【松江 澄さん追悼】「もっと民主主義を」

【松江 澄さん追悼】「もっと民主主義を」

松江澄さんといえば、広島市中心部にかつてあった「なめくじ横丁」などという、飲み屋で一緒に飲んだ。今は地上げで消えた。一九八〇年ごろ、広島県議をやめて間もないころだ。県労会議のメーデーに招かれ、社・共・労(労働者党)の順であいさつしていた。広島では、保革を超えた、今で言うカリスマ的な人気があった。スタンド(スナック)のママが「松江先生が共産党でなくて自民党だったらよかったのに」などと言っていた。
六十代の時に心筋梗塞で倒れたが、「焼酎の湯割りで立ち直った」と豪語。反核市民団体の代表になり、若手運動家の信望を集めた。その一方で九〇年代初頭、グラムシの著作の小さな勉強会を主宰したこともある。理論家だが、柔軟に現実をみすえた人だった。
ロシア革命の二年後の一九一九年に広島市内に生まれた松江さんは、東大在学中、「学徒出陣」した。行き先も知らされずに玄界灘を渡り、朝鮮半島を列車で縦断すると、極寒のソ連国境の町へ。牡丹江重砲兵連隊(現在の中国・黒竜江省)に入隊した。凍傷の恐怖と闘い、内務班でのいじめに耐え、四四年に帰国。富士山ろくの陸軍重砲兵学校教育隊で敗戦を迎えて広島に戻るが、原爆で実家は焼け、医師だった兄は被爆死していた。 非道な軍隊の経験と家族を原爆で失った経験、戦後の原水禁運動や労働運動の原点だった。
復員して朝鮮戦争までの五年間、占領軍と対峙した日鋼争議の指導や「原爆廃棄」を初めて訴えた平和擁護広島大会の開催など運動のうねりの渦中に身を置く。レッドパージで勤務先の中国新聞を追われ、路線対立から六一年に共産党を離れ、社会主義革新運動(社革)に参加。二十数年後の八四年、社会主義の優位性を批判する論文を発表した。ソ連の崩壊はその七年後だった。
「神のごとく尊ぶ」という批判的な言い回しをよく使っていた。その対象が天皇制であり、「前衛党」だった。最後にたどり着いたのは「もっと民主主義を」だった。
松江さんの告別式はキリスト教会で簡素に営まれた。レッドパージ組とおぼしき老闘士たちの姿もあった。臨終にあたって洗礼を受けていたことに驚き、司式する牧師が松江さんの思想とイエスの教えは同じだ、と説いた。その意味をこれから考えてみる。(広島・S)

【出典】 アサート No.328 2005年3月19日

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