<古くて新しい問題 —-田崎論文批判> 大 木 透
「知識と労働」 誌第一〇号は”七四年の大衆運動とマルクス主義”を特集し総論的な”特集にあたって”各論的な七四春闘、原水禁運動、教育運動などの総括を通じて、日本共産党宮本指導部(以下宮本派という)のよく知られた右翼的偏向の数々を指摘するとともに、その現実的な克服の道として前衛組織の確立を提案している。
私は同誌の同人であり編集委員会の一員であるが、これらが、労働グループの討議も編集委員会の共同討議も至ずして公表されたので、問題点を多く含む”七四春闘の成果と残された問題” —-労働運動と 「前衛党」—-に展開されている田崎晋氏(以下氏という)の諸見解を検討しこれについて一定の意見をのべる義務があると考える。
だから小稿が「知識と労働」 グループの理論的思想的統一と団結強化にいささかでも貢献しうるならばこれにまさるよろこびはないしまた本論はこれだけを目的としている。
氏の見解の要旨
氏が展開している、わが国の労働運動の現状に関する総括の基本的立場および結論はおおよそつぎの三点に要約しうる。
(1)まず総括の視点として「単に労働組合運動の内部で、組合幹部の指導力と組合の戦闘性の問題としてのみとらえることは本質的誤りであり…闘争過程全体を貫ぬく変革主体の側の最も根本的な重要な問題として、たえずそこに(前衛党の問題にー引用者)立ち帰って検討し考慮することなしに、春闘の総括もその成果も論じることも不可能である。…(それゆえにー引用者)特殊労働組合運動レベルでの問題は、その具体的政策の問題も含めていわば副次的に取りあげるにとどめる」と前後の文脈から判断して、これがマルクス主義にもとずく、労働組合運動の正しい認識方法であるとされているらしい。
(2)この基本的立場から氏は「今春闘の成果の基本的性格は、下からの自然発生的高揚が闘いとったものだということ、このような成果はインフレの問題ひとつとってみても何ら根本的な解決を与えるものでないのは勿論、それの直接の経済的獲得物については支配階級とその政府によって全く瞬時のうち取りかえさせる一時的譲歩にすぎず、ただ次の闘争の出発点そのための組織的基盤、「意識性の萌芽』としてのみ真の意義をもちうることである。後者の意味において、春闘の成果は労働者階級の真の前衛党の確立という任務をあらためて、もはや一刻の猶予も許さないほど切迫した問題として、日本の労働運動の自覚ある部分に提起したのである」と結論している。
これは、ご存知の 「なにをなすべきか」の基本命題である、階級闘争の自然発生性(経済主義、労働組合主義)と意識性(マルクス主義)というカテゴリーをそのまま図式主義的に、現在のわが国の労働運動に適用し 「意識性の欠如」を導き出し、宮本派にかわるマルクス主義政党確立の緊急性をのべたものである。
(3)従って、確立されるマルクス主義政党は、日本労働運動を前進させるために、「国有化とその民主的管理と統制、反独占人民政府樹立」等を主内容とする、 —-今日における高度に発達した資本主義諸国共産党の国際総路線である、社会主義への接近のプログラムを改良の要求とつねに同時に要求してたたかわなければならない。そうでなければ、なにほどかでも意味のある改良は一切勝ちとられない。
論者の提出した七四春闘総括の結論は以上のようなものである 。
われわれはこれについて、 一般的抽象的論議として、とりたてて、異論をとなえようとは思わない。
それは、現実運動にはかみあわない結論だからである。
ただマルクス主義が行動の指針であり真理がつねに具体的であるからには、これらの見解が、今日のわが国の労働運動がおかれている客観的主体的条件に則して、いかなる実践的意義をもつものであるかは、真険に検討されなければならない。問題はそれ以上でもそれ以下でもない。
批判の前提
本論を通読してまず第一に疑間に思うのはつぎの諸点である。すなわち、氏が改良要求と 「つねに」 「並べて」要求すべきとしている最大限綱領あるいは“過渡的綱領”–反独占民主改革プログラム–は、その政策・戦術そのものの内容を問うまえに、一体誰がかかげる要求なのか、それは具体的にいずれの主体勢力ー党なのか労働組合なのかである。つまりそれが党の政策と戦術に関するものとすればいまさらくり返すまでもなく、単にマルクス主義の当然の前提を再言したにすぎない。現に批判の対象とされている宮本派も第八回大会綱領として、内容はともかく”社会主義”をかかげている。また、そのほかのさまざまの色あいの政治潮流も、おしなべて”いまこそ社会主義を”と呼号している。
しかし、もしかりに、氏が“反独占人民政府樹立”のスローガンを労働組合が「つねに」要求しなければならず、またそれなしに「なにほどかでも意味のある改良は勝ちとれない」 といっているのであれば、問題は別である。われわれは、氏が、当然、党の綱領問題を論じていると仮定した。だから、ここでは、問題を一歩進めて、批判の重点を、共産主義者の任務が最大限綱領を百万回くり返す”思想運動”(武井昭夫氏らの主宰する運動をさしているのではない)にはなく、労働運動をはじめとするあらゆる一般民主運動の発展方向をさし示し、大衆を闘いに立ち上らせ、その闘争経験を通じてはじめて党綱領を大衆自身のものとし–物質的力に高めうるのだという運動論においた。だが、いまもって、党と労働組合を区別せず、党を労働組合の執行機関に解消したり、あるいは反対に、労働組合そのものを反体制的政治組織に昇華させて、実質的に解党主義に走るといった誤った思想が根強く残存していることを考慮するならば、氏のこのアイマイさは問題である。
いまひとつ、これに関連して、是非問いただしたいし、またまた懸念されるのは、氏が展開している労働運動論ーつまり、”革命なしに改良なし”は、今日の国独資下における全般的危機の新しい段階に対応するそれ以前の段階とまったく異質な政治路線の”ニューモデル”として提起されているのであるかどうかである(氏は 『つねに』とのべているのでおそらく一般論であるのかもしれない)。つまり、これが、意図はともあれ、かってトロツキーがコミンテルン第七回大会(一九三五)のよく知られた諸決議に敵対し、それへの対案の一部として提出しようとしたつぎの立場と内容的にどう異るのかということである。
(すこし長くなるが引用してみよう)
トロツキーはこう断言している。「現代(恐慌と帝国主義の衰退期)における労働組合は、労働者階級の日常的必要に役立つということに自らを限定することはできない。労働組合はもはや改良主義的であることができない。なぜなら客観的諸条件は重要で持続的な改良のためのいかなる余地もあたえないからである」「したがって古い最小限綱領はプロレタリア革命にむけて大衆を系統的に動員することを任務とする過渡的綱領にとってかわられる」「帝国主義衰退期において労働組合が真に独立的でありうるのはそれが行動においてプロレタリァ革命の機関であることを意識しているときだけである。この意味で第四インターナショナルの大会決議である過渡的諸要求の綱領は党活動の綱領であるだけでなく、またその基本的性格において労働組合活動の綱領でもある」(「帝国主義衰退期における労働組合」傍点ー引用者)。
われわれは(そうあってほしいと願うが)氏の見解を曲解しているのかもしれない。また氏の表現が、トロツキーのそれに酷似しているという理由だけから氏を責めようとも思わない。ただ、ここで最小限いいたいのは、このようなトロツキストの図式主義的な単純化された極左主義が、一九三〇年代後半の、まさに社会主義が問われ全運動の統一が課題であったその時に、世界のいたるところで、全民主運動、労働運動、反ファッショ闘争に分裂と混乱をもちこみ、労働者階級に多大の犠牲と損失を与える結果をもたらしたこと、この歴史的事実に、氏は、少しでも考慮を払っているかである。
われわれは早まわりしすぎたかも知れない。しかし、氏が、全体的にややもすれば(みずからの主体的力量を考慮してか)”革命”と“党”を語りながらそれを「要求」するとか「かかげる」 とだけしかのべず、現実にどうするのかについてはきわめてあいまいな無責任な姿勢におちいっているかに見えるので、氏のこの中途半端な主張の底にある思想の本質を見ぬくために、トロツキーのより明確な純化された所説をあえてもちだした。そうでないと、この氏の見解にたいし大衆のあいだに当然生ずるであろう素朴な疑問ーたとえば 「きみは賃金要求と同時にそれとならべてつねに反独占人民政府の樹立を要求しなければならないという。では、現実に、七五春闘において、われわれは後者の要求実現のためにいかなる形態のまたどのような政治配置と同盟体制にもとづく闘争を展開したらよいのか。」 これに対し、氏が 「いや、まて、いまはその条件はない、だから一応要求の一項目としてかかげておけばよい。現実の闘争はわれわれが宮本派にかわる前衛党をつくってからだ」あるいは「反独占人民政府樹立は党の要求であるから労働組合へもちこまなくてもよい」などと答え、質問を発した労働者から「要求するぐらいのことはわれわれだってとうの昔からやっている。現に七四秋闘においてわれわれは”田中内閣打倒”をかかげたではないか。だのに、いまさら党の要求だなどとあたりまえのことをくり返すのは時代おくれだ」と失笑を買うことにもなりかねないのである。われわれは、氏にこの素朴な疑問に回答することを求めざるをえない。
さもないと、われわれは、ここで氏の所論を検討することをやめ、この労働者とともに”失笑”ですまさざるをえなくなる。これは氏には不本意であろうので、以下、右の観点から、氏の見解をくわしく検討してみることにする。
労働者の統一か党の前進か
氏は、七四春闘の大衆的高揚を指摘しつつつぎのようにのべている。
「労働者階級の団結の拡大–その『意識と組織』の前進を労働組合組織のレベルにおいてのみとらえることが誤りであり・・ 前衛的政党への組織化にこそ労働運動の根本的な真の前進を求めなければならない」と。これは、はたして現実的意義をもちうるか。
わが国の労働運動は、現在、深刻な分裂に直面している。くりかえしのべるまでもなく、氏も別の場所で指摘しているように、わが国の労働者階級は、依然として産別組識が形成されない条件下で、それを通じて“統一と団結の力と、みずからがこの社会の主人公であること”を認識し、その階級意識を飛躍的に高めるであろうーナショナルセンターレベルの統一闘争を、成功不成功をとわず、ついぞ一回も体験していない。これは、高度に発達した資本主義諸国の、反独占民主改革闘争の基本路線と諸経験をわが国に適用しようとする場合、最大の考慮事項とされなければならない彼我の主体的条件の決定的相異である。
(予断ながら”特集にあたって”の筆者は、戦略戦術論議をするまえに、党だけでなくこの主体的条件の相異もよく認識する必要がある)
われわれは、今日世界のとりわけ高度に発達した資本主義諸国の階級闘争、革命運動の成熟度をしめす決定的に重要なメルクマールのひとつは、その国の労働運動が統一されているかどうか、またその統一運動に共産主義者がいかなる指導性を発揮しているかだと考える。同時に、それは共産主義者が労働者階級に依拠しあらゆる大衆運動の統一を重視しセクト主義を排して反独占民主的多数派、労働・政治戦線統一のための正しい政策と戦術を追求しているかどうか、つまり、政治路線、運動路線そのものの確かさをしめすメルクマールでもある。これはレーニンの時代と異なりプロレタリアートが絶対的にも相対的にも社会の決定的階級勢力に成長した、現代帝国主義諸国において当然のことである(レーニンの『なにをなすべきか』が反ッ ツアーリ“労農同盟”を念頭において書かれていることを想起せよ)。しかしわれわれはこれだけでも不充分である。 われわれが「労働者階級の統一」というときまず第一に、われわれは、労働者階級の最も広範な大衆的組識である労働組合の運動と組識の統一を考えなければならない。なぜならこの統一を基礎としない限り、高度な多少なりとも過渡的性格をもつ高度な政治闘争はもとより、賃金闘争などのもっとも初歩的な闘争でさえがけっして持続的に発展しない。これはいかなる意図からであれ、またたとえ“経済主義”と悪ロをたたこうともいささかもゆるがせにできない。だからョーロッパの共産主義者はヴィトリオの“伝導ペルト論”批判を引き合いにだすまでもなく、これに最大限のー気の遠くなるようなー努力と関心をはらっできたのである。氏にとっては、労働組合の統一、その行動と組織の統一が出発にあるのではなくて、「党にこそ」「前衛党への組織化の前進」こそが出発点である。このように媒介項ぬきに党と労働組合を機械的に分離し、 一面的に“党の前進こそ”と叫ぶのが氏の立論の特徴である。これでは、氏には不本意かもしれないが、みずからが批判してやまない宮本派の議会主義的偏向ー労の利益を大衆の利益のうえにおき大衆運動を分裂させるーを単に革命的に粉飾したにすぎなくなる。
なにが革命的か
あらためてのべるまでもなく、わが国の労働組合運動の発展と統一にとって最大かつ最も根深い桎梏となっているものが前近代的な年功的労資関係とその組織形態をなす企業別組合であることはいうをまたないであろう。それは今日反独占的な労働戦線形成と発展上に最大の足かせとなっている。それゆえわれわれが運動の前進と統一をはかろうとする場合まずその物質的基盤を取りはらう闘いー具体的には(”革命的”でなくてまことに申し訳ないが、)産別最賃制・横断的賃金体系の確立、産別労働協約の締結などを単にスローガンとして唱えるだけでなしに、それを大衆運動の政策方針として具体化し、発展させていかなければならない。このようにして労働組合運動の力を実際に強化していくことなしに大衆の死活の利益を擁護できないのでそれはさけて通ることのできない課題であり、けっして“特殊”な”副次的)な課題などではない。
われわれが社会主義をめざし、改良と革命を目的意識的に階級闘争のなかに結合していく任務をもっている以上、たしかに「つねに前衛党の問題に立ち帰」らねばならないだろう。しかし問題はその立ち帰り方である。要するに、それはマルクス主義の諸原則を単純にくり返したり前衛党一般の必要性や前進を抽象的に語ることではない。われわれは、生身の地道な労働組合運動にー大衆を数歩ではなく一歩前進させるために、まじめにねばり強く取りくんでいる良心的な共産主義者にむかって、それは労働組合の 「特殊レベル」の組合幹部にまかせておけばよい「副次的」活動だからとして「変革主体の側の最も根本的な重要な」 ”党”の建設にとりかかれなどと説教して 「党の問題に立ち帰」らせることが必要なのだろうか?労働組合内部にあってそれを強化し統一させる闘いを通じて、まわりの大衆を引きつけ、共産主義者の影響力を拡げ、党の源泉そのものを構築しようとしている人たちにたいしてである。
大衆の死活の利益と党
いま、わが国の労働者階級は、世界的規模における恐慌の進行のもとで仕事の確保と実質賃金の低下阻止という死活の要求に直面し、それに必要な広範な強固な統一闘争を求めている。政府独占は所得政策の実質的導入である”総需要”抑制を強制しようとしてい。”賃上げかインフレ”か、 ”賃上げか首切りか” のイデオロギー攻勢とともにこれ見よがしの雇用削減策(一時帰休、不当配転、採用取消し、雇用調整給付金による休業奨励など)があいついでいる。 (恐慌を客観的必然性として認識するかわりに、大衆革命化の契機として待望する考えが一部に存在するが、支配者は恐慌を生産基盤の破壊、職場からの放遂、生活水準切下げとルンペン化をつうじて、労働者階級の政治的・道徳的たい敗によって乗り切ろうとするのであって、状況は悪いほどよいというわけにはいかない。危機はファシストのもっとも親密な友人である)
この政府独占の一体となったデフレ攻勢と闘い労働者階級の死活の利益を擁護し、政治的・文化的・道徳的たい敗を阻止するためには、この支配者の抑圧と収奪の意図全体をあますことなく暴露するとともに、大衆の死活の利益をまもる方向と、それに向って大衆を数歩でなく一歩前進させる政策と具体的戦術を提起しなければならない。恐慌下の生活防衛の斗いに苦しんでいる大衆にたいして、われわれは、遠い先の課題をもち出だしたり、 “社会主義なしに出口なし”と高踏的に説致するだけでは、まだ社会主義や共産主義を理解していない広範な大衆を反発させることになる。あるいはすでに社会主義を支持ないし支持しようとしている一部の先進的労働者にたいしては、かれらを大衆の死活の利益擁護の闘争から目をそらさせてしまうことになる。
このように労働者階級の死活の利益が問われ大衆闘争の広範な統一が切望されている、まさにその時に、氏は 「労働運動の高揚にのっとって意識的で一貫したこの運動の担い手(産別闘争を自覚的に追求しているがいまだ“経済主義”にとどまっているような人々ー引用者)が力強い活動をはじめるとき…産別闘争の前進…がこの活動のテコとなり、武器となっていくであろう」 (傍点ー引用者)とのべている。ここでは一体どの国の労働運動が論じられているのであろうか。氏は、わが国において、あたかも 「労働運動の高揚」がすでに確固たる既成事実として定着し、大衆の意識と要求は次のより高度な政治闘争を準備しているといいたげである。しかもこうした仮定に立って、氏は、現実の労働運動とは別に 「力強い運動」(これが氏のいわんとする“意識性”であり”党”の運動であろう)を求め、そのテコあるいは武器としてはじめて産別闘争の重要性を承認する。企業主義的分裂の状況下で労働者階級がいかにして今日の不況と斗うべきかを悩み、運動発展の現実的な方途を探し求めている時に、それには答えようとせずあえて別に 「より力強い運動」を求めることがマルクス主義的政治なのであろうか?氏のいう”マルクス主義”とはなんと労働者階級の当面する問題と無縁なものであることか。
宮本派との闘争
明らかに、氏は論文全体を通じて宮本派批判に全精力をかたむけている。しかしその批判が単に宮本派の理論的思想的小ブルジョァ性の暴露に終始し、彼らが過去一貫してとり続けてきた分裂主義と党利己主義的な政治主義の政策と戦術の批判にまで至っていないのはなぜか。宮本派との闘争は理論的批判や暴露でこと足りるのではない。現に動労、全金、全ていなどの労働組合あるいは部落解放同盟などをはじめあらゆる大衆組織の内外ですでに強力に展開されている彼らの裏切的利敵行為のあらわれを具体的に系統的に暴露し、大衆の闘いにもとづいて、現在まだ彼らに一定の幻想を抱いている多数の労働者大衆を引きはなし、彼らの面前でその権威を先墜させ孤立させるというー真に宮本派の議会主義的偏向を正す道をねばり強くつき進むことを回避してはならない。
だからわれわれは、どうしても、宮本派が四・八声明などによって大衆運動と決定的に対立ししかも(氏がこれを批判しないのは氏が本質的に彼らと同種の運動路線に立っているのではないかと疑いたくなるが)その口実がつねに、 “経済主義”批判に名を借りた政治主義と分裂主義であり大衆運動の基本的要求と政策に一貫して無関心であったこと、これをあらためて想却し、その今日的形態である議会主義との闘争を深化させなければならない(それゆえ、彼らが、相対的安定期において採用している議会主義路線を、危機の時代において、街頭主義と極左冒険主義路線に転換させないなどと断定できない)。
「左」右の日和見主義はつねに大衆の緊切な要求と運動の発展を無視するところに本質があり両者はメダルの表裏をなしている。運動は戦術が急激であればよしというわけにはいかない。誤った氏が論文全体を通じて宮本派の現実の労働運動にたいする政策と戦術そのものを少しも批判していないこと、さらに、“革マル派”など「左」翼日和見主義諸集団の挑発的方針の危険性にまったく目が向けられていないのは一面的であり、疑問と懸念を禁じえない。残念ながら、このわれわれの疑問と懸念は、氏のつぎの一面的な極論をみるにおよんで、いっそう深まらざるをえない。
革命運動の副産物としての改良とはなにか
氏は、最低賃金制、年金の賃金スライド制などの要求と闘争にふれたあとで 「しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は『革命的階級闘争の副産物』(レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の系統的な国有化の民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占的人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求をのみかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障したうえで、その若干の手直し手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進にとってなにほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。打倒されたくなければ譲歩しろ、でなければかわってわれわれが支配する。論理はこのように提起されている。支配階級の『延命策』はさし迫る死の恐怖のもとでのみ採用される」とのべている。氏は、「原則的問題」 の提起として支配階級を打倒し、かわって労働者階級が支配しうる主体的条件をまず整備し、その政治的圧力によって「改良」や「譲歩」を勝ちとるという。これはまったく奇妙な論理である。労働者階級が権力を掌握し、独占資本を収奪する力量をもちながら、どうして「改良」や「譲歩」で満足しなければならないか。どうして権力奪取につき進まないか。“党と革命”を語っていた氏が、このように日和見主義に陥っているのは理解に苦しむ。
この氏の論理矛盾は一応さておくとしてここで問題にされていたのは、労働組合が緊急に勝ちとらねばならない要求である最賃制であり年金の賃金スライド制であった。
だがこれに対して強調されている氏の 「原則的な問題提起」は本質的に”革命なしに改良なし”であり、これは、とりもなおさず危機の時代における悪しき「最大限綱領主義」そのものの単純化された再生産であり、これらの課題をかかげて統一闘争をまじめにねばり強く追求することにかえて、革命的スローガンと運動が対置されている。氏はここで”ひかえめに”革命的要求を 「同時にかかげて」 闘争するとだけのべているが、まさか宮本派のごとく政治要求と経済要求を機械的に結合したり諸要求を羅列するだけで支配者に「さし迫る死の恐怖」を与えうると考えているはずはないから、当然、現実の革命的スローガンを実現するに適応した労働組合運動と別の闘争が組織されなくてはならない。しかも「つねに」あらゆる主観的、客観的条件のもとで“反独占人民政府樹立”のスローガンをかかげることが要求されている。またさもなければ 「なにほどかでも意味のある改良は勝ちとれない」 とショッキングにのべている。 ぽう頭に指摘したように、ここで氏から“要求”され“恫喝”されているのはいかなる主体勢力であるのか。党のプログラム、テーゼは権力問題、 政府問題をさけて通ることができないという意味ならことあらだてていうことはない。あるいは、これが、危機の時代”恐慌か社会主義か”二者択一の時代(このような情勢評価と階級戦略が適当であるかどうかは一応さておくとして)における労働組合の機能と任務の質的転換を意味するのであろうか。これは氏のより明確な立場が明らかにされた段階で、現代の危機の科学的分析と主体勢力の意識と組織ー彼我の力関係の的確な判断にもとずき別に検討されなければならないにしても、この氏の見解が、その本質において、けっして 「原則的な問題提起」などではなく、ご存知の宮本派が“民主連合政府綱領”を労働組合におしつけ自党派の”躍進”に血道をあげたり、新左翼諸グループが春闘の政策・戦術をまじめに検討することを拒否するとともにこれに単純に”反体制”“反戦・反帝”のスローガンを対置して、大衆の死活の要求と運動に敵対しようとした路線と、客観的にまったく同一の誤びゅうの再生産そのものとみなさざるをえない。もし、氏が首尾一貫して、この理論と実践を結合させ、戦術的にエスカレートさせるならば、ゆきつくところ、革命的スローガンを至上のものとして、これを要求としてかかげない大衆的な労働組合にかえて限られた少数派の純枠な“闘争組織”を対置し、“権力奪取”のためのゲリラ闘争を呼号することにもなりかねない。また、氏が、この”大胆さ”と“勇敢”をかいて、この路線を貫徹させようとすれば、せいぜい、労働者大衆の要求と意識と無縁の、レーニンを歪少化した“外部注入論”に依拠して、無内容な”革命”主義を普及させること、 一種の左翼的伝道師の道をたどらざるをえない。われわれは「前衛党の問題に立ち帰る」 ことの必要をけっして否定しないばかりか、むしろそのためにこそと問題をたててきた。だが、われわれは、けっしてこのような活動を性急に求めないし、またそれを主目的とする理解を必要ともしていない。われわれに必要なのは、あくまでも 「すでに立ちあがりつつある大衆をたすけて、彼らがいっそう大胆に、いっそう心をあわせて決起するようにならせ…補捉しえない個人、大衆に方向をしめす能力をもった真の戦闘組織…(であり)…凡百の純インテリゲンツィァ組織や 『党』 (ではない)」(「新しい事件と古い問題」 レーニン)また、氏は、これを迫求すべき政府形態問題にふえんして、改良的要求=よりまし政府、革命的要求=反独占人民政府と図式主義的に単純化し“社共連合政府”さえ全面的に否定しかねない態度で、それを当然考慮の対象にしようとする立場を、かの有名なゴーゴリの主人公になぞらえてやゆしているが、卒直にいってわれわれは、アカーキー・アカキェビッチがあらゆる苦闘の末にようやく手に入れた新品の外とうが、このような超革命的言動によって略奪されないよう、また“哀れな大衆”が怨霊にならないよう、最大限の注意をはらわなくてはなるまい。氏が、このように、それが政治戦線統一の基礎であり政治戦線統一を促進する大衆的圧力そのものである強大な労働組合運動の統一がいまだ形成されないもとで、(よりまし政府さえが容易にできはしない条件下で)、一方でかかる課題(労働戦線の統一)を“経済主義”的路線といって軽視しながら、他方において革命政府を要求するのは、社共両党が議会主義的分裂主義的に、あれこれの過渡的政府形態を要求すると同様の、あるいは、氏が政府を構成しうる責任ある政治勢力を代表しているのでないからそれ以上に、政治的に無恥な、客観的に大衆の要求と対立する姿勢といわねばならない。
党をもてあそぶな(レーニン)
宮本派の右翼的偏向がわが国の大衆運動と階級闘争を先進資本主義諸国にくらべて大巾に立ちおくれさせ、結果として三〇数年にわたる自民党政府の不動の政治独占を許してきた根源的問題であることは、氏もいうとおり、良心的な共産主義者のあいだではまったく共通の認識となっている。だが、これに対置して前衛党確立を提起するのは、それほど自明の真理でもなければ、その意図のいかんを問わず、つねに正しいとはいいきれない問題である。われわれのささやかな経験と見聞ー一九六七年の“総結集”運動の坐折、あるいは日本共産党の最古参幹部のひとりである志賀義雄氏によって主掌される“日本のこえ” が別党コースを否定しながらも別組織を形成していること、さらにさかのぼれば、日共第八回大会直前に現在の条件とはちがうとはいえ春日庄次郎氏などの一部中央委員が“離党主義”という批判をあえてかえりみず”別党”を組織しようとした事実などーを少しでも想起すれば、”真の前衛党の確立”が、 一般的要求としてはともかくも、現実の組織方針としては、良心的共産主義者のあいだでも容易に一致しうる問題でないことは明らかである。それは、日共が三〇数万人の党員と二百数十万部の政治機関紙をもち、名称、形態において前衛党でありしかも、国際的に一定の評価を受けながら、その本質において右翼的偏向をおかしているという、古今東西の共産主義運動の歴史においてまったく未経験の、特殊な条件下にわれわれがおかれていることとおおいに関連している。それゆえ、 一般論としては再言する必要もない自明の真理を、あえて氏のように提起するからには、それなりの理由があるのではないかと期待するのは無理からぬことである。しかし、氏は、それ以上なにも語ろうとしていない。だから、われわれは、氏につぎのように忠言する義務がある。
問題の性質上、あるいは、宮本派以外のすべての共産主義的諸潮流がすでに”党”の必要性を千回も万回もくり返したあとでは、なおさら、この問題は、わが国の階級闘争のおかれた客観的諸条件の全面的な科学的分析と変革主体の側の歴史的経験の真険な総括にもとづき、求められている党がいかなる具体的な形態・内容をもち、その形成に必要な条件がなんであるかを明らかにし、しかも、現に存在する良心的共産主義者のあいだの共通の問題として、共同討議を喚起するにふさわしい手続をふまえて、注意深く提起されなければならない。
そうでなければ“自覚的規律”にもとずき一定の結集につとめ、大衆運動に責任を負うことに最大の関心を払ってきた諸グループ(「知識と労働」グループもそのひとつである)のあいだに、無用の混乱と対立をうみ出し、宮本派に批判的な良心的な共産主義者の政治的結集と影響力そのものを弱め、結果として、宮本派を激励することになる。氏が、宮本派を打倒し、それにかわる前衛党形成を目ざすのであれば、ぜひ冷静にこの現実をみてほしい。さらに、われわれは、こうは思いたくないしそうさせてはならないが、こういった思想と提案が、政治的経験の浅い青年学生のあいだに、大衆運動より主体形成といった、過去において学生組織(民学同)の分裂の契機ともなった、あのいまわしい偏向をあらたに再生産する結果になりはしないか、また前章において指摘したように、氏が、前衛党確立に性急なあまり、労働組合運動に革命的運動を対置し、それにしたがわない者を、あまねく、“経済主義的・解党主義的”と批判しかねない論理を展開していたことから、客観的に、氏の前衛党論が、党の源泉である大衆運動の発展に基礎をおかない、つまり、レーニンの拒否した「凡百の純インテリゲンチァ組織」 のひとつの誕生につながりはしないかと真険に憂慮される。
「ロシア革命の全歴史がしめすところによれば、革命運動の強力な高揚はすべてこのような大衆的な経済運動を基礎としてのみ発生した。 (それゆえ)すべての党組織はこの現象にもっとも真剣な注意を払うこと、…大衆の間の経済的せん動にできるだけ多くの党勢力を集中することが必要である。ほかならぬこの経済運動を、革命的危機全体の根本的な源またもっとも重要な基礎として考慮しなければならない」(レーニン)(傍点ー引用者)のであり、労働者階級がこの社会の絶対的多数派となった今日の国独資下においては、このことはいっそう力をこめて強調されなければならない。
反独占民主改革プログラムの緊急性とは
最後にこれは予断になるかもしれないが、氏が悪名高い、かの“ベルンシュタイン病”の政治的”ワクチン”として提起し、マルクス主義者の注意を換起しようとしている”反独占民主改革プログラム”確立と宣伝活動の緊急性について、これが、はたして、わが国の階級闘争の前進にとって、根源的な課題であるかどうかについて一言しておく。
この場合、われわれは、このプログラムがもちこまれるべき労働運動の主体的状況としてまず、わが国の労働組合運動が現在おちいっている、各単産、ナショナルセンターに共通な、政治路線と支持政党の相異を主因とする深刻な分裂状態を考慮しなければならない。周知のごとく、総評は”安保破棄・反戦平和””自民党政府打倒”を政治要求としてかかげている。また、その七五春闘方針は、反独占的な制度要求さえ含んでいる。他方、 同盟は”安保、自衛隊の存続を承認”し“民主社会主義”をめざし、総評と対立している。
この現実をいかに打開し、運動と組織を統一するか。反独占的な基本方向において、労働戦線統一をいかにして構築するか。またこれに向けて一歩でも接近するためになにをなすべきか。 これが焦眉の課題である。これに対し、氏のように、運動の現状をまったく無視して革命的空語を注入することが、これに役立つかどうか。これは、かえって、分裂を固定化したり拡大する結果をまねきはしないか。ここでは、これ以上、くどくどとのべる余裕はないが、労働戦線統一の基本問題を具体的に追求した 「知・労」第二号の拙論を参考にしていただきたい。
われわれは 「日程にのぼっている諸問題が諸政党に対する巧妙な提案だけによってあるいは正しい政治、綱領的な提案を作成し、普及することによって解決されるかもしれないと考えるような情ない立場」(『イタリア共産党第一四回大会準備について』ベルリングェル)にけっしておちいってはならない。必要なのは、大衆をいまただちに立ちあがらせる具体的な政策と戦術であり、それに依拠して、われわれが大衆の先頭に立ってたたかうことである 「(なぜなら)第一の必要は労働運動と民主主義に向かっておこなわれている攻撃をはねのけねばならないからである」(ベルリングェル)このような現実を無視し、政府に参加する主体的条件もない、それゆえに、プログラムの実行にならん責任をもてないみずからの立場を考慮せずに、“プログラム確立とその宣伝”を至上のものとし、これなしには不可避的に ベルンシュタイン病にかかるなどと極言するのは間違っている。また、かかる主体的条件を熟慮して、あえて“プログラム””テーゼ”などと大言壮語せずに、現実の運動の一歩一歩を”一ダースの綱領よりも重視する”人々をおしなべて「日和見主義者」 「改良主義者」などと誹謗してはばからないのは書生の金切声以外のなにものでもない。
すでにのべたように、われわれには、残念なことであるが、残された課題が山積している。だから”はじめにロゴスあり” といって高踏的に説教しているわけにはいかない。大衆的基盤をもったフランス共産党でさえが、その”先進的民主主義・社会主義のためのプログラム”を確定するまでに十分時間をかけ大衆の意識と運動の諸経験をふまえ 「独占資本にみずから生み出した先鋭化した経済的、社会的矛盾を解決する能力がないことが明らかになり(大衆的に)運動は、是非とも必要となった緊急の諸要求の充足の粋を越えて、この社会のもっとも根本的で決定的な変革にむかって進まざるをえなかった」(フランス共産党第二一回大会政治報告)あの歴史的な一九六八年五ー六月闘争の真剣な総括をまってはじめて決定されたのである。
氏も、ぜひ、この事実を教訓として、銘記してほしい。
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以上、田崎晋氏の諸見解について(氏の主観的意図の純粋さと革命的精神の高さを十分評価しつつ)検討を加えできるだけ直裁に、卒直に批判してきた。運動にたずさわる者のあいだに、このような、現実の運動の基本方針、具体的政策と戦術をめぐって、意見の相異や不一致が生ずるのは、あえて驚くに価しない。なぜなら、われわれをとりまく客観情勢および主体諸勢力の要求と運動はそれほど複雑かつ豊富であり、要は、われわれが意見の相異と不一致そのものを敵対的な非和解的関係とみなすことなく、あくまでも、理論的思想的問題の領域において、納得と説得にもとずく、批判と自己批判、自由な討論を展開しうるかどうかである。このようなマルクス主義者の当然の民主的手続と自覚的規律を無視し、いたずらに政治的組織的対立をあおりたてるのは間違いであるばかりか犯罪的でさえある。
だから、われわれは、最後に、田崎氏に、このマルクス主義者の原則的立場にたち、ねばり強く、真剣に討論と相互批判を展開されるよう心から呼びかけたい。
(一九七五・二・九)