【書評】森信成『唯物論哲学入門』再刊

【書評】森信成『唯物論哲学入門』再刊
      (2004.2.25.再刊、新泉社、1800円)

 1972年に発刊された本書が、32年ぶりに再刊されることになった。そのきっかけが、漫画家・青木雄二が共同通信に書いた、「心に残る一冊」という記事であったことは、本書の内容を象徴している。青木雄二と言えば、『ナニワ金融道』シリーズで、金融界=資本主義体制の内幕、その非道性、残酷性(アコギさ、アクドさ)を、「借金」という庶民の日常的現実に即して描いてきた骨のある漫画家であったが、その彼が「絶賛」したというのは、恐らく「唯物論か観念論か」という「哲学の根本問題」と、ここから発する「疎外–神、国家、資本」についての単純明快な説明によってであろうと推察される。これらの説明は、かつて著者の最も得意とするところであったし、それだけに本書のもととなった当時の講演においても熱の入ったところであった。このところを本書から引用してみよう。
 「疎外というものが重要な意味を持っているということは、疎外現象がどういうものかを考えてみると非常によくわかります。疎外が思想の面で、イデオロギーの面であらわれてくるのが神です。政治の領域で疎外現象としてあらわれてくるものが国家です。経済的には、それは資本という形をとっているものです。この三つをあわせて考えてみると、疎外という概念がどれほど重要な意味を持っているかということが了解できると思います。」
 そして著者はこの疎外概念が、「哲学の根本問題」と次のような密接な関係を有しているとする。
 「神のうちには、神学的な、非人間的な側面と、人間的側面があります。この二つは絶対的に対立しています。前者を代表するのが観念論で、後者を代表するのが唯物論です。(中略)次に国家についていえば、国家には、民主主義の側面と、もう一つは、階級的な支配を支えている独裁的な側面があります。これが国家における人間的なものと非人間的なものです。資本の場合には、資本が、社会的な生産力でありながら、同時に搾取の源泉としての死んだ生産力(私有財産)という形をとっています。」
 このような疎外された社会では、それ故に社会の利益と個人の利益が絶対的に対立し、「万人の万人に対する闘争」=無政府的な自由競争が支配する。
 「これは商品経済一つとってみてもすぐわかります。売る方は高く売ろうとするし、買う方は安く買おうとし、お互いに相手を打倒することによってのみ自分の生存を維持し、自分の利益を拡大することができるのです。成功者というのはどのような人間をいうのかといえば、同業者を打倒し、その得意先を奪って没落させた人間のことです。他人の没落が自分の発展の条件になり、自分の没落が同時に他人の発展の条件になります。」
 つまり「このような社会においては、社会関係によって人間はエゴイストたらざるを得ないようにされている」のであるから、そこでこの社会において疎外の最も基本的な原因となっているものを取り除くこと=資本を人民の手に取り返すことが不可欠である。つまり資本が人民から切り離されて特殊な人間の所有物になっている状態(私有財産)の廃止の運動=社会主義が目指されなければならないし、それが民主主義の前進であると、著者は主張する。そしてこの社会主義への道は、革命によってブルジョア国家機構を人民の手に取り戻し、これを死滅させる方向(プロレタリア独裁)でしかあり得ないが、この道は「人間の意識的行動の背後に」ある「意識的行動そのものを支配する必然性」=われわれの意識から独立して作用する法則が存在していることが保障されており、これに合致した行動が「自由と必然の一致」する行動であるとされる。
 著者はこのように、「哲学の根本問題」から説き起こして、疎外の克服、社会主義革命への展望と必然性を語るのであるが、しかしこの社会主義革命へのコミンテルン方式がすでに破綻をきたしたことは、1991年のソ連崩壊を見ても明らかとなっている。そしてこれから後、マルクスの思想における目指されるべき社会主義像は、ある側面においては、グラムシの思想やあるいはアソシエーションといった画期的な思想として提起されているとはいえ、なお混迷の最中にある。
 この意味で著者の思想的立場は、現在においては、時代にそぐわないものとなったと言わざるを得ない。さらに「哲学の根本問題」に関して言うならば、著者の依拠したレーニンの『唯物論と経験批判論』の唯物論の規定が、一面的であるとともに誤りを含むものであったことも指摘されている。
 例えば、本誌第306号(2003年5月)で紹介した高橋準二『科学知と人間理解–人間観再構築の試み』(2002年、新泉社)の第4章「日常知と科学知–20世紀物理学と唯物論的認識論の再出発」では、レーニンの唯物論について、次のように述べられている。
 「唯物論は、意識から独立な客観的実在を承認することであり、客観的実在が提示する客観的真理を認めることだと、レーニンは言う。客観的真理は感覚器官にもとらえられるのだが、いっそう厳密な確証は科学によるとレーニンは考えた。科学によってえられる知識は歴史的に限定されているが、科学上の発見は『絶対的真理に新しい粒をつけ加える』ように成長すると理解される。科学はすべてのことを知っているわけではないが、科学において確証されたことが客観的真理であり、客観的真理が存在することは無条件に正しいと言う。」
 高橋は、「この見解は、一つには、科学の発展に関する進歩主義的(略)見方をしている点において一面的であり、さらに重要なことに、科学を真理の独占者にするという点において独断論的である」と評価して、「この独断論からレーニンは『科学的イデオロギー』の概念を引き出した」のであり、この概念こそが『唯物論と経験批判論』の演じた「政治的役割のかなめであった」と指摘する。けだし「世界の合法則的発展と絶対的真理の承認が唯物論であるならば、『哲学的唯物論を社会生活の研究や社会史の研究の押しひろげること〔により〕・・・社会史は社会の合法則的発展となり、・・・科学となる』(レーニン)、つまり『社会の発展法則にかんする科学の結論もまた客観的真理の意義をもつ確実な結論である、ということになる』(同)からであり、「プロレタリアートの党が社会発展の合法則性の体現者として自らを宣言するならば、そこにすべての哲学・科学・社会政策の客観的真理があることになる」からである。
 この「合法則性にもとづく運動の結果が、ソ連型社会主義への崩壊へとつながっていったことは、言を待たない。
 著者の立場は、「哲学の根本問題」から社会主義の展望にいたるまで一貫しているわけであるが、しかし上で見たように今日の運動の現状とはかなりズレがある。ただ著者が指摘・批判する疎外の現実–神(宗教)、国家、資本–については、的を射たものがあることは確かである。それは、悪徳宗教に憤り、国家権力の横暴さに拳を振り上げ、解雇の不安に耐えつつ、資本の非情さとアクドさに怒る庶民の気持ちに通じるものである。著者の時代においては未来の光であった「社会主義」への展望の確信が持ち得ない現在ではあるが、庶民の不満と怒りが社会変革への熱となり共生への意思となるような運動の構築が求められている。このための教訓を汲み取ることが、本書再刊の意義であるように思われる。なお山本晴義氏の解説も、かつての民科、日本唯研での経験を踏まえて、興味深いものとなっている。(R)

(追記:先月号(№.315)の5ページの書評の題名は、『疑似科学と科学の哲学』でした。訂正いたします。)

 【出典】 アサート No.317 2004年4月24日

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