【投稿】原発再稼働と死滅する地方自治

【投稿】原発再稼働と死滅する地方自治
                            福井 杉本達也 

1 高浜4号機の再稼働、しかし、県民の生命と財産に無責任な福井県
 5月17日、関電高浜4号機が再稼働した。昨年3月に大津地裁の運転差し止め仮処分決定で3号機の原子炉を停止して以来1年3か月ぶりの再稼働である。福井県の西川知事は「実績を積み重ねることにより国民理解を得る」ことだというコメントを発表した(福井・2017.5.18)。ここには、福島第一原発事故の「災禍の甚大さに真筆に向き合い二度と同様の事故発生を防ぐとの見地から安全確保対策を講じ」(大津地裁決定)ようとする姿勢は微塵もない。ようするに県民の生命・財産はどうでもよい。ともかく再稼働することによって既成事実を「積み上げ」県民に押し付けるということである。福島第一原発事故後、当時の野田政権下で、いち早く大飯3,4号炉の再稼働を受け入れた福井県の相変わらずの方針である。福島原発事故では事故処理要員を詰め込み、なんとか事故の影響を最小限に食い止める役割を果たした重要免震棟も未設置であり、住民避難計画もまともなものとはいえない、しかも、福島原発3号機では水蒸気爆発を起こした核燃料プールには大量の使用済み核燃料が放置されたままとなっている。知事は、中間貯蔵施設を県外に設置するべきだと関電に要求しているが、受け入れ先はない(福井:同上)。
 こうした知事の考えを「忖度」して、県庁前の交差点で毎日反原発を訴える市民グループに対し、県財産活用推進課長名で「桜の時期で美観上好ましくない」として、「景観に配慮し自粛を要請する」文書を出していることが明らかとなった(福井:2017.4.22)。同交差点での活動は約5年間、県条例に基づき県警に申請を出しており、県公安委員会の権限であり、知事部局の権限の全く及ばないものである。知事部局は何を根拠に文書を出したのか。明白かつ違法な恫喝行為であり厳しく責任が問われなければならない。

2 廃炉が決まった「もんじゅ」で命のやり取りをする福井県
 西川知事の関心は県民の安全にはない。廃炉が決まった「もんじゅ」を交渉材料に、敦賀市周辺での「国内の大学などの原子力研究を支援」・「原子力研究や人材育成の国際的拠点」など「新たな研究開発拠点化」を文科省に要求している(福井:2017.4.27)。かつて「もんじゅ」の運転再開を取引材料に北陸新幹線の金沢駅から敦賀駅までの延伸を国に認めさせたように(福井:2008.12.9「認可なしならもんじゅ再開認めず―新幹線『敦賀まで』求め県会」)、高浜3・4号機の再稼働もこうした取引材料の持ち駒の1つに過ぎないのである。
 敦賀駅前に「福井大学附属国際原子力工学研究所」という新しい建物がある。研究所の紹介欄では「実炉を対象とした原子力の基礎・基盤研究」・「フランス、アメリカをはじめとしる海外の研究機関との活発な学術交流」・「原子力に関する基礎教育・専門教育」を掲げている。県としては敦賀周辺に原子力関係の大学や研究機関を集めて一大研究拠点を作ろうという算段である。
 しかし、3.11を経験した今「原子力研究」とは時代錯誤も甚だしい。原子力を研究しようとする学生は益々減っている。「原子力産業は人材不足」と報じられており、「学生の原子力離れは依然として深刻な状況で、特に原子力“以外”の学問を専攻した学生の(原子力関連企業の就職)セミナー参加者が、顕著に減少している。」(HUFFPOST・2014.1.14)とされる。しかも、福井県の「研究拠点化計画」には栗田前知事時代の1998年に電力交付金を投入して立ち上げた「エネルギー拠点化計画」=「若狭湾エネルギー研究センター」という失敗前例がある。当初、研究センターでは加速器(シンクロトロン)による植物の品種改良や材料評価と新材料の開発などが掲げられたが、予算の制約から加速器の能力が「帯に短し襷に長し」という中途半端なものであったため施設の利用は低迷し、途中で計画を医療用に変更し、陽子線照射によるがん治療を研究目的の中心に据えた。しかし、がん治療も臓器が動かない前立腺がんなどに限られるとともに、厚労省が他の治療方法と大差ないとして健康保険の適用を頑として認めないため治療費は全額自己負担となり300万円もかかっている(現在、治療は福井県立病院内に同様の施設が設置されたため移管されている)。一体、誰が利用するのか。計画変更の痕跡は加速器に向かう通路の左側の壁の1mほどの不自然な出っ張りにある。当初、治療行為を想定していなかった部屋に陽子線を照射することとなったため、陽子線を漏れないようにするためである。
 エネルギーという括りでは、栗田前知事の時代・1989年から敦賀市の敦賀港と中池見湿地に大阪ガスのLNG基地を誘致する動きがあった。しかし、この計画は表向き湿地保存の環境団体の反対により頓挫することとなるが、裏では関西地区のエネルギー覇権を巡り大阪ガスとバトルを展開していた関西電力が暗躍したとも見られている。当時の河瀬敦賀市長も日本原電の3,4号機増設計画の金に目がくらみ誘致に消極的になったことがあげられる。西川知事も2014年に「エネルギー戦略特区」でLNG輸入基地やLNG火力の誘致を提案したが(福井:2014.4.25)、かつての中池見のような具体的候補地はなく、大阪ガスも消極的で尻すぼみとなった。ようするに、これまでの福井県の「原発地域振興策」は行きあたりばったりであり、県民・国民の命と引き換えにするようなものではない。

3 伊達市の「心の除染」という虚構(黒川祥子著)
 伊達市は福島県の北部、宮城県と県境を接している人口62,000人の自治体である。このうち小国地区は人口1,300人あまり。山間に広がる集落で、大きく上小国、下小国に分かれる。福島第一原発からは直線距離で50km離れているが、西隣には福島市内で最も放射線量が高い渡利(わたり)地区があり、全村避難した飯舘村は山一つ隔てて南東側に隣接している。仁志田昇司伊達市長は福島原発事故による放射性物質の「除染」よりも、放射能を怖れる気持ちを取り除く「心の除染」をすべきであると主張する(『「心の除染」という虚構 除染先進都市はなぜ除染をやめたのか』黒川祥子著 2017.2.24)。
 黒川が伊達市を取り上げたのは出身地であるということもあるが、福島原発事故の「縮図」がそこにあると感じたからである。事故後、伊達市には他の放射線量の高い市町村とは異なる「特定避難勧奨地点」という制度が適用された。「地域」ではなく、「地点」=世帯、家。家ごとに特定に避難を勧奨するという制度である。「同じ集落、同じ小学校、同じ中学校に、避難していい家と避難しなくてもいい家が存在する。『勧奨』だから、避難はしてもしなくてもいい。年寄りが今まで通り自宅で農作業をしながら暮らしても、東電から毎月慰謝料が支払われる。一方、『地点』にならなかったら、子どもが何の保障もなくこの土地に括り付けられる」(黒川:同上)。指定されて(2011.6)から解除される(2012.12)まで1年半という期間であった、この「制度」により地域社会はズタズタにされた。では、なぜ「地域」ではなく「地点」=家単位であったのか。「問題は、県庁です。小国から県庁まで直線で7キロ、裏道を使えば20分で行ける。ここを計画的避難区域にしてしまうかが、県と国の悩みの種だった。まさに、小国は県庁ののど仏ですよ。小国を計画的避難区域にすれば、渡利地区だって同じぐらいの線量ですから、ここもそうならざるを得ない。こうして避難が福島市に及んだら、何万人もの人間を避難させないといけなくなる。その人たちをどこに避難させるのか。当然、県庁も所在地を動かさざるを得ない」(黒川:同上)。福島県庁という官僚組織を守るために伊達市小国という地域はズタズタにされたのである。
 もう一つ、伊達市は2011年夏、「除染先進都市」として華々しくデビューした。2014年2月に市長は国際原子力機関(IAEA)本部にも招かれ除染の報告を行い、同市の除染担当職員・半澤氏は「除染の神様」と呼ばれるほどだった。伊達市の放射能アドバイザーに就任、除染を指導したのは原子力規制委員会委員長の田中俊一氏である。一地方都市に過ぎない伊達市が、国の動きに2か月も先立って「除染」を掲げたのは田中氏のバックによるところが大きい。田中氏は小学校時代を伊達市で過ごしている。伊達市の広報で市長は「地域が一体となって放射能と戦う体制を一日でも早く構築し、『放射能に負けない宣言』をしたいと考えております。全市民一丸となって、放射能と戦っていきましょう」と呼びかけたのである。人間が自然物であり、物理的法則のみに従う放射能と戦うなど馬鹿げたことである。「除染」は実験室など限られた空間が放射能で汚染された場合にのみ有効な手段である。福島のような膨大な空間が汚染されてしまった場合には、「除染」は放射能をあちらからこちらへと移動するだけの手段に過ぎない。空間に積み重ねた膨大な除染廃棄物の持っていき場はない。放射能とは戦わず逃げる=「避難」こそ重要である。その後、2015年1月の広報で市長は「除染は元の『安全なふるさと』を取り戻す手段として取り組むものでありますが、安全だと思えるようになるには心の問題という面もあります」として、掲げていた「除染」からも早々と撤退宣言をした。「伊達市は原子力推進機関にとって有利に作用する『実験場』としての使命を全うした」、「伊達市の『実験』は今後、原子力災害が起きた時の貴重な『前例』となるだろう」(黒川:同上)。
 「ひとたび原発事故が起きれば、この国に民主主義があったのかと疑わざるを得ないように、人々は大きな力に翻弄される。最も大事で最も優先されるべき、子どもの健康・子どもの未来さえ、原子力産業や原子力政策の前にあっけなく吹き飛ばされるさまを、まざまざと見た。伊達市が守ったのは『市民』ではなく、『伊達市』だった。福島県も国も、同じだろう。これは決して対岸の火事でも、他人事でもない。私たちは今、そうした社会に生きている。」(黒川:同上)。日本国憲法第92条は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と書く。「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本」とし(地方自治法)、地方自治の本旨とは「住民自らが地域のことを考え、自らの手で治めること」であり「地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていくこと」であるはずだ。しかし、伊達市においては地方自治は死滅した。

【出典】 アサート No.474 2017年5月27日

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