田崎晋論文(『知識と労働』10号)と 日本共産党七五春闘方針について

田崎晋論文(『知識と労働』10号)と 日本共産党七五春闘方針について
                                                                                                        永杉 泉

 「一国的および国際的規模でのプロレタリアートの行動の統一こそ、労働者階級のファシズムと階級敵に対する防衛を成功させるだけでなく、また反撃の成功を可能にする強力な武器である」 (ディミトロフ『反ファッショ統一戦線』)

「七四春闘の成果と残された問題–労働運動と『前衛党』」
 (『知識と労働』第10号田崎晋論文)–以下田崎論文と略す–と日本共産党の七五春闘にあたっての無署名論文「国民生活擁護と政治革新をめざして」–以下日共方針と略す–一見奇異にみえるこの二論文をあえて併列したのは、両論文が、その結論において、意図はどうあれ、同床異夢といわざるをえない共通の問題点を有しており、しかも、これが日本の労働者階級の闘いにとって、数々の混乱をもたらしてきたし、もたらすであろうからである。つまり、田崎氏は批判の対象をつらぬく誤った論理を批判の出発点としているのではないか。
 最初に両論文の結論部分の簡単な論旨を紹介しておこう。
 田崎氏の主要な関心は、 「マルクス主義的政治」、 「党レヴェル」 からの春闘総括だという。田崎氏はそのために前衛党創出を目的意誠とする労働運動でなければ、経済主義に陥る。マルクス主義の立場に立つ前衛政党の確立がさし迫った急務となっており、そのための運動の環は、社会主義を掲げ、反独占民主改革のプログラムを労働運動につねに持ち込むことであるとされている。
 日共方針では、春闘の成否は、組合民主主義(政党支持の自由が中心)の徹底と政治の民主的革新にかかっているとされている。
 見られる通り、両論文は、労働者階級に対する指導の重要点として、 一方が反独占の民主的改革のプログラム、他方が政治の民主的革新の外部からの注入を強調し、両者は奇妙に符合していることに気づく。相違点は、その注入される意識性として、日共方針が議会主義を志向し、田崎氏が前衛党創出をめざしていることであろうか。
さらに、具体的な両論文の特徴的な主張を対比してみよう。

 田崎論文–「しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は『革命的階級闘争の副産物』 (レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の危機の系統的な国有化と民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求のみをかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障した上で、その若干の手なおしと手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進に何ほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。」

 日共方針–「労働者階級と国民の切実な諸要求を真に実現するためには、巨大な戦線の結集と同時に日米軍事間盟と手を切って、平和・中立の日本への進路をすすめて、日本経済の自主的・平和的発展をかちとるという真の政治革新の展望と結びつけて春闘を闘うことが、いよいよ緊急な課題となっている。・・・ 七五春闘勝利の展望は、この革新統一の事業の成否にかかっているといっても過言ではない。」

 田崎論文–「このような議会主義、選挙第一主義にたつ共産党の政治コースにたいして、かって一九六〇年代を通じて解党主義者がそうしたように、労働組合主義、経済闘争第一主義を対置してことたれりとするものは、経済主義の誤りに陥るものである。」
日共方針ー「わが党は『労働組合運動と政治革新の展望』の中で、日本の労働組合運動の中から、革新統一戦線の見地・を否定し、ストライキの“積み重ね”だけをもっぱら強調する組合主義的立場を克服することの重要性を強調した。今日の情勢は、このことの必要性を一層つよく求めている。」
 両者の共通項は、いうまでもなく、今日決定的に重要な労働者階級の統一、そのための具体的な政策、方針の提起ではなく、労働者の切実な要求の蔑視とセクト主義、政治主義の労働運動への押しつけである。
 このように、両者は、労働運動の指導にたいして本質的に同じ立場にたち、そこでは、労働運動への抽象的スローガンの注入(代々木にあっては政党支持の自由、田崎氏にあっては、「反独占民主改革」の注入)こそが最大の関心事である。
 もちろん、反独占民主改革の闘いの重要性については、いうまでもなく自明のことである。だが、問題は、日本の労働者階級をしていかにしてそれへの自覚に到達させうるのかという現実の道すじを示すことと、それに向けて分裂しているわが国の労働者階級を統一するために何をなすべきかということであり、このことを抜きにしてはすべて空文旬である。単に 「反独占のプログラム」 を日本の労働運動に注人することによって、現実の運動はいかほどかでも前進するというのであろうか。
 ちなみに、代々木にあっては、民主的改革のブラン(極めて不十分であるとはいえ)注人が、議会主義的選挙斗争への引きまわしという形で行っていることはここではおくとしても、「反独占の民主的改革」のスローガンについては、昨年の総評大会において、大木事務局長に語らせるならば「方針全体をヨーロッパのそれ、CGTスタイルに改めた」 というほど随所に羅列されている(もちろん十分整理されていないが)。
 だが、ヨーロッパの方針を直輸人して、運動がいかほどか前進したであろうか。現実はそれを示している。問題は、代々木の 「民主的改革」 の方針がただ理論的・思想的に間違っているというところだけにはない。要は、この闘いの前提としての主体的条件と闘争経験である。
 フランス、イタリアの労働者階級の闘いを見るまでもなく、ヨーロッパの今日の運動の到達点は、労働者階級の直接の経済的、政治的利益の擁護の闘いが、全ての労働者統一戦線の出発点となり、主内容として闘われた数多くの諸経験を経て、要求獲得闘争における経営内生産点の要求を社会改革の要求に結合、成長転化させ、労働者階級をして、反独占民主改革の闘いの必要性への自覚に到達させているのである。 (イタリアの69年の暑い秋を見よ。ここでは、たとえば時間短縮という経営内要求から出発して、余暇の再組織や雇用の増大の要求へ、さらに進んで、交通・通勤問題へ、住宅問題や都市改革闘争へと発展している。労働者の直接の経済的利害、欲望の擁護の闘いの発展の弁証法の生きた実例である)また、最近のヨーロッパの連動を見ると、単純で一方的なプランやプログラムの提起ではなく、大衆の要求や闘争の発展と緊密に結びついた形で、何よりも巨大な統一闘争をふまえ、プランやプログラムが提起され、大衆自身のものとなっている。
 ひるがえって日本の現状はどうであろうか。日本の労働者階級の闘いは、直接の経済的要求においても統一されておらず、また資本の利潤、メカニズムに食い込むような本格的闘争の経験をもっていない。労働者階級は、企業別組合に分断され、労働者階級の行動の統一も実現していない。
 この現実下で、われわれに要求されているのは、このような現状を克服するに、「今、何をなすべきか」である。
 代々木の議会主義に対する、マルクス主義政治の単なる対置ではなく、必要なことは、労働者階級の大多数を獲得するための現実の政策である。現実の諸条件を無視した外部注入論がいかに危険なものであるかはいうまでもないであろう。
 周知のように、マルクス・レーニン主義党の歴史上、党によって長短はあるが、主としてイデオロギー活動にだけ従事する時期がある。しかし、この時期が長びくならば、閉鎖性とか、自己のイデオロギー的純潔を守ることを名目として異説をもつ者との間に障壁を設定する志向とか、最後的には、レーニンが皮肉に 「口先だけのマルクス主義」 と呼んだような不可避的な病気となってあらわれる。レーニンは、このような「ロ先だけのマルクス主義」を任ずる人々を批判して、彼らが何ごとかを証明したり、また何ごとかに同意しないとしても、それはしばしばマルクスからの引用をもとにして 「マルクス主義の核心、その精髄をなす点、すなわち、具体的情勢の具体的分析」を避けているのだと述べている。
 現実の状況から切り離され、大衆の実際の必要や要求を考慮しない宣伝の書生的、インテリ的性格は、 「共産主義者」を孤立に導くであろう。
 コミンテルン第七回大会で、ディミトロフはこれを批判して、「共産主義者がマルクス・レーニン主義的分析の知識又は能力に欠けているくせに、 『危機からの革命的な脱出口』といった一般的な空文句やスローガンでおきかえている状態に対して終止符を打たなければならない」 と厳しくいましめている。
 田崎氏が今一度これを想起し、冷静な批断を下すことを望むものである。

 氏によれば、社会主義をいわず、反独占政府をいわない者は全て日和見主義者になるらしい。だがマルクス・レーニン主義者は、社会主義革命のための闘争のよびかけにとどまることなく、大衆が資本主義的略奪と搾取から自らを守るために本日何をなすべきかを彼らに示さなければならない。
 労働者階級の行動の統一は、宣言からはじまるのではなく、具体的目標のための闘争からはじまる。抽象的な呼びかけ、マルクス・レーニン主義思想の宣伝組織だけであっては、田崎氏が熱望している「党」は、幾多の代々木外共産主義者の失敗と破産の歴史から何の教訓も汲みとろうとしない、性急な「小ブルインテリ集団」 に終るであろう。
 マルクス・レーニン主義者は、労働者階級の内部に生じている全ての問題に責任をもち、どのような小さなあらわれであっても、大衆の要求を労働者の共同行動に組織するために、あらゆる機会を利用することを学び、これらの小さな問題を大きな政治問題に結びつけなければならない。
 そのためには、抽象的な呼びかけでなく、大衆行動を組織するスローガンを提出しなければならない。このことは自明のことであり、また代々木の今日の偏向を克服する道でもある。抽象的スローガンの教示で代々木の偏向は決して克服しえない。現実的な労働者階級に対する正しい政策指導(代々木は無方針と議会主義)と大衆闘争の圧力によってのみ、日共宮本指導部の偏向を克服し、田崎氏が熱望している前衛党創出が可能となるであろう。
 だから、われわれは、賃金闘争、経済的要求でさえ統一的に闘えない、わが国の労働運動の現状を克服するために、労働者階級の統一行動実現のために、企業別組合を脱却し、産業別組合への移行と接近のための政策についてこそ、われわれの内部で十分な論議をまき起すことを呼びかけるものである。
 ところで、田崎氏の論文を貫くセクト主義に対しても今日批判が必要であろう(氏の見解に同意しないものは全て改良主義者、経済主義者となる)。このことは、わが国の労働者階級がセクト主義の弊害により数々の混乱を重ねてきたという理由だけではなく、われわれ自身もにがい経験を有しているからである。
 かっての全共闘運動、ニューレフトグループ運動に見られるように、セクト主義は、通常若くて弱い運動に随伴する。これは、ようやく闘争を開始したグループが自己を保持しようという自然な願望として、自己が大衆から切り離れていることとか、あるいは、教条の表面的解釈では、新しい現象を説明する能力のないことの“正当化”として理解することができるであろう。
 これをレーニンが「左翼小児病」と呼んだのは十分根拠のあることであり、運動が成長し、成人になるとともに、経験が蓄積され、闘争過程で 「小児病」 は克服されることを確信していたのである。ひとりよがりのセクト主義に対する闘争は、今日特に重要といわれる所以である。
 最後に、田崎氏が、このようなひとりよがりの「左翼小児病」破産したニューレフトの再生に陥ることのないよう切に祈るものである。

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