【投稿】国立大学「人文系学部」廃止ではなく「国家官僚」廃止を

【投稿】国立大学「人文系学部」廃止ではなく「国家官僚」廃止を
                            福井 杉本達也

1 文科省の「人文社会系学部」廃止通知
 昨年6月8日に文部科学省が全国立大学86校に対し、「人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換」(朝日:2015.6.9)という通知を出した。「自然科学系の研究は国益に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、文学部や社会学部など人文社会系は成果が見えにくい」(同上)というのである。
 これに対し、日本学術会議は、「人文・社会科学と自然科学とを問わず、一義的な答えを性急に求めることは適切ではない。具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たすこともまた、大学に求められている社会的要請である。前者のような要請に応えることにのみ偏し、後者を見落とすならば、大学は社会の知的な豊かさを支え、経済・社会・文化的活動を含め、より広く社会を担う豊富な人材を送り出すという基本的な役割を失うことになりかねない。」(2015.7.23)との幹事会声明を出し文科省通知に反論した。日経新聞も「大学を衰弱させる『文系廃止』通知の非」(2015.7.29)と社説で非難し、経団連は9月9日に「産業界の求める人材はその対極にある」との声明を出すなど、文科省の通知に非難が相次いだ。下村文科相(当時)は「人文系は不要と言っているわけではないし、軽視もしていない…あくまでも判断するのは大学自身」(日経:2015.8.10)などいうが、文科省が通知を取り下げたという話は全くない。国立大学の予算権限を握る文部官僚の思惑どおりにことは推移している。

2 明治以降、日本の国策は「理系」重視・「文系」軽視で始まった
 「文系廃止」の通知の言外に対象外の項目がある。「旧帝大法科」である。帝大法科は国家官僚の供給機構であるとともに、教授は国家権力を担う行政官僚でもあった。その官僚のイニシアティブの下で「国策」としての科学と技術の輸入・教育があり、旧帝大理学部や工学部の存在があったのである。「明治の工学はかくしてお上と西洋の二重の権威で武装され、人民のうえに君臨する学…国家を設計し、人民を管理する学問である」。しかも近代機械文明の第一歩は「軍事的政治的要素によって支えられた」。工学部や理学部の教授・研究者たちにとっては、戦争中はわが世の春だった。平賀譲東京帝大13代総長(造船学・海軍技術中将)の下で、1942年「第二工学部」が新設され、特攻兵器などが研究された。「二工」は1945年の戦艦大和の撃沈と敗戦によって「戦犯学部」との非難を受け役割を終えたが、戦時下において戦争に不可欠と語られた理学教育や工学教育は敗戦を境に何の反省もなく今度は近代国家建設のために不可欠と祭り上げられていった(山本義隆『私の1960年代』)。
 では、福島原発事故においては「理系」はどう行動したのか。2011年3月12日、危機的状況にあった福島原発を菅直人首相(当時)と共に視察した斑目春樹元原子力安全委員長(東大大学院工学系研究科教授)は、菅氏の「水素爆発はあるのか?」との質問に、「水素がいくら出てきても爆発しません」と答えた。その数時間後に1号機の建屋は水素爆発を起こした。班目氏は、「わあ、しまった!」と思ったと語っている(FNN斑目氏単独インタビュー 2016.3.8)。「化学エネルギー」の技術で「核エネルギー」を無理やり押し込めようとしてきた戦後工学が決定的に破綻した瞬間である。同時に、事故当日、勝手に官邸の危機管理センターを抜け出し職務放棄した寺坂信昭元原子力安全・保安院長は、後に国会事故調でトンズラの理由を聞かれ「私は文系なので」と答弁したが、腐敗・堕落も甚だしい。今すぐ廃止すべきは「核エネルギー犯罪学部」と「官僚養成学部」ではないのか。

3 安倍がなんだと電話を切ったノーベル賞:大村智氏と「君が代」で岐阜大を脅す馳浩文科相
 ノーベル医学・生理学賞受賞の一報を受けて北里大学での記者会見で、大村智氏が挨拶をしようと口を開きかけた時、事務方が「安倍総理からお祝いの電話です」と耳打ちした。大村氏は「あとでかける」とにべもない。司会者が気を利かせて、「ただ今、安倍総理のほうから電話が入っておりまして、そのあと大村先生のご挨拶を」とフォローすると「今、総理大臣から電話があるそうですけども、(この電話口で)ちょっと待たされております。タイム・イズ・マネー。(会見を)続けましょう」と答えた。ノーベル賞は大村氏が自力で獲得した成果であるが、それを文科省官僚は姑息にも首相の電話1本で「国家の成果」として横取りしようとしたのであるが、時間の無駄だといってこれを拒否したのであり、実に痛快なシーンであった。これは大村氏が米メルク社と自力で契約を結び、大村氏の特許である抗生物質の売上のロイヤリティが研究費として還元され研究が続けられた自信からである(馬場錬成『科学』2016.2)。
 一方、馳浩文科相は2月21日、岐阜大学の森脇久隆学長が卒業式などで国歌「君が代」を斉唱しない方針を示したことについて、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べ露骨な脅しを行った(朝日:2016.2.21)。交付金や科研費の操作で大学に介入するのが今の国家官僚の姑息な手段である。
 大村氏のように公的な資金源からの束縛から自由なほど、時の学問の権威や官僚支配に服従しない道を選ぶ自由があり、逆に自由でない人は時流に逆らえば、公的な職を失う恐れがある(柴谷篤弘『構造主義生物学』1999.1.20)のが今の日本の教育・研究の現実である。

4 脱原発では宗教学者など人文系学者の活躍が目立つ
 いわゆる「専門家」といわれる人々の福島原発事故の評価についていち早く疑問を呈したのは原発とは縁遠い日本数学会であった。3.11直後から専門家が「想定外」という言葉を発したことに対し、「たとえごく稀にしか起こらない現象であっても、確率論的な視点からその危険性を適切に評価し十分な検討を加えること、検討に基づき異常事態への対策をたてた上で、危機管理に望むこと」(理事会声明:2011.6.12)だとし、不確実な情報も隠さずに公開すべきだと政府の情報隠しを批判した。宗教学者の島薗進氏も『つくられた放射線「安全」論』を出すなど事故直後から現在まで積極的な発言を行っている。また、経済学者の安冨歩氏は『原発危機と「東大話法」』で「原子力ムラ」に群がる東大教授たちは事故が起こった後も変わらず原発擁護の姿勢を貫いているが、それは「自己の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」という知的権威の「東大話法」によるものだと鋭く批判した。文科省はこうした「文系」の発言を疎ましく思っている。

5 「第5期科学技術基本計画」に見る落ちるところまで落ちた国家官僚の劣化
 日本の教育への公的支出はOECD加盟国中最下位で2012年GDP比3.5%である。1位のノルウェーの半分程度でしかない(日経:2015.11.25)。にもかかわらず「第5期科学技術基本計画」(2018.1.22閣議決定)では「ICT分野の知財、論文、標準化の件数」、「任期なしポストの若手研究者の割合」、「理科が楽しいと答える学生の割合」、「論文数、引用回数がトップ1%に入る論文の日本シェア」、「世界大学ランキングにおける日本の大学の順位」、「特許に引用される科学論文数」、「大学、公的研究機関発のベンチャー企業数」等々を目指す成果目標を設定するという(日経:2015.11.2)。人参もぶら下げずに「目標管理」手法のみで馬を走らせようというのであるから日本の国家官僚はどういう思考をしているのか?研究者は霞を食って生きられるのか?全く机上の空論である。「計画」は「科学技術イノベーション推進」を掲げるが、過去の経験や延長線上では評価できない変革を「イノベーション」という。「イノベーション」の「達成すべき状況を定量的に明記」(??)できるなら定義してもらいたい。いまだに過去の高度成長期の「成功経験」にしがみつき、3.11後の状況下にあっても「国内総生産」や「製品やサービスの世界シェア」を数値目標として掲げる国家官僚の「理系」重視の発想は、戦艦大和の沈没と重なって見える。日本語もまともに解釈できない輩が、「国家」という“権威”を笠に一片の通知で教育を動かそうとしているのであるから、日本も沈没である。「文系廃止」ではなく、全く無能・無責任な「国家官僚の廃止」こそ、今求められている。

6 高浜原発差し止め決定と「司法官僚」
 3月9日夕方、重大ニュースが飛び込んできた。高浜3,4号機の再稼働差し止め処分の大津地裁決定である。切迫した危険を止めることを目的とする「仮処分」のため即日効力が生じ、稼働中の高浜3号機は翌日の10日に停止された。稼働中の原発が裁判所の決定で停止されるというのは初めてである。住民訴訟側の井戸謙一弁護士(志賀原発2号運転差し止め判決の裁判長)はもちろん、関電や国さえも全く予想しなかった決定である。インドネシアを訪問中であった森詳介会長が予定を切り上げて急遽帰国するということからも関電側の慌てぶりが窺える(日経:2016.3.11)。
 大津地裁の山本善彦裁判長は、前回2014年11月の高浜原発運転差し止め仮処分申請では「規制委の審査が終わっていない」として却下しているので、今回も同様だろうと期待していなかったが、あにはからんや大逆転となった。「その災禍の甚大さに真筆に向き合い二度と同様の事故発生を防ぐとの見地から安全確保対策を講ずるには、原因究明を徹底的に行うことが不可欠である。この点についての関電の主張及び疎明は未だ不十分な状態にある」と明快な判断を示した。福岡地裁→大阪高裁→大津地裁などを異動している山本裁判長の場合、井戸裁判長(現弁護士)や福井地裁仮処分決定をした樋口英明裁判長など「良心と法に従う」裁判官というよりも「司法官僚」の位置づけが強い。稼働中の原発を止めたことは、劣化した経産官僚や文科・外務省内の独自核武装派の官僚により日本全土が放射能に占領されてしまう恐れが強くなる中、一部「司法官僚」の間では何らかの話が持たれていると見ることができる。日経のコラムは裁判員制度の導入によって司法官僚も住民目線を意識しだしたと分析する(日経「春秋」:2016.3.12)。浮ついた「理系」重視の前に「災禍の甚大さに真摯に向き合う」べきである。 

【出典】 アサート No.460 2016年3月26日

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