【本の紹介】憲法第九条を発案したのは誰か〔新説〕

【本の紹介】憲法第九条を発案したのは誰か〔新説〕
     『「東京裁判」を読む』
     著者 半藤一利 保阪正康 井上 亮
   発行 日本経済新聞出版社 2009年8月3日発行 2,310円(税込)
     『占領下日本』
      編者 半藤一利 竹内修司 保阪正康 松本健一
   発行 筑摩書房 20D9年7月25日発行 2,300円+税 

 筆者は以前に、本紙(アサート No.318(2004年5月22日)号)に、「9条の生みの親」を知ろう 、と題して、憲法九条の戦力放棄を明確に規定した「9条の生みの親」は、実はアメリカから押し付けられたものではなく、日本帝国主義の敗戦の年、1945年10月に内閣を組織した幣原喜重郎首相であったという、しかも幣原氏自身が、思い付きや、「一時的なものではなく、長い間考えた末の最終的な結論だ」と語っているという、これまでほとんど知らされていなかった事実について、【資料紹介】を行った。
 今回ここに紹介する二つの書籍は、出版元は違うが、今年のほぼ同時期に発行され、しかも昭和史では第一人者と目されている半藤一利、保阪正康の両氏が著者、編者として参加、討論を主導されている。それぞれに扱うテーマは異なっているが、いずれも敗戦直後から東京国際戦犯裁判を含む占領下日本において、いまだに多くの謎と未解決の問題を問いかけている諸問題について鋭く切り込んでいる注目の好著といえよう。
 『「東京裁判」を読む』の目次は、
序章 歴史の書庫としての東京裁判
第1章 基本文書を読む
第2章 検察側立証を読む
第3章 弁護側立証を読む
第4章 個人弁護と最終論告・弁論を読む
第5章 判決を読む
第6章 裁判文書余録
であり、
『占領下日本』の目次は、
序章 「八月十五日」の体験
第1章 日本は「無条件降伏」をしたか
第2章 「一億総懺悔」の問題点
第3章 天皇とマッカーサーとの会談の真実
第4章 天皇が「人間」となった日
第5章 「堕落論」および「俳句第二芸術論」の衝撃
第6章 憲法第九条を発案したのは誰か
第7章 当用漢字・新かなはどうして採用になったのか
第8章 検閲はどう行なわれていたか
第9章 国敗れてハダカありき
第10章 “日本人民共和国”成立の可能性
第11章 『はるかなる山河』に生き残ったことの意味
第12章 東京裁判でパル判事が主張したこと
第13章 「デス・バイ・ヘンギング」という判決
第14章 『日本の黒い霧』の推理は正しいか
第15章 朝鮮戦争は「神風」だった?
第16章 古橋・湯川・黒澤の活躍
第17章 警察予備隊が編成されたとき
第18章 マッカーサーが忘れられた日
である。

<<白鳥敏夫の憲法論>>
 両書で期せずして、憲法九条成立にかかわる文書として、元駐イタリア大使・白鳥敏夫の弁護資料が取り上げられている。
 まず、『「東京裁判」を読む』の第4章「個人弁護と最終論告・弁論を読む」の中で、問題の文書について以下のように紹介される。

 検察、弁護側双方の反論は一九四八年二月十日で終了した。これで法廷での証拠文書はすべて出尽くしたことになる。この前日の二月九日の公判で元駐イタリア大使、白鳥敏夫の弁護資料として提出された不思議な文書がある。それは終戦から四カ月過ぎた一九四五年十二月十日付で白鳥から当時の吉田茂外相に宛てられた書簡だ。このとき白鳥は巣鴨拘置所に収監されていた。
 書簡で白鳥は皇室のキリスト教化と戦争放棄の平和憲法制定を訴えている。白鳥は日本の敗戦をかつてのユダヤ王国の滅亡に誓え、日本民族との類似性を指摘する。そして、キリストを受け入れなかったために流浪の民となったユダヤ民族の悲劇を語り、日本ほ同じ道をたどってはならないと説く。・・・
 白鳥は続いて憲法改正問題について述べる。これからの日本人は「絶対平和の民」であるべきで、天皇の終戦の詔勅にある「万世泰平」の基礎は新憲法で打ち立てる必要かあるという。
 国民は兵役に服することを拒むの権利及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきこと等の条項は新日本根本法典の礎石たらざるべからずと存候〔略〕
 天皇に関する条項と不戦条項とを密接不可分に結びつけ而して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不能ならしむることに依りてのみこの国民に恒久平和を保持し得べきかと存侯
 吉田は白鳥からこの提案を当時の幣原喜重郎首相に伝えてほしいと要望され、幣原に書簡の写しを手渡したと供述している。憲法改正作業は幣原内閣のもとで行われたが、はたして白鳥の書簡は何らかの影響を与えたのだろうか。そう考えるのは白鳥を買いかぶりすぎであろうか。

<<「新説」の根拠>>
 一方、『占領下日本』では、同じ文書が、「第6葦 憲法第九条を発案したのは誰か」で取り上げられ、この章の冒頭報告を行っている竹内修司氏が以下のように紹介している。

 竹内 いちばん最初に戦争放棄を言い出したのは、戦前の外交官で、東京裁判のA級戦犯でもあった白鳥敏夫だと最近いわれ出したので、そのもとになった原文を探して見てみたのですが、驚くほど荒唐無稽な手紙です。・・・
 「昨今はもっばら天皇大権の縮減、人民権利の伸長に一般の注意が向けられおり、それはもちろん負荷なしとは存知候らえども、これらの事項は諸外国の憲法に於いて明記せられおり、我々は自由にこれを斟酌しうる理にて、問題は比較的簡単にござ候。さりながら日本の我らは絶対的平和の民たらんとするものに候らわずや。去る八月十五日の御詔勅に拝する万世太平の基礎は新憲法に於いて、しかと打ち立てざるべからずと存じ候。将来この国民をして再び外戦に赴かしめずとの、天皇の厳なる確約、いかなる事態、いかなる政府の下に於いても、何らの形式によるかを問わず、国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源のいかなる部分をも軍事の目的に充当せざるべからずなどの条項は新日本根本法典の礎とならざるべからずと存知候」
「有体に申せば、小生は旧天皇制なくんば、いかにして新憲法の中に平和条項を有効適切に折り込むべきかを知らざるものにござ候。天皇に関する条章と、不戦条項とを密接不可離に結びつけ、而して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不可能ならしむることによりてのみ、この国民に恒久平和を保障しうべきかと存ず」。
というのが、その部分なのです。・・・
 竹内 そして「よろしければ一通、幣原首相にお返し願いあげたく、小生は新憲法に関する愚見を、首相がいかに受け取られるかに、承知いたしたく存知候」なんて言っておしまいになっている。吉田さん、よかったら回してくれよ、ということです。
 これが、二十二年一月二十日まで、進駐軍に留め置かれているのです。一月二十日に吉田の手に渡っている。吉田がそれを幣原に見せたかどうかはわかりません。でも暗合があるのは、幣原がマッカーサーと会見をして、戦争放棄のことについて言い出して、マッカーサーが感激をしたというのが一月二十四日ですね。名目上はペニシリンを貰ったことへのお礼で、三時間くらい話をしているから、その時に出た話だろうというのが普通言われていることです。その四日前に少なくとも吉田の手に初めてこの手紙が渡っていて、それがもしも幣原のところに渡ったとすれば、ちょうどいい頃合いだろう、と。だから、というのが新説なんですね。

 以上が、「憲法第九条を発案したのは誰か」、それは白鳥敏夫だという新設の根拠である。
 この後の討論の中でさらに注目されるのは、
 竹内 マッカーサーが、ワシントンに天皇無罪のメモを送ったについては、私はオーストラリアが戦犯リストを提出して、その七番目に「ヒロヒト」を挙げたことと関連していると思います。オーストラリアのリストのことをマッカーサーが知ったのが一月二十二日、その三日後の二十五日に、彼は二カ月も遅らせていた「天皇が戦犯であるかどうか、証拠を収集せよ」という指示に対する返事を、急遽送っているのです。
 先に話に出た、その時期の空気がそうだったという話。吉田茂なんかは戦争放棄を憲法に謳うということまでは考えなかったけれど、軍備を持たないという、それくらいのことは言ったと思います。
 半藤 そのことは、どうも幣原さんが普段から理想論で言っているらしいのです。不戦条約以来。あの言葉そのものが不戦条約の言葉とそっくりですからね。そのものズバリですものね。
という箇所である。
 ここで半藤一利氏が述べている「あの言葉」とは、もちろん憲法九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という文言そのものである。白鳥敏夫発案という「新説」も、幣原説を補強する以上のものではないといえよう。
(生駒 敬) 

 【出典】 アサート No.384 2009年11月28日

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