」いけるかと述べている(渡辺:同上)。
今日、日本では労働組合のストライキは全くなく、欧米の労働者のストライキなどもほとんど報道されないが、2022年11月上旬Nurses across UK voted to strike!(英国看護師、一斉ストライキ突入へ!)という見出しが英国のメディアのトップニュースとなった。英国のNHS(National Health Service:国民保健サービス)の看護師として働くビネガー由希氏は「2010年代は英国の看護師が国によって翻弄され続けた10年間だった。リーマンショックの不況がまだ残る当時、国は看護師の2 years pay freeze(2年間の賃上げ凍結)を実行 し、その後5年間は毎年1%の賃上げにとどまった。この賃上げ率は英国の物価上昇に全く追い付いておらず、看護師の低収入化が進んでいった。2022年の今、英国では前年比 で10%以上のインフレが起きている。役職のない看護師にとって、今の給与では『普通の生活』が難しくなったのだ。」「to improve the working conditions(労働環境の改善)のためには看護師を増やす必要がある。そのためには『普通の生活ができる』程度の賃金は必要なのだ。ストライキに賛否両論があることは重々承知している。しかし現在のような、安全性に疑問が残るチームの人数では、看護師にとっても患者にとっても良い状態とは思えない。」と書いている(ビネガー由希:『日経メディカル』2022.12.14)。
しかし、日本の企業別労働組合が、個別企業相手に賃上げを求めても、企業は簡単に言うことを聞くはずはない。濱野氏は「『そんなに賃金を上げたら価格が高くなって消費者に買ってもらえない。他社の商品やサービスに流れてしまう』という反論は厳然たる事実であり、あるべき論で突破できるものではない。」として、そこで、横断的に「個別企業を超えてある産業の中で働く労働者の労働の価格の最低限を決め、それ未満の低賃金を禁止することで、その賃金が払えないような企業が低価格で商品やサービスを販売することを不可能とし、それなりの高価格での商品やサービスの購入を消費者に受け入れてもらうという筋道」をとるしかない。だが、現在は産業別労働組合の土俵のかけらも存在しない。そこで、各産業の普通の労働者の最低限を定める産業別最低賃金(特定最低賃金)を使って産業別賃金交渉を行い、土俵を個別企業から業界全体に変え、事業者同士ではできない賃金カルテルを、産業別最低賃金という形で行っていくことであると説く(濱口:『世界』同上)。