【書評】『中国民主改革派の主張──中国共産党私史』

【書評】『中国民主改革派の主張──中国共産党私史』
    (李鋭著、小島晋冶編訳、2013.3.発行、岩波現代文庫、1,240円+税) 

 社会主義という建前とは裏腹に、国家資本主義に邁進し、人権を抑圧し続ける中国、というのが強い印象を与えている。しかしその中で、近代民主主義国家中国の形成を主張する勢力は、大きな部分を占めてはいないが、確実に存在しており、その代表が李鋭であろう。
 李鋭はこう語る。
 「中国社会問題の病巣は、確かに専制主義およびその制度にある。スターリンモデル、毛沢東晩年のいわゆる『社会主義』の最も根本的な弊害は、専制主義を復活したことである。党は政権掌握後、一個の、権力が制約を受けない集権制度を樹立し、党員と公民もいずれも民主の権利を享有しなかった。これは人類の近代文明の主流を離れ、さらにはこれに背きさえした。中国が改革開放を実行するには、必ずスターリン式を離れ、毛沢東晩年のいわゆる『社会主義』を放棄して、人類文明の主流が、民主、科学と法治に分け入って、普遍的価値を承認し、世界文明の軌道を受けつがねばならない」(第3章「李昌と『十二・九』世代の人々」)。
 この大胆な主張をする李鋭は、1937年に中国共産党に入党、抗日戦争時期は延安で党の青年工作・新聞工作に従事し、中華人民共和国建国後は『新湖南報』新聞社社長などを経て、1952年には水利電力副部長に就任した。当時議論されていた長江三峡ダムの開発計画への批判が毛沢東に評価され、1958年には毛沢東の兼任秘書となった。しかしその後、大躍進運動批判の発言で彭徳懐の「反党集団」の一員とみなされ、党籍剥奪処分(1959年)、また文革期には8年間秦城監獄に投獄された。1979年名誉回復の後は、中共中央組織部常務副部長、中央顧問委員会委員などの要職を歴任し、退職後は1991年に創刊された民主改革派の月刊誌『炎黄春秋』を中心に精力的な執筆活動を続けている。特に毛沢東に対する評価、「革命に功あり、執政に過ちあり、文革に罪あり」で知られている。その著作の多くが中国国内では現在発禁となっているが、中国には政治体制改革・「言論の自由」が必要だと主張する「改革派老幹部」である。この毛沢東への批判と民主改革への展望が、本書の諸論文となっている。
 中国革命の経過についての次の総括的記述が、李鋭の主張を最もよく示している。
 「より重要なことは、ロシアから伝えられたマルクス主義は、ロシア化したマルクス主義、すなわちレーニン主義(のちさらにスターリン主義が加わった)だったことだ。毛沢東のあの名言(「十月革命の一発の砲声が、我々にマルクス・レーニン主義を送り届けてくれた」・・・評者註)に言われているのは『マルクス・レーニン主義』であって、『マルクス主義』ではない。これは非常に意味があることだ。レーニン主義、ことにスターリン主義には、マルクス主義の原典と相異なり、また、相反するものが多くあり、古典的マルクス主義イデオロギーの変種である」(第1章「『中共創始訪談録』序」、以下同じ)。
 「中国人はソビエト・ロシアの観念を受け容れ、これがマルクス主義だと考えた。ロシア革命とロシア化したマルクス主義は、その始まりから神聖化された。中共党員は感情面でその大衆動員の手段と暴力的手段に強くいれ込んだだけではなく、その上それが後に樹立した専制主義の経済と政治の制度、残酷で鉄腕の党の制度に引き付けられた。過去にはこう言われたではないか? 『我々は一辺倒だ[米ソ対立の中でソ連にだけ傾倒する]』と。さらに『ソ連の今日は我々の明日だ』と」。
 「事実は次のことを証明している。自由、民主、公正、人権、法治の人類の普遍的価値に背を向け、人類の文明は科学的知識即ち智能に依拠して発展してきたという法則を離れるなら、どんな制度、どんなイデオロギーも自らへの弔鐘を鳴り響かせるほかないことを証明した。この結果に中共早期の創始者たちは考え及ばなかった。一句の名言を使うなら、中国人は間違った時に、誤った場所から、一個の誤った手本を移植したのだ」。
 このような視点に立って著者は、現在の中国指導部に対して厳しい批判の眼を向ける。
また毛沢東、鄧小平の時代の政治指導部間(陳雲、胡喬木、鄧力群、陸定一、胡耀邦、趙紫陽、万里等々)の確執を語る本書のインタビューは重要な証言である。特に胡耀邦辞任後、一群の党内民主派が保守派の最高指導権奪取の企てに抵抗することに成功した内幕(第11章「趙紫陽との交わりを懐かしむ」)は興味深い。
 しかしその後の中国の現状については、こう指摘する。
 「十一期三中全会以来、二十余年の改革開放によって、経済上だけは市場経済の軌道を歩み、このためもはや餓死者は生まれなくなった。しかし我々の市場経済は権力の支配を受け、すべての資源は党に支配され、トップや次の高層人物がひとこと言えばそれで事が決められた」。
(これに続いて、「六四の政治の風波の後、江沢民が趙に代わって総書記の職を継承した時、鄧小平は江沢民にこう言った。『毛が生きていた時は毛が言えばそれで決まった。私の時は私が言えばそれで決まった。君はいつそうなるか。そうなれば私は安心だ』」という話が紹介される。そしてこの話は2003年3月週刊の雑誌に掲載されたが、すぐに発禁となったと語られている・・・評者註)。
 「私は今の中国には二つの特色があると考えている。第一点は毛沢東、鄧小平のような『一人が言えばそれで決まる』という権威ある人物がいないことで、もう一つは同時に政治体制の民主化がまだできていないでいることだ。もし当時耳に逆らう忠言を聴き容れて、一九四九年以後政治運動をやらず、階級闘争を根本原則とすることなく、人類の歴史社会発展の普遍的法則である道、すなわち自由、民主、科学、法治と市場経済の道を歩んでいたら、我々の中国は早くに現代化[近代化]した国家となっていただろう」。
 以上本書は、中国「改革派」の明確な主張を提示するものであり、一読に値する。そしてその上で歴史的経緯として、李鋭が語る「マルクス主義」受容と同種の傾向が、わが国の場合にもどう含まれていたのかが改めて検証されねばならないであろう。(R)

(参考)李鋭年譜

1917 生まれ
1937 党組織を結成(北京にて承認される)
1939 延安へ 中央青年委員会宣伝部宣伝科長
1943.4.~1944.6.「特務」の疑いで監禁される
「解放戦争」期 陳雲らの政治秘書
1952 水力発電事業に転身・・・性急な三峡ダム建設批判が評価され、毛沢東の個人秘書となる
1958 「大躍進」・・・1959 批判・・・彭徳懐の「反党集団」のメンバーとされ、除名
1960 北大荒(黒竜江省)に流され、労働改造(田家英の援助で、1961 北京に戻る)
1962 劉少奇による「大躍進」の総括後も、党籍回復ならず、安徽省の小水力発電所で働く・・・文革で、再度「反革命分子」として告発され、1975 まで8年間北京郊外の政治犯用の「秦城監獄」に収容される
1975 出獄 安徽省の水力発電所に復職
( 1971.9.林彪クーデター未遂 1973 鄧小平 復活)
1976.1. 周恩来死去  4.「第一次天安門事件」
   鄧小平 失脚  華国鋒 登用
1976.9. 毛沢東病死 )
1978.12. 党十一期三中全会「右からの巻き返しに反撃する運動」・・・文革の否定
      陳雲、胡耀邦、趙紫陽、万里などが要職につく
1979 名誉回復 北京に戻る
1982 党中央組織部常務副部長(~1989)中央委員
1987 中央顧問委員会委員
   91年に創刊された『炎黄春秋』(民主改革の月刊誌)に論文を執筆 

 【出典】 アサート No.429 2013年8月24日

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