<「特集にあたって」はどこに導くか >
—-「74年の大衆運動とマルクス主義」批判 —- 松 原 敬
『知識と労働』第10号は、「特集にあたって–74年の大衆運動とマルクス主義」と題する無署名論文(文書K・S.K・M、以下SM論文と略す)を掲載している。「特集にあたって」と題していることからも、当然このSM論文は、『知識と労働』が集団討議を重ねた上で発表した編集局論文であろう、と受けとられる形で発表されている。
しかし、果してそうなのであろうか。遺憾ながらこのSM論文には、きわめてあいまいで折衷主義的ではあるが、 『知識と労働』がこれまで掲げ闘い築いてきたマルクス主義の諸原則、社会主義に至る上での平和と平和共存、反独占民主主義、統一戦線という最も基本的な政策に背反し、逆行する重要な問題、見解が表明されている。このSM論文が、多くの良心的なマルクス主義者の注目しているこの『知識と労働』に突如発表され、一人歩きしようとしている以上、問題の重要性から率直に、批判的意見を述べさせてもらわなければならない。
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最初に、このSM論文を通読し、繰返し読めば読むほど感じることは、このSM論文は、 かつて(一九六四年)日本共産党宮本指導部が、反ソ主義に貫かれた路線に公然と踏み出した時に、「ケネディとアメリカ帝国主義」と題して発表した無署名の評論員論文と非常に酷似した特徴をもっているということである 。
第一は、情勢評価の問題であり、ついでそれにもとづく政策の問題、そして集中的表現としてのスローガンの問題であり、SM論文では欠落しているが統一戦線とセクト主義に関する問題である。
情勢評価と政策に関連して問題となる点は、次の点である。
社会主義世界体制と資本主義世界体制という両体制間矛盾の取扱いの問題、そこにおける帝国主義諸国間の矛盾・対立と帝国主義同盟の問題、それと関連する支配階級内の矛盾・対立の問題題である。これらの点についてSM論文は、次のように述べている。
「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係は、支配階級のとる平和共存政策と対社会主義接近を、社会主義体制への分裂策動をも含めて、動揺と矛盾にみちた不安定で中途半端なものにする。支配階級は、一方では社会主義貿易と経済協力関係の拡大を志向すると同時に、他方では経済的政治的矛盾と対立によってたえず根底からゆるがされている対社会主義の帝国主義的軍事同盟の維持と補強を図らざるをえない。」
「客観的な利害が支配上層に選択をせまり、平和共存的方向を余儀なくさせる可能性は大きい。しかしそれが国内的な基本的な階級対立と階級支配そのものを排除するものではないにもかかわらず、支配階級の反共的反社会主義的な本性にもとづいて、また緊張緩和と平和共存が労働者階級の闘争に有利な条件を切り開くことへの恐怖に基いて、支配階級とその右翼的反動的、冷戦主義的傾向は、つねに必然的にまきかえしと反撃に出る。」
一体このような論述から何が導き出されてくるのであろうか。「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係」とか「支配階級の反共的反社会主義的な本性」といったことは、少くともマルクス主義者にとっては自明の前提である。支配階級、帝国主義者が軍事同盟を維持、補強し、常に必然的にまき返しと反撃に出る、ということも自明のことである。このような自明のことが、いまだマルクス主義者の間で確認されていないとでもいうのであろうか。
問題は、帝国主義同盟が、なお全体としては維持されつつも、個々の帝国主義の利益、支配階級の個々の利害が、「支配階級の反共的反社会主義的本性」という共通の利益の前に躍り出て、常にその足並みをかき乱しているところにあるのである。今さら確認するまでもないが、ロシア革命の成功、ドイツ・ファシズムの崩壊、社会主義世界体制の形成と発展は、そのことを端的に証明している。
何よりもまず帝国主義列強の同盟を妨げるのは、個々の帝国主義国、支配階級の意図とは別個な、独立して発展する帝国主義そのものの内的な矛盾の激化である。彼らの「神聖同盟」は、彼ら自身の内部からたえず生起してくる鋭い矛盾によってむしばまれざるをえないのである。そして社会主義世界体制の政治的経済的地位の強化は、社会主義諸国との政治的経済的結びつきをめぐって、両体制間の平和共存の原則をめぐって、この矛盾をより一層、質的に鋭いものとしているのである。そこには常に反動があり、まきかえしがあることは事実である。しかしその反動やまきかえしを分析する際にも忘れてはならないことは、この客観的必然的法則性である。
ここに、平和と平和共存をめぐる闘いは、勝利の展望のない単なる平和主義的願望にもとづいているのではなくて、資本主義の根本的な経済的矛盾の激化、資本主義に固有な不均等発展の法則、その結果としての労資の矛盾、独占資本間の矛盾、帝国王義諸国間の矛盾、これらを一層の激化へと導く社会主義世界体制の存在と発展、その客観的優位性という、力強い根拠を持っているのである。このことは、「一方では」「他方では」 といった論理的一貫性のない、折衷主義的、多元論的理解によってうやむやにされ、不問にされてはならない問題なのである。
このことは、SM論文がさらに次のように語る時、 一層明らかになる。
「支配上層の間に、ブルジョァ評論家が好んで図式化するような冷戦派と共存派、頑迷派と開明派といった単純な、できないの分岐、対立があるわけではない。だから支配上層のいずれかの部分、階級分派に依存し、それを支持することによって、国家政策の全体を平和共存の方向に転換させうると考えるのは、主観的で一面的な単純化による日和見主義的見解であろう。」
これは、日本共産党宮本指導部が、「モスクワ声明」(一九六一年世界党会議)の内の革命的な原則をのみ守るのだと称して、平和と平和共存をめざす闘いを日和見主義だとして、ソ連共産党をはじめとする国際友党を「帝国主義者の平和への“自覚”や”平和的進歩的翼”と”侵略的反動的翼”への”分化”に期待をかける現代修正主義者」だと中傷、攻撃したあの同じ論理内容を持っている。日共評論員論文 「ケネディとアメリカ帝国主義」 は、次のように述べている。
「たしかに、帝国主義支配層のあいだにも、さまざまな葛藤と矛盾を生み出し、深刻かつ複雑な意見の分化をつくりだしている。しかし、帝国主義者の間の意見の分化とは、 本質的には、あくまでも帝国主義という同じ経済的土台に照応した範囲内での、社会主義に敵対し、労働者階級と植民地従属国の人民を抑圧し搾取する階級的本質の範囲内における、敵の間の部分的な意見の衝突と利害の対立にすぎず、戦争と侵略、抑圧と反動という帝国主義政策を、どちらの政策がもっともうまく遂行することができるか、どちらの独占グループに最大の利益をもたらすように推進することができるか等々についての戦略と戦術、方向と形態などの差異でしかない」 というのである。
このように、SM論文は、日共宮本指導部の批判という体裁をとりながら、批判したはずの相手と同じ側に立ってしまっているのである。レーニンが帝国主義の評価にあたって、その矛盾を前面に押し出したのに対して、両者は一致して、帝国主義の本性、帝国主義者の同盟を説いているのである。
平和と平和共存をめざす闘いは、国際的舞台における階級闘争の一形態であるとともに、この闘争における力関係の変化をはっきりと表現しており、これは国内における階級闘争と密接に関連し、その力関係の変化をも表現するものである。SM論文は、「労働運動にとって必要なことは、階級支配と現情勢への適応の異ったスタイル、方法を表現するあれこれの総裁志望者と派閥代表者のいずれの思惑が実現するかに主たる関心を寄せることではなくて」 とか 「マルクス主義者にとってまず第一に必要なことは、危機の深刻化を前にして動揺し、対立しあっている与党指導者のあれこれの傾向のいずれかを選択し、それに期待を寄せることではなく」 といった表現をしばしば使っている。このようないかにもくだらない“期待論者”を描いてみせて叩くというやり方、批判して当然のような結論から何が出てくるかといえば、「首尾一貫して闘争すること」とか「闘争こそが決定的に重要な意義をもつのである」といったことが強調される。日共宮本指導部が議会主義の悪弊にますますおぽれつつある時、大衆闘争の重要性を語るのは、マルクス主義者にとって当然のことであり、必要不可欠である。しかし、このようなかたちで語ることは、多くの“新左翼”諸潮流がそれこそもっと”戦闘的、革命的”に語ってきたところである。真のマルクス主義者にとっては、支配階級内部の“適応の異ったスタイル、方法、思惑”、”動揺、対立、抗争”–帝国主義者間の矛盾、支配階級内部の対立は、労働者階級にとってどうでも良いことではなく、両体制間の闘争が主要な矛盾となっている現在、階級闘争を敏感に反映しており、、労働者階級は、このことから離れて政策転換全体の指導性をかちとることはできないし、ましてや根本的改革という反独占政策の貫徹、そのための権力の樹立はできないのである。ここにこそレーニンが強調した 「マルクス主義の核心、その精髄をなす点、すなわち具体的情勢の具体的分析」が必要となるのである。教条的衒学主義にもとづくような一般的真理の強調は、何度行なわれても階級闘争の指針とならないばかりか、セクト主義的なくさみしか残さないものである。このことについては、レーニンが『左翼小児病』で何度も強調していることである。 「力のまさっている敵に打ち勝つことは、最大の努力をはらう場合にはじめてできることであり、かならず、もっとも綿密に、注意深く、慎重に、たくみに、たとえどんなに小さなものであろうと敵の間のあらゆる『ひび』を利用し、各国のブルジョアジーの間や、個々の国内のブルジョアジーのいろいろなグループまたは種類の間のあらゆる利害の対立を利用し、また大衆的な同盟者を、よしんば一時的な、ぐらついた、ふたしかな、たよりにならない、条件つきの同盟者でも、手に入れる可能性を、それがどんなに小さいものであろうと、すべて利用する場合にはじめてできることである。このことを理解しないものは、マルクス主義と科学的な近代社会主義一般を少しも理解しないものである。」(『左翼小児病』)
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帝国主義の敵対と矛盾をぼかし、その深さと鋭さを体制的危機の深化といった一般的表現でぬりぶすことは、不可避的に独断的な教条主義と労働者階級にたいする悲観主義、ペシミズムを生み出す。SM論文が次のように述べる時、何と支配階級は力強く、労働者階級はか弱いことであろうか。
「財界首脳たちが考えている『保守新党』の結成と、それによる野党との『連合政権構想』は、その本質において革新諸党の分断を基本的な目標とするものである・・・いわゆる 『受皿論』として支配階級によってあけすけに語られているこのような構想の実現が、労働運動と労働組合運動に新しい分裂を持ち込み、壊滅的な打撃を与えることは火をみるよりも明らかである。」
「今日の新しい政治的状況を『多党化の時代』『連合政権の時代』として一面的に礼讃するものは事柄の本質を見抜けない日和見 主義的超楽観論であると言わなければならない。幾多の歴史的経験が示しているように、議会主義的日和見主義にたいする人民大衆の幻滅は、露骨な反動と右翼的な公然たる権力主義に道をひらくものだからである。」
なぜ、このような「保守新党」論や「連合政権」構想を、支配階級の意図と一定の客観的理由を認めつつも、その本質において、支配階級の危機、矛盾の激化の表現として、階級闘争の反映として、自民党の政治独占の危機の表現としてとらえられないのであろうか。このようにとらえることは、おめでたいとでもいうのであろうか。
「一方では”人民戦線”、他方ではファシズムが、プロレタリア革命にたいする闘争で帝国主義が用いる最後の政治的手段である。」—- これはコミンテルン七回大会の統一戦線政策にたいして、敗北主義とセクト主義を対置したトロツキーの言葉である。(一九三八年『転換期の綱領』) SM論文は、これと同じ立場に立とうというのであろうか。日本共産党の現状を見る時、論者の危機意識は理解しえても、問題はこのように立てられてはならないのである。
イタリアに「中道左派政府」が登場した時(一九六二年)、故トリアッティは、これをこれまでのキリスト教民主党の権力の政治的独占にたいする「現在の政治的社会的闘争のエピソードである」と評価している。そして現在、イタリア共産党は、イタリアの政治的経済的危機の深化を前に、中道左派の道をこえる、共産党の政権参加をも含む新しい政治の民主的転換を訴えて、中道左派政府の期間を、「共産党が統一政策を押しすすめた粘り強さと忠実さとによって、そして社会党が閣内にいるということによって決定された新しい政治情勢のもとで、イタリア社会における運動の可能性と民主的発展の可能性とが年ごとに拡大し、一九六八年の選挙、一九六八ー六九年の労働者および人民の闘争の偉大な季節となり、その後の諸闘争や諸提案となって、ついに一九七四年五月一二日の国民投票をもたらしたのであった」 と評価している。問題はこのように立てられ、このようにこそ闘われなければならないのである。
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政策転換の要求に関連してSM論文は次のように述べている。
「労働者階級とその前衛は独占の支配を打倒し国民経済を現実に指導するための準備を常におし進めることによっでのみ、支配階級に政策転換を押しつけ、その中途半端で動揺的な部分的な対社会主義接近を一貫して拡大し発展させることができるのである。」—- ここでは、独占の支配を打倒しない限り政策転換を押しつけることはできないと結論づけている。いや、その準備を常に押しすすめる場合はできるというのであろうか。第一、その”準備”とは具体的に何をさしているのであろうか。
その直前でSM論文は、「労働者階級が国民的な指導階級として、平和と平和共存を目的とする首尾一貫した自らの対外政策を掲げて闘うときにのみ、支配上層内部の矛盾を深刻なものとし、政策的選択をせまり、客観的な国民経済的利害の命ずる方向へその対外政策を向わせることができるだろう。」 と述べている。ここでは”独占の打倒や国民経済指導の準備”がなくても、なぜ政策転換が可能なのであろうか。
またSM論文は、「労働者階級は根本的な変革のための革命的な要求とならべて、独占資本とその政府にたいして即刻の実現を迫るべき部分的で改良的な政策転換の要求を掲げてたたかわなければならない。」と述べる。そしてこの 「ならべて」 というところに、わざわぎ傍点を付している。ここでは”即刻の実現”がなぜ可能なのだろうか。根本的な変革の要求を「ならべて」掲げるからなのだろうか。
つづいてSM論文は、「資本主義をなくさないかぎり、恐慌をなくすることはできない。しかし労働者階級は、今日の恐慌の深刻化の下では、日常的な経済闘争において、同時に、国家の財政金融政策の転換とそれに必要な一連の独占体の国有化を含む部分的な変革の要求を何ほどかでも系統的な政策として掲げてたたかわなげればならない。それなしには、実質賃金の切下げから身を守り、賃上げをかちとり、生活水準の引下げと耐乏生活の強要に対抗して生活の諸条件を改善する上で一歩も前へ進むことはできない。」と主張する。「それなしには」「一歩も前へ進むことはできない」 という。何という極端論好み、何という尊大なポーズであろうか。ことここに極まれりである。
少し長々と引用を繰返したが、SM論文はこのようにすっかり混乱し、上気してしまっている。しかしその底に流れているものははっきりとしてきている。それは、労働者階級の経済的利益のための闘争、民主主義を要求する闘争、様々な反独占的改良闘争、統一闘争、統一戦線をめざす闘い、 これらを経済主義、組合主義、改良主義、日和見主義だとして蔑視し、おれたちはそんなものとは違うんだとまじめにふんぞり返るセクト主義である。
経済的利益のための闘い、また首切り、合理化等、資本の攻勢から身を守る闘争は、労働者階級にとって統一戦線の出発点であり、常に第一義的重要性をもつ闘いである。そしてこの闘いを通じてのみ、労働組合運動の統一を作り出すことができるし、その統一は、重要産業独占体の国有化、金融機関の国有化をめぎす反独占権力樹立への統一戦線にとって、死活の重要性をもっているのである。フランスやイタリアの労働者階級の闘いは、このことを如実に示している。
労働者階級は、自らの闘いの経験と成果にもとづいてのみ、次の目標のために闘うことができるし、このことが闘争の前進と発展にとって決定的であり、その現実と内外の情勢に密着した革命的政策を要求している。SM論文のような尊大なセクト主義的な立場によっては、よくみてインテリデンチァ的焦りによっては、いくら日和見主義に主要打撃を与えても、それを克服することも打倒することもできないし、ましてや労働者階級の自覚を高めることさえできないであろう。
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SM論文は、後段に至って「われわれの部分的な変革の政策は『かならず日和見主義者にも鉾先を向けているような綱領でなければならない』(レーニン)」 として、「次のような政策的諸要求のうち、少なくともその主要なもの、基本的なものを、それの即刻の実現を支配階級に迫る闘争のためのスローガンとして、掲げることが必要不可欠であると考える。」として一〇項目のスローガンを掲げている。
「一、公共部門を中心とする拡大政策の導入とそれに必要な部門の国有化」「公共住宅建設の拡大とその関連部門の系統的な国有化」 「それに必要な部門」とか「その関連部門」とは一体どこまでをさしているのであろうか。文字通り読めば、これは中小零細企業を含めて全産業が対象となる。これらの国有化を「即刻の実現を支配階級に迫る」というのであろうか。低家賃住宅を大量に建設せよ!という勤労大衆の切実な要求が語られずに、即刻の実現を迫るにしてはまったく具体性のない、はね上ったスローガンとなっているのではないか。
「三、法人にたいする強累進課税の実施」 ここでは財政投融資の名の下に郵便貯金や各種年金などの勤労諸階級の零細な貯蓄、基金を独占資本にまわす”くれてやれ”政策、租税特別措置法の撤廃、利子配当・土地・株式等のキャピタルゲインに対する分離課税の即時廃止等に何らふれることなく、全法人の九割以上を構成する中小零細法人をもおしなべて敵においやるようなスローガンをよしとしてしまっている。
「四、インフレの進行を押しとどめるために厳重な物価統制を行うこと」 ここに至っては、インフレの真の元凶となっている独占資本の管理価格、独占価格、カルテル行為等を不問に付してしまっている。もちろん独占禁止法の反独占的改正も全然問題にしていない。
「五、物価上昇に匹敵するインフレ手当(三か月以上)の支給」—- ここでは突如、変革の政策の中に、論者からいわせれば組合主義的経済主義的要求であるはずのものが掲げられている。「三か月以上」 だから日和見主義に鉾先を向けているというのだろうか。六の「一切の形態の賃金カット阻止」をも含めて、変革の政策としては、SM論文の筆者たちがいみきらう経済主義的組合主義的スローガンとしてさえおそまつ限りないものであるが、これについては別に詳しく取り上げられなければならない。
「七、全面的な公共医療制度の確立と医療・薬剤費の無料化」—-医療の社会化は勤労大衆の切実な要求である。しかしこれは、そこに至る現在の健康保険制度、開業医制をはじめとする医療実態に対する具体的政策が要求されているし、反独占権力のもとにおいてさえ変革の要求として掲げられるものである。医療において独占的利潤をほしいままにし、薬害をたれ流している薬業独占資本の国有化がなぜ提起されていないのであろうか。
「八、兼業農家を含む小農経営にたいする経営保障と自発的協同組合化」 とか「都市自営業者にたいする無利子長期の国家による財政的金融的援助」 これらのどこに日和見主義者にも鉾先を向けた内容があるのであろうか。小農経営の経営保障と自発的協同組合化がどうして両立できるのであろうか。
「九、倒産企業及び閉鎖工場にたいする労働者による生産管理を含む国有化。倒産切迫企業にたいする国家の財政的金融的救済と国有化」—-倒産切迫企業は総じて中小零細企業である。国有化とは、独占資本よりも先にこれらのところでなされるべきこととして提起されている。また財政的金融的救済と国有化は、 一体どのように両立するのであろうか。これでは、独占資本は自己の力を使うことなく、国の力を使うことによって独占系列の再編成、スクラップアンドビルドを行ない、 一か月に一千件をこえる倒産企業、それをうわまわる倒産切迫企業への財政的金融的救済に狂喜することであろう。
以上、ここに掲げられたスローガンは、 一貫して反独占的見地、独占資本を孤立させる反独占統一戦線の重要性をまったく見失った、日和見主義的見地と超革命的見地の雑炊であるとしかいいようのないものである。こうしてSM論文の筆者たちは、独占資本を孤立させるのではなく、非独占諸階級を独占のまわりに結集させたり、逆にプチブル的小農経営や都市自営業者におもねったりするスローガンを、「必要不可欠」 のスローガンとして提起しているのである。「必要不可欠」 にしては、公務員のスト権回復、刑法改悪・司法反動化の阻止、等の政治要求として最も重要なものが欠落しており、自治体の民主的改革とその自主的財源の拡充、学校、病院、下水道等の建設、独自核武装阻止、核防条約即時批准、日共宮本指導部の部落差別キャンペーン糾弾、部落解放同盟連帯—-等々、われわれがさまぎまなあらゆる戦線で掲げ闘ってきたこれらの基本的要求が抜け落ちてしまっているのはどうしたことであろうか。そして問題は、これら「必要不可欠」 のスローガンが、SM論文いうところの根本的変革のスローガンと、同時に、ならべて掲げられているかどうかによって、あらゆる大衆運動、組合組織、統一行動、統一戦線を判断し、そこに持ち込むことをなにか革命的行為であるかのように錯覚し、意にそわないものは評価に値しないとするセクト主義と結びついているごとである。
SM論文は、これまで述べてきたことの結論として、次のように語っている。
「われわれは、このような、労働者階級の恐慌からの脱出政策の核心が、軍事費(四次防、五次防)の削減と打切りを要求し、それによる公共投資と住宅建設の拡大を要求すること、この二つの要求の結合にあると考える。恐慌の深刻化に直面する労働者階級の闘争は、平和のための全人民の闘争と結合して闘わなければならない。『労働運動と平和運動の統一』が当面の大衆運動の主要なスローガンのーつとならなければならないのである。」
軍事費削減、住宅建設を要求すること自体は正しいことである。これは日共宮本指導部も自己の民族主義的日和見的見地を陰ペイし、反独占闘争を放棄し、軽視するためによくいってきたことである。しかし「恐慌からの脱出政策の核心」が、五〇年度予算において軍事予算総額一兆三千億円の内の四次防費の削減と、その程度の住宅建設を要求することにあるといった、驚くべき政治的無恥は、 一体どうしたことであろうか。そしてこれこそが「労働運動と平和運動の統一」だというのであろうか 。
「アメリカ帝国主義に反対し、日本政府の反動政策とたたかわないで、賃金一本で独占資本と対決するようなやり方で、どうして労働者の生活と権利を守ることができるでしょうか。」—-これは、 一九六四年四月一七日の歴史的ゼネストを 「仕組まれた挑発」だとして、日本共産党がスト破壊に狂奔した時の、かの悪名高い「四・八声明」 の一節である。日共宮本指導部が 「日本人民の独立・平和の愛国闘争と結合して春闘をたたかうべき」だとして、労働者階級の経済的要求にもとづく闘いを、経済主義、組合主義だとして蔑視し、日韓会談反対や民主連合政府樹立を同時に、ならべて掲げていれば、”階級的民主的”労働組合だとする、今も一貫してとり続けている骨がらみのセクト主義、日和見主義と同一な傾向が、このSM論文の結論となってしまっているといえないであろうか。
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SM論文は最後に、これらの見解を目的意識的に 「マルクス主義の原則と党派性をまもること、労働運動と人民運動の政策の理論的基礎」を提示したものとして語っている。SM論文も語っている全般的危機の新しい局面、日共宮本指導部の原則的な誤りと日和見主義に直面している時、このような目的意識性は常に必要である。しかしSM論文の目的意識性は、まったく逆の結果となってしまっているのである。
このSM論文の目的意識性が、マルクス主義の原則性の擁護の名の下に、「結合の前の分離」をとなえた福本主義的誤りにおちいり、革命的焦燥感がいつまのにかあらゆる異説にたいする悪しき不寛容と尊大なセクト主義、”大衆の無理解と無関心”から自己を隔離し、防衛するセクト主義に転化することを深く憂慮しないわけにはいかない。
福本和夫氏は、「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか」と題して 「一旦みずからを強く結晶するために、『結合する前に、まずきれいに分離しなければならない』『単なる意見の相違』—-同一傾向内の と見えたところのものを『組織問題』にまで、したがって単に『精神的に闘争する』にとどまりしものを、『政治的、戦術的闘争』にまで展開しなければならない。」と語った。(一九二五年、『マルクス主義』10月号)
SM論文の筆者たちが、このようにして、わが派の主体の形成、わが派の主体の構築、すべてはここからだ このような実践的結論にならないことを願って、問題提起としたい。