【投稿】大賀正行氏のご逝去を悼む
福井 杉本達也
部落解放・人権研究所名誉理事で大阪市立大学部落問題研究会創設者の大賀正行氏が2024年4月15日・淀川キリスト教病院で永眠された。86歳であった。

2020年12月
大賀氏で真っ先に思い出すのは「大賀ノート」のことである。「大賀ノート」とは、大賀氏の手書きの小野義彦教授の講義ノートを活字化して印刷したものである。大賀氏は大阪市立大学の文学部哲学科に在籍していたが、小野教授から経済学を勉強しなくては唯物論は正しく理解できないといわれ、その後、経済学部の小野教授の講義を熱心に受講し、また、小野ゼミにもヤミで出入りし、大学院生とも交流したものを一冊の講義ノートとして編集したものである。
当時、部落解放運動では同対審答申の評価をめぐり、答申を「毒饅頭」とする共産党と対立することになり、1970年ころから、共産党系の民青が主導する部落問題研究会ではなく、大阪大学や大阪教育大学、関西大学など各大学で、部落解放研究会が生まれてきた。1971年から、これらの大学の解放研のメンバーが集まって、夏に白馬のスキー場で夏合宿を行うようになった。当時は合宿用のテキストも不足しており、こうした合宿などにおいてテキストとして1972~3年ごろ?に1000部程度が印刷され、利用されたのが「大賀ノート」である。
共産党の部落問題に関する考え方は「封建遺制」であり、資本主義が発達していけばいずれ差別はなくなっていくというものである。したがって、今はもう部落差別は存在しないという考えである。しかし、部落解放運動に身を置く大賀氏はこうした共産党の考えに納得できない。資本主義が発達するにつれ、むしろ差別は強化されているのではないかと考えたのである。その理論を打ち立てる支柱として小野教授の講義があった。特に、明治維新論や講座派・労農派論争に興味を持ってノートを取っている。
大賀氏は晩年は特に市大部落研創設期の大阪市立大学の女子大生差別貼り紙事件について、当時の文書や落書きなどを含む資料を集めて研究されていた。また、扇町公園での各種の集会や尼崎の大阪哲学学校などでもたびたびお会いした。最後まで、研究熱心であった。帰りはいつも大阪駅で、「私は無料パスのある大阪地下鉄で帰るから」といってお別れした。そして私はJRに乗った。
大賀正行氏のご冥福をお祈りする。
なお、7月7日の午後1時半からに大阪公立大学杉本キャンパスで追悼の集いが開催されるようである。