【投稿】「成長」か「脱成長」か –路線の選択について–

【投稿】「成長」か「脱成長」か –路線の選択について–

再度の政権交代によって安倍政権が成立して以来、1年6ヶ月が経過した。アベノミクス政策という、超低金利の継続と国債の無制限日銀買い取りなどによる円安効果で、一定の株価の回復や企業の業績改善を見たことで、円高による輸出産業などの低迷、90年代以来のデフレ進行による経済的な閉塞感は、国民の捉え方としては、やや改善し、政権基盤は安定したかに見えている。そして、安倍首相や自民党の悲願である憲法改正や「戦争のできる国」作りの第一歩とも言える解釈改憲による「集団的自衛権の行使容認」を閣議決定で進めようとするなど、右派政策の動きを強めている。安倍政権のこうした動きに対して、まだまだ広範な反対の意思表示は未だ弱いのが現実であろう(世論調査では、反対が過半数だが)。安倍政権の経済政策や極右路線に対して、左の側が十分に現在の右への流れへの対抗軸を明確に示せていないのは何故なのか。自民党やその亜流勢力の闊歩に対して、統一して対抗できる理念や政策が何なのか。このあたりは、今日や明日の戦術的議論ではなく、やや中長期的な戦略議論として、きっちりとした議論が必要だと思うのである。その一つが「成長」を巡る議論であろう。「成長路線」なのか、「脱成長路線」なのか、という問題である。
私の個人的な考えは、どちらかと言えば「脱成長路線」を選択したいと思う。本紙の寄稿者である杉本さんから本号に同様のテーマ設定で寄稿いただいている。「成長主義者」は原発推進者であり、脱原発を求める人々は、明らかに脱成長論。一方で、未だ国民の多くは、「経済成長がないと、社会は衰退する」との意識下にある。これらの意見や意識に、どう対抗していくのかが、求められているとも言えるのではないか。脱成長の中身を明確に、丁寧に語る必要があると思われる。
そこで、参考になるのが、水野和夫氏の最近の著書「資本主義の終焉と歴史の危機」(2014年3月集英社)であろうか。水野氏は、1995年以来の日本の低金利状態が示している事は、日本の資本主義が投資飽和状態にあること、さらにリーマンショックが明らかにしたように、金融資本や富裕層が、資産バブルを繰り返して、中間層を没落させつつマネーゲームで肥え太り続け、格差の拡大が止めどなく広がっている事は、資本主義がその終焉の時を迎えようとしていると分析した上で、資本主義がさらなる暴走の先に終焉を迎えるのか、何とか暴走を抑制しつつ終焉を迎えさせるのかの選択を我々に問うていると語る。暴走を抑制する考え方として、「脱成長」の一つのプログラムが本書で提示されている。
水野氏は、1000兆円の債務を抱え、人口減少期に入った日本には、マイナス成長ではないゼロ成長のプログラムが必要だとし、「ゼロ成長=定常状態」を維持するために必要な政策として、いくつかの提案をされているが、中々興味深いものがある。GDPの2倍もの借金がある日本国債がデフォルトを免れているのは、その大半が国内で保有されていること、さらに国内(国民)の金融資産が1500兆円あり、それが毎年増え続けている点を指摘され、ただ2017年頃その増加が減少に転じた時点で、国債の買い手が減少し、国債市場が不安定化するとも指摘されており、日本の財政収支の均衡化がなによりも急を要すると。そのためには、ゼロ金利の国債を国民は容認すべきであり、「国債=「日本株式会社」の会員権」と考えるべきだとも言われる。同様の主張は、森永卓郎監修の「『新富裕層』が日本を滅ぼす」の中にも、「無税国債」の提案として展開されている。無税国債とは当然無利子なのだが、所有者が亡くなった時の相続税は免除し、富裕層にもメリットを与えつつ、利子払いのない国債による財政安定化を図れというもの。
脱成長・ゼロ成長=定常状態(社会)を積極的に打ち出すためにも、こうした議論を進める必要があるのではないでしょうか。(2014-05-19佐野))

【出典】 アサート No.438 2014年5月24日

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