民主主義学生同盟 前史

民主主義学生同盟 前史

<戦後初期の「民主主義学生同盟」の結成>
<1948年8月 民学同発起人会>
<1949年 民主主義学生同盟を青年運動に解消>
<第1期反戦学生同盟の歴史>
<極左冒険主義の反戦学生同盟への持ち込み>
<第2期反戦学生同盟の歴史>
<「7中委8回大会路線」から「8中委9大会路線」への転換>
<学生運動の転換論>
<民主青年団のその後>
<平和共存路線の否定へ、日本共産党の民族主義>
<民主主義学生同盟結成へ>
<関西の3府県学連、関東の共青結成、その違い>
<共産主義青年同盟の結成と矛盾>
<平民学連から統一派が民学同に結集>
<3度の分裂の経過>

この文書は、1975年7月に行われた「民学同全関西交歓会」(石光寺)での講演録です。戦後初期から民学同結成に至るまでの学生運動の流れ、そしてその後の第1次分裂までが語られています。(テープ起こしをされた方に感謝です)

 松原敬です。
 私個人は、民主主義学生同盟の結成に参加して、そしてそのOBとして、これまで民学同の中でもまれ、中で育てられてきた多くのOBがいるわけです。そのような中で闘ってきた多くの努力、経験を諸君に紹介しながら、今回の組織問題を巡る非常に多くの困難を克服された皆さん、同志の皆さんにOBを代表して温かい連帯のあいさつを送りたいと思います。

 今日は、民学同の歴史ということで皆さん方にお話をするわけですが、私たち最初に民学同を結成したものは、それ以前に多くの青年同盟や学生同盟の歴史を踏まえながら民学同を大衆的で民主的であるが故に戦闘的な政治同盟として結成していきたいという念願をかなえて1963年9月に民学同の結成を勝ち取ったわけですが、その歴史に入る前に、戦後の学生運動の特徴的な戦いの中で、とりわけ政治同盟の結成と消長、消滅、そういった歴史を踏まえながら、民学同の歴史に触れていきたいと思います。

 まず、簡単に項目別にいいますと、1番目には、戦後に「民主主義学生同盟」の結成とそれと関連する民主青年団の結成について触れたい、2番目には、1950年代の共産党の分裂とそれに関連する反戦学生同盟(AG)の誕生についてもふれたいと思います。そして3番目に、1955年、第2期反戦学生同盟の歴史があるわけですが、これは全学連の歴史の中で、「8中委9大会路線」として、非常に特徴的な戦後初期の全学連創成期の闘いと、ついで全学連の統一を勝ち取った非常に大きな学生運動の高揚をもたらしたわけです。この「8中委9大会路線」に関連する反戦学生同盟の過程について触れたいと思います。そして4番目に、60年安保を前後する民主青年同盟–民主青年同盟の中から民主主義学生同盟が生まれてくるわけですが—、民主青年同盟の中における内部闘争を経て、問題として上がってきたところの、共産主義学生同盟あるいは社会主義学生戦線といった諸政治組織あるいは青年同盟について触れていきたいと思います。そして5番目に63年の民主主義学生同盟結成に至る経過、といった項目について、順次触れていきたと思います。

それでは、戦後初期の「民主主義学生同盟」について最初に報告したいと思います。

<戦後初期の「民主主義学生同盟」の結成>

赤旗 第1号「人民に訴ふ」 1945-10-20

 私達が1963年に民主主義学生同盟を作った時には、戦後初期に「民主主義学生同盟」というものが存在していたことを全然知らなかったわけです。ただ偶然にこの名前が一致したわけですけれども、しかし具体的に我々がいろんな学生の戦線における闘いを経過していく中、戦後初期の「民主主義学生同盟」の非常に戦闘的で大衆的であったその歴史を知るにつけて、我々はこの伝統を引き継いでいくべきだと考えるわけです。
 1945年8月、日本帝国主義は、とりわけソ連を先頭とする社会主義世界体制の形成に至る反ファシズム統一戦線の中で、日本帝国主義のファシズム的侵略行為というものが敗戦するなか、1945年から1947年2.1、日本の労働者階級の圧倒的なストライキ・ゼネスト直前にいくまでの非常に大きく昂揚する運動の中で、日本の学生運動というものも、とりわけ民主勢力の中で大きな役割を果たしてきたわけです。学生戦線では1948年に、全日本学生自治会総連合が結成されるわけですが、それに至る経過として、まず1945年8月の敗戦以降、46年2月に「青年共産同盟」が結成されます。これは、各大学に支部・班がどんどん作られていくわけですけれど、まだまだ学生の中における闘いとしては、むしろ学生運動に対する過少評価的傾向をもっており、一般青年運動に解消するといった形で、「青年共産同盟」というのは大衆的組織として結成されるといったのではなく、学生運動とは別個の、むしろ思想運動的な意識改革的な教育的な組織として「青年共産同盟」は分散的な形で組織されていくわけです。
 ところが、それと並行して労働運動がどんどん高揚して日本においては戦前には労働組合運動は弾圧され少数化していたわけですけれども、敗戦以降非常に高まる労働運動の中において—まあ現在においても一定の弱点をもっているわけですけれども–企業別組合というのが、「雨後の筍」のごとくどんどん作られていくわけです。それが学生の中にも反映して、青年労働者の闘いと結合していこう、という形で高まりつつある時、47年の秋ごろから国立大学の授業料値上げ問題が出てくるわけです。それと同時に47年の2.1占領軍のストライキ弾圧を契機として、日本の敗戦した帝国主義の立て直しということで、独占資本へのテコ入れがアメリカ帝国主義によって行われ、これと相一致して、47年3月に大学理事会法案というものが、政府当局から発表されるわけです。
 この大学理事会法案というものは、高まりつつある学生の闘いを押さえつけるために、大学理事会というものを作って理事会の名の下に、国立大学を含めたすべての大学に独占資本の代表と言うものを参加させ、大学の管理運営を大学自身の自治に委ねるのではなく、独占資本の利益、今後の帝国主義的利益に役立つような方向で大学を再編していこうというものでした。アメリカ占領軍の弾圧と相呼応したものでした。
 これに対して、各大学において、自然発生的な形も含めて、大学理事会法案反対、授業料値上げ反対という闘いが非常に広範に盛り上がってくるわけです。その中で、東京の早稲田大学において、全員加盟制の自治会というのものが、日本で初めて結成されます。この全員加盟制自治会というものは、学生の根本的な生活の利益が一致すれば、全員が加盟することができるんだということを前提としてすべての学生を結集させる、労働組合で言えば組合員の全員加盟制の組織原則を勝ち取ったのと同じような対応をして、学生においては全員加盟制の学生自治会として勝ち取られていくわけです。これはヨーロッパなどにおいては、全て学生運動というのは、個人加盟の政治同盟を中心として運動が闘かわれているという経過が非常に多かったわけですけれども、日本においては、こういった授業料値上げ反対、大学理事会法案反対ということで、大学における自治の担い手、それは学生自身の組織としてつくりあげていこう、しかもそれは、全員加盟させていく組織として作り上げていこうということで、最初に早稲田大学において全員加盟制自治会が結成されることになります。
 これらの過程の中で、全国とりわけ東京を中心として全員加盟制自治会はどんどん広がっていくわけですが、48年8月に「民主主義学生同盟」第1回発起人会というものが開かれるわけです。

<1948年8月 民学同発起人会>
 これはまさに授業料値上げ反対闘争、大学理事会法案の粉砕ということで「民主主義学生同盟」の第1回発起人会が開かれるわけです。これは東京大学、早稲田大学、東京女子大学、津田塾大学他十数校が結集して次のような行動綱領草案を決定しているわけです。
 一つは、学生生活の安定、2番目には学問の自由擁護、3番目には軍国主義とファシズムの復活反対、4番目は民主主義の徹底、5番目は世界平和の確立と日本民族の完全独立、の5項目。これは当時の情勢を反映しているわけですけれども、この5項目の行動綱領草案を決定して急速に「民主主義学生同盟」というものが組織されていくわけです。
 これは、最盛期2万人の同盟員を結集していくわけです。当時の「民主主義学生同盟」に対して、日本共産党は、–今日の学生同盟や青年同盟の歴史の中では、しばしば日本共産党の問題について触れざるをえないわけですけれど–この当時「民主主義学生同盟」の指導に対してどのような態度をとっていたかを参考に触れておきます。
 当時「民主主義学生同盟」に対して、日本共産党は「当面する学生運動の方針について」という文書を出しています。その中では「民主主義学生同盟の全国結成大会により更に大きく拡大しようとしている、この同盟に対しては、細胞はその組織拡大を積極的に支持し、幅広い民主的民主的学生大衆組織に育てあげていくべきである。この際注意すべきは民学同の中に細胞活動を解消する誤りである。学生運動の発展と共に学生党員の理論的低さは大きな欠陥として現れつつある。組織的問題は闘争の一つとして重視しなければならない。次に学生細胞が政治的に党の機関として指導され組織していないために、民学同の組織が真に下から組織されるところによっては、反党的になり、細胞をダブって精鋭分子だけの組織になっている現状にある。これらの諸条件を急速に克服し、学生の当面する大学理事会法案反対、授業料闘争を組織して、その中で選挙を闘うことをしなければならない」と述べています。
 この文書自身については、基本的に民主主義学生同盟というものの大衆的な性格を堅持して、民主主義学生同盟と政党というものを明確に区別して大学法案反対や授業料値上げ反対の闘争を成功させようという基本的視点に立っていて、その事自身が、民主主義学生同盟が2万人に及ぶ同盟員の大衆化に貢献したのではないかと評価できるのではないでしょうか。
 ところが、この「民主主義学生同盟」というのは、結成されてそのように非常に大きな役割を果たして、48年9月、全学連の結成というものが、民主主義学生同盟の盛り上がる闘いの中で勝ち取られていったわけですけれども、全学連創成期の闘いについては、別の機会に譲って、政治同盟についてお話を続けたいと思います。

日本民青団中央団報「若き戦士」1952年1月

<1949年 民主主義学生同盟を青年運動に解消>

 「民主主義学生同盟」自身は、全学連の創成期に参加し、非常に大衆的に結集されたにも関わらず、その後の歴史の過程においては、民主青年団というものに合流していくわけです。その過程の中で、「民主主義学生同盟」というのは、発展的解消という名の下に、解消していきます。48年9月に全学連が結成されまして、48年11月に「民主主義学生同盟」全国結成大会を持ちます。その全国結成大会から49年の1月に至る過程で「民主主義学生同盟」は全国のあらゆる大学に組織されていくわけですけれども、49年1月段階になりまして、青年政治戦線統一懇談会というものが提起されます。これは青年の政治戦線を統一しようという名の下に、青年の様々な分野に組織されていた青年同盟あるいは学生同盟を統一させようという動きとして提起されます。その中に「民主主義学生同盟」も入っていたわけです。この中で、発展的解消の名の下に、戦後初期の「民主主義学生同盟」が解消されていきます。

 この青年政治戦線懇談会は、次のような政治同盟によって構成されていました。その一つは、青年共産同盟。その当時、大体5万人の同盟員を擁していたわけです。もう一つは、全日本民主青年同盟。これは1万5千人、そして「民主主義学生同盟」は2万人。この3つが中心になって、他に様々な団体を入れまして、約30団体が青年政治戦線統一懇談会に結集するわけです。そしてこれが、民主青年合同委員会というものを発足させます。そして49年3月には、日本民主青年団というものに発展させることが決定されます。
 これと同時に、これまで闘ってきた「民主主義学生同盟」というものは、発展的解消の名の下に、その独自の活動を停止するわけです。青年共産同盟は、「青年の旗」という機関紙を出しており、全日本民主青年同盟は「労働青年」という機関紙を、そして「民主主義学生同盟」は「学生戦線」という機関紙を発行していました。これらの機関紙を合同して、日本民主青年団の機関紙に統一するわけです。それが「日本民主青年新聞」という機関紙でした。
 ところが、この民主青年団自身の最終的結成というのは、歴史的にはずっと遅れていくわけです。実際上、統一を呼びかけ、統一されたならば数字だけでも合計すると8万人近くなる同盟員を擁するはずだったのですが、実際に、日本民主青年団が結成されると1500人ぐらいに減ってしまっています。統一を呼びかけながら事実上なぜそんな事態に押し込まれなければならなかったについては、順次触れていきたいと思いますが、とにかくその結果としては、学生戦線の中において非常に大きな役割を果たした「民主主義学生同盟」や労働青年の中において果たしていた日本民主青年同盟、あるいは一般青年大衆を結集していた青年共産同盟の同盟員自身が、統一の呼びかけの中で頭だけの呼びかけ決議に終わって、結集したときには、1500名になってしまったという実態が歴史的にある。
これは次に「反戦学生同盟」の歴史と若干だぶっていますので、次に反戦学生同盟の歴史に入っていきます。

<第1期反戦学生同盟の歴史>
 反戦学生同盟は、50年3月に結成が決議されます。50年には朝鮮戦争が始まるわけですが、アメリカ占領軍の弾圧が益々厳しくなり、アメリカ帝国主義はアジアにおける軍事干渉政策というものを非常に露骨に推し進めていくという経過の中、日本の民主運動を極めて露骨に弾圧してきました。例えばレッド・パージという形であらゆる労働組合活動の中において、共産党員あるいは共産主義思想をもっているということだけを基準にして、そういったものを労働組合から外していく、あるいは会社にいること自身を解雇権の乱用でもって首切りを行っていくという経過がずっと存在していくわけです。
 これと相前後して、共産党は50年分裂と言いますが、所感派、国際派という二つの派に分裂します。一方の所感派というのは、地下に潜行して極めて極左冒険主義的な活動形態を採用して、当時の共産党員は、山にこもって火炎瓶を製造して軍事根拠地を山中につくって、時々東京においては新宿などに出かけて火炎瓶事件を起こすといった活動形態が所感派によって進められます。国際派は、そういった党の誤りを正すために闘っていったわけですけれども、学生戦線は、そういった労働運動におけるレッド・パージで、共産主義者、あるいは民主的な進歩的な思想をもっている人達がパージされる中で、学生の中においては、イールズというアメリカの大学教授が来て、「共産主義分子は大学から追放せよ」といって、赤化教授は大学から追放すべきだという講演を次から次へと行っていく時期があるわけですが、そういう非常に反動的な、嵐のような時期に突入する時期に反戦学生同盟が結成されます。
 これは、50年3月に都道府県学連代表者会議で結成が決議される。この結成の決議のされ方自身に若干の問題があるわけですが、都道府県学連代表者会議というのは、あくまでも自治会連合の代表者による会議であり、そこで結成が決議されるわけです。そして反戦学生同盟の解散も、全学連5回大会だと思いますが、全日本学生自治会総連合会という自治会の組織において解散決議が行われます。結成も解散も自治会の決議で行われたわけで、その事自体に関しては若干不規則であり、組織的な原則を踏み外しているというように言えないわけではないですが、しかしながら、その内容に入っていきますと、これまで初期の「民主主義学生同盟」が担っていた伝統というものが、反戦学生同盟の中には、より広範により大衆的な形で引き継がれていくわけです。

 都道府県学連代表者会議で結成が決議されますと、50年11月に関西地方において、その連合会が結成されていくわけです。そして51年に正式に全国協議会が結成されていきます。
 反戦学生同盟というのは、次のような基本的な組織の特徴を明らかにしています。
一つは、学生運動というものを、青年運動一般に解消することなく、学生層全体の要求と利害、それに基づいた先進的役割を発揮するための組織だと自己規定するわけです。このことは、「民主主義学生同盟」が民主青年団に発展的解消と言う下に消滅していった事に対する反省として学生層の共通の利害、それに基づいて青年運動一般に学生運動の要求を解消するのではなく、それを担っていく組織として反戦学生同盟を結成するということ。
 2番目に、この反戦学生同盟は、学生自治会を内部から強化し、執行部と学生一般の間隔を埋めるべき組織である、と自己規定するわけです。3番目に、その組織を全国的な統一闘争に適合する単一の中央指導部と各大学支部を組織する民主集中制の組織である、という形で組織的性格を特徴付けるわけです。そしてそれに基づいて次のような4つの課題を掲げて反戦学生同盟は闘っていくわけです。
 一つは、学生に関するあらゆる問題、学問の自由と自治、学生の生活等の諸問題を反戦平和の観点からとりあげて行動に組織する、そしてそれを通じて学生戦線統一のために闘い、国際学連と全学連の権威と伝統を宣伝して闘っていく、第2に反戦学生同盟は労働青年と共同闘争をして、青年同盟や民主青年団のあいだに共同行動プランを決定して青年戦線統一の中核部隊として闘っていく、第3に、当時結成されておりました平和擁護委員会というものに積極的に参加して原水爆禁止運動をはじめとする平和擁護委員会の運動の推進力として戦っていく、第4に反戦学生同盟は自分達だけで集団を作って独立して行動するのではなく、同盟員は自治会、研究会、運動会、その他の学生諸団体、サークルの一員としてその中で活動し、全学生の統一と団結のために闘っていく。そういった4つの課題を掲げて反戦学生同盟が活動を開始するわけです。
 労働運動の中においては、共産主義者がレッド・パージで追い出されていく中、学生運動の、この反戦学生同盟を中心とする全学連の闘いによってイールズ講演というものを最初は東北大学において拒否して以降、次から次に全国的に、アメリカから派遣されてきた、レッド・パージを推進する役割を担ったCIAの派遣要員を大学から放逐していくわけです。そして、労働運動の中においては成功したけれど、学生の中においてはレッド・パージは全然進まないと言う状況を作りだすという学生運動の先進的な役割を担ったのが、この反戦学生同盟だったわけです。

<極左冒険主義の反戦学生同盟への持ち込み>
 ところが、この反戦学生同盟は、そのような中で非常に増えていくわけですけれど、先ほど言いました共産党の分裂と非常に極左的な民族主義的な課題を掲げた戦術というものが反戦学生同盟の活動の中に様々な形で持ち込まれていきます。反戦学生同盟自身は、最初出発した大衆的な学生の組織として自治会とは明確に区別されながら、しかし、自治会を支えながら、全学連の闘いを育てあげていくという任務を持ちながら別個な地域人民闘争、地域大学権力論あるいは中核自衛隊、そして火炎瓶闘争戦術といったものが、どんどん反戦学生同盟の内部にもちこまれて、熾烈な対立が反戦学生同盟内部に起こってくるわけです。その中で様々な問題が提起されてくるわけですけれども、これは現在の民主主義学生同盟の問題と非常に密接し関連していると思うわけですけれど、あるいはそれ以降の現代現れているところの新左翼諸派、いわゆるトロ諸派の戦術とまったく不可分の形として現れてきた誤りというものが、反戦学生同盟の内部における闘いとして展開されていくわけです。
 当時、反戦学生同盟の中における極左冒険主義的な戦術を非常に強調していた部隊というのは、どのようなことを反戦学生同盟の中にもちこんでいたかと申しますと、「現在の情勢は、朝鮮戦争を契機として、民族的な武装解放闘争の段階にある。青年はその先進的な役割を果たすべきであって反戦学生同盟といった名において、反戦平和と言う課題で運動していくような段階ではない。今や、民族解放武装闘争としての段階を大学の中においては、地域解放区、地域人民権力、合体した学校権力を奪取していく段階にある。そのようなことにを担う同盟に発展すべきである。反戦学生同盟のような自治会を中心にした運動ではなく、武装闘争を明確に位置付けた同盟に発展すべきだ。現在の指導部はそのようなものになっていない」ということを強調しました。そして反戦学生同盟に対して民主青年団から解散提案というものが行われるわけです。それは、51年末に「民主青年団より反戦学生同盟解体提案」が、反戦学生同盟の全国準備会総会の中で提案される、それが東京都の総会においてもそれが提案される、そして提案した人達が、反戦学生同盟から大量に脱退して、解散アピールを全国の学生に発していく。そして52年6月に全学連第5回大会が開かれ、この大会で当時右翼反対派と言われていた「反戦学生同盟反対派」が第5回大会で全学連の指導実権を握って、反戦学生同盟解散決議を強行してしまうわけです。
 この過程と言うのは、先ほど述べたように、反戦学生同盟の闘いに中で、レッド・パージ闘争を闘って、全学連の果たした非常に大きな役割というものを、地域人民権力の奪取とか、民族解放武装闘争という名の下に大衆的な政治同盟の成果を一部の誤った極左的な冒険主義に青年組織に解消させていくという誤りとしたどんどん進行していく、それが結局学生運動にマイナス要因として働いて、それ以降全学連が第1創成期と言われた48年結成から、49年、50年のレッド・パージ闘争に至る非常に大きな闘いの中で結成されてきた反戦学生同盟が、日本共産党の誤った指導に影響され同盟内の誤りを契機に、第1期反戦学生同盟がこのような経過の中で、解散・解消されていくわけです。

反戦学生同盟「反戦旗情報」   復刊2号 1957-12

<第2期反戦学生同盟の歴史>
 次は、反戦学生同盟の第2期に入っていきたいと思います。第2期というのは55年~56年にかかる段階ですが、先ほど言いましたように、学生運動における極左冒険主義というのは大学内における学生の闘いを組織するということではなく、大学内の精鋭分子を街頭に放り出していくという形で、極左冒険主義が現れてくるわけです。従って全学連というものが、本来学生自治会の総連合であるわけですから、学生自治会の闘いが組織されない限り、全学連の存在意義はないわけですね。しかも、その全学連と統一的な統一闘争が組織されているからこそ全学連の存在意義が非常に全国的に際立ったものとして形成されてきたわけです。ところが、反戦学生同盟は先ほど言いましたような経過から、同盟員をどんどん街頭に放り出していく、武装解放闘争という名の下に、大学内における闘いをすることは、何か日和見主義であるかのように捉えられ、大学外で闘うことが何か戦闘的で左翼的であるかのように語られ、そして学生運動というものが学生層全体を巻き込むような運動として提起されるのではなく、極めて政治主義的な、極めて街頭動員主義的な、そういう形で提起され、学生運動がこれ以降沈滞していくわけです。それが極左冒険主義と結びつくと余計に一層孤立して、非常に哀れな末路を辿っていくわけです。

 それで、共産党は、この過程のなかで分裂が一層深まって、もう組織力自身が非常に低下していきます。非公然下の中における活動というものが、大衆的な反撃でもって高揚に向かえないと言う状況の中、朝鮮戦争が終わって55年に、第6回全国協議会、6全協というものを開くわけです。ここで、これまでの極左冒険主義的な戦術を自己批判して、一転してこれまでの極左冒険主義的な戦術は誤っていたというわけです。ところが、これに動員された学生同盟員というものは、これまで正しいと信じていた極左冒険主義戦術が、大衆的な討議の中で是正・批判され、行動の統一の中で克服されていったのではないがために、非常に大きな挫折感というものが学生の中に蔓延して、この頃のことを取り上げた小説がたくさんありますが、非常にニヒルな思想が蔓延していくわけですね。しかしながら、6全協自身を契機にして、共産党が統一を回復して、新しく大衆的な運動に取り組む一つの契機になるわけです。

<「7中委8回大会路線」から、「8中委9大会路線」への転換 >
 学生の中においては、この55年の6全協が開かれた2か月後に、全学連の第7回中央委、8回大会7中委路線と言われるわけですが、この全学連7中委では、これまでの方針と一転してかわって、自治会はサービス機関だということを定式化するわけです。これは所謂自治会サービス機関論と言いまして、例えば自治会室には、学生服のボタンがとれた時には、糸がいるだろう。だから、針と糸をおいておけとか、自治会が主催して麻雀大会を成功させる、あるいは野球大会を成功させる、これは偉大な行動の統一である、という風なこれまで全く大学の中から活動家を外に放り出して、極左冒険主義的な火炎瓶戦術に学生を動員していたのとは、打って変わって、同じ指導部によって自治会サービス機関の名の下に、まったくの右翼日和見主義的な戦線・戦術に転換していくわけです。
ところが、55年末から56年にかけて再び国立大学授業料値上げが提起されてくるわけです。これに対して、自治会サービス機関論なんかではとても太刀打ちできない。こんな闘い方をしていたんでは、全学連自身が機能を発揮できない、ということの中から、56年4月に全学連第8回中央委員会が開かれます。ここで、7中委路線というものを全面的に撤回して、そして56年6月全学連第9回大会を開いて新しい執行部を選出し、これが8中委9大会路線と言われるわけですけれども、これまで最初の民主主義学生同盟の歴史のところで述べた全学連の結成というものを契機にした非常に大きな全日本学生自治会総連合の闘いが第1期であるとするならば、第2期の全学連の結成は、56年6月の9回大会であると言われるくらいに、第2の全学連結成大会として開かれるわけです。ここで、8中委9大会路線として、所謂「層としての学生運動論」が、ここで定式化されます。それは、すでに学生運動関係の書物を皆さんは読んでおられたら、よく出てくることで、省略したいと思いますけれど、7中委路線で出されておった自治会サービス機関論を克服し、学生層の共通の要求、共通の政治的経済的利害、政治的であろうと経済的であろうと、共通の要求と利害に基づいて全国的な統一闘争を全学連は指導することができるし、正しい政策、正しいスローガンを提起するならば、学生も層全体として、全員加盟制自治会を基盤として、学生運動の統一を成し遂げることができる、そしてその闘いの下において、授業料値上げを阻止するための全国闘争を組もうではないか、ということが提起されるわけです。
 これは、圧倒的な全国の学生自治会の再建と統一の前進に大きな盾となって、全学連の第2期の強力な闘いが展開されていきます。この第9回大会の中で反戦学生同盟との交友関係回復の決議というものが可決されるわけです。先ほど言いましたように、第1期反戦学生同盟というのは、第5回大会で解散決議が行われて消滅していくわけですけれど、この第2の全学連結成大会とも言われる第9回大会において、反戦学生同盟との友好関係回復の決議ということで、反戦学生同盟の再組織化が行われていきます。
 この56年の9回大会の後に、56年11月反戦学生同盟の第1回全国大会が開かれます。この時には22大学約1000名の同盟員を擁して、第2期反戦学生同盟の全国大会となります。この第2期反戦学生同盟というのは、第2の全学連と言われる「8中委9大会路線」の推進役となって、当時の全学連が果敢に闘っていた授業料値上げ闘争、東京立川にあります砂川基地反対闘争があります。砂川闘争は基地動員闘争としては、これまでの日本の反戦平和運動の中では特筆されるべき非常に大衆的性格をもった、基地への泊まり込み闘争というのが、全学連の全国動員を成功させながら、砂川闘争が全国的に大きく取り上げられていくわけですが、その中心的な部隊をになったのが、この反戦学生同盟であったあけです。この砂川闘争、それからクリスマス島の水爆実験反対闘争、それを契機とした原水爆禁止運動というものに、この反戦学生同盟というものが非常に先進的な役割をかってでて、「8中委9大会路線」を支える、第2の全学連の闘いを支える非常に大きな役割を担っていくわけです。
 これは、そういう経過の中で非常に増えてきまして、57年の5月段階では、反戦学生同盟第2回全国大会が開かれるわけですが、102大学に支部が組織されています。

社学同理論誌「理論戦線」1号 1958年9月

<学生運動の転換論>
 問題は、第2期反戦学生同盟の中から、所謂学生運動における転換論というのが語られるわけです。転換路線と言うのは最終的に確認されたのは58年ですが、56年の9回大会の中で学生の層としての学生運動における学生の先進的役割というものが極度に強調されていく中で転換路線というものが語られてきます。すなわちそれは、「8中委9大会路線」当時においては、学生戦線は民主勢力の一翼として学生運動は積極的な役割を果たすことができるし、果たさなければならない、と言うテーゼであったわけです。ところが、学生同盟自身の発展、全学連の闘いの高揚、それに比すところの他の労働者階級の闘いの立ち遅れというものを目の当たりに見る中で、逆に学生運動こそがあらゆる民主平和運動の先駆的役割を果たさなければならない、と言う考え方に転換していくわけです。これは学生運動先駆性論といわれるわけですけれど、学生運動というものを民主勢力の中における統一的な闘いの構成部分とするところから一歩進んで先駆的役割を果たすことが学生運動の役割である、それを果たさないようなものは、学生運動として認めない、といったような形で語られていくような経過が存在するわけです。これは、反戦学生同盟にもそのまま反映していくわけです。この転換路線というのは、58年9月全学連臨時12回大会において最終的に確認されていきますが、この直前に反戦学生同盟は第4回大会を開くわけです。この反戦学生同盟第4回大会というのは、5月25日に開かれたわけですが、5月27日に第1回社会主義学生同盟全国大会というものに発展的解消という形で、第2期反戦学生同盟は発展的解消という名の下に「社学同」に変わっていくわけです。

 これは、それ以降、ブントと言われ、現在いろんな形で分裂しておってどれがどうと言えないわけですが、社会主義学生同盟として、60年安保闘争、あるいはそれ以降の民学同結成の過程においても、一定の統一行動を進めてきた部隊ではあるわけですけど、・・・この社学同への転換というのは、学生運動における転換路線、先駆性理論と密接に結びついていいるわけですが、政治同盟としての反戦学生同盟自身の論理からいくならば、それだけではなく、反戦学生同盟というのは、反戦平和擁護闘争というものを基本的結集の基軸として、先ほど言った基準に基づいて結成されていたわけですけれど、これではもはやあきたらない、今や社会主義を語ることこそ、社会主義のために学生を結集することこそが、必要になってきた、これは学生先駆性論転換路線と密接に結びついていいるわけですが、政治同盟自身の独自的論理からいうならば、社会主義を掲げた政治同盟でなければならない、反戦学生同盟はそのようなものに発展的解消すべき時期にきている・・・・・(テープ交換)

最も大衆的であり、それが要請されているところの戦線の重要な課題として、民主主義学生同盟が出てくるわけですが、現在デモクラート派諸君によって語られている言葉によれば、「不況と表現するのは日和見主義で、恐慌というのが戦闘的である」あるいは「反独占民主主義だけではだめだ、恐慌には社会主義を対置すべきで、同時に語らなければならない」「恐慌の解決の道、恐慌からの脱出の道は社会主義以外にないんだ」と言った形で語られていることと、同じような共通の認識が、この当時の反戦学生同盟の同盟員の中において、それを有効に闘い得る部隊が存在しなかったいうことを前提にする必要があるわけですけれど、反戦学生同盟が社会主義学生同盟に発展的に解消される路線転換というものの反映であるわけです。これはすぐさま、社会主義学生同盟というのは、既成政党の超克、あるいはソ連を先頭とする社会主義諸国の平和擁護政策、続いて平和共存政策そのものに対する懐疑主義的な雰囲気を醸成していきます。それの対するアンチとして実力的な武装抵抗闘争を軸とした、意識的な改革というものが次から次へ誤った形で転換されていく、形成されていく非常に大きな契機になる。このことをもって反戦学生同盟は、58年の社会主義学生同盟への転換というのものを契機として消滅していきます。これ以降、社会主義学生同盟、ブントというものは、いよいよ極左化して、60年安保闘争の時期に移っていくわけです。
 前後しますが、次に最初に述べました初期の民主主義学生同盟が民主青年団に発展的解消していった、その後の民主青年団というものが、どのようになったかという次のところに移ります。

<民主青年団のその後>
 最初に述べましたように、日本民主青年団というのは、民主主義学生同盟や全日本青年同盟、共産青年同盟を中心として「統一組織」として結成されるわけですが、日本民主青年団の結成そのものは、1951年です。当時は、非合法で組織されるわけですが、この当時の組織人員が1500名に減退していたわけです。この後日本民主青年団は日本共産党の所感派と言われる人達の誤った軍事方針的な極左冒険主義的な指導の下、軍事方針の実践部隊としてますますその存在意義を薄めていく中、極左的な行動の犠牲にされていきます。それは混乱と脱落、崩壊の直前まで進んでいってしまう。1955年7月、日本共産党は6全協というものを開催し、極左冒険主義を自己批判するとともに、日本共産党は翌56年に青年運動への取組、方針案というものを再提起するわけです。そこで、日本民主青年団は、6全協後、1956年11月に団の名称を日本民主青年同盟というものに替えるわけです。そして日本民主青年同盟は、綱領的要求として、民族解放民主政府の樹立、独立平和民主主義日本の実現を闘う組織だというふうに規約を改正して民青の沈滞を打ち破って闘いを進めていくという再組織化に日本民主青年同盟は入るわけです。この当時6全協直後というのは、日本民主青年同盟というのはほとんど解体状況で、ごく一部の少数の部隊によってしか担われていなかった。従って学生運動においては全く影響力をもっていない。日本民主青年同盟というのは学生運動の中において民青という形で、それなりの影響力を持ち始めたのは安保闘争以降です。それまでは、反戦学生同盟が、6全協以降においては第2期反戦学生同盟が担ってきていたし、60年安保闘争においては全学連を軸にした闘いの中で、一方は反戦学生同盟が発展解消した社学同であったわけですけれど、それの反対派としての60年安保闘争当時においては、全自連(全自治会連絡会議)に結集した部隊として、のちに共産主義学生同盟の結成をする人達に担われていました。

<平和共存路線の否定へ、日本共産党の民族主義>
 この民主青年同盟というのは、影響力に関しては学生戦線の中においては、非常に微々たるもので大したものではなかった。しかし、それは青年運動自身の中においては、学生戦線とは別個に組織化が進んでいきます。56年に民主青年団は、民主青年同盟と名前を改めて青年同盟としての活動を開始するわけですけれど、58年7月に日本共産党第7回大会が開かれて、その中で民主青年同盟の拡大強化が積極的にうたわれることになります。その7回大会後、日本民主青年同盟の第6回大会を開くわけですが、ここで当時の民主青年同盟は6大会から7回大会を経て、急速に拡大強化していきます。そこでは民青の6回大会は1960年の安保闘争の最中に開かれるわけですが、6回大会においては、同盟の基本性格を次の3つに規定しています。一つは、民主青年同盟は労働者階級の立場に立って人民の民主的課題のために闘う青年の全国的大衆組織である。2番目は、同盟は青年統一戦線の中核である。3番目に同盟の基本的任務の一つは、マルクスレーニン主義を学ぶことにある、とこの3つの基本性格を民青第6回大会で明らかにして、そして主要な任務として平和共存と完全軍縮の路線というものを6回大会から7回大会の過程において大会決定として確立していきます。それで、民主主義学生同盟の歴史に入っていく一つの重要な問題は、私自身も民主青年同盟の同盟員であったわけですが、この6回大会から7回大会において、とりわけ7回大会の過程で—61年7回大会が開かれれます—民族独立という課題はもちろん入っていたけれど、それと並行しながら、平和共存完全軍縮のための闘いの重要性、それは当時57年に世界の共産党81カ国の共産党の宣言、60年の同じ共産党の声明、81宣言・声明という路線の中で現れされた平和共存路線が民主青年同盟の中にある程度正しい形で反映されていた時期があったわけです。これは、当時国際共産主義運動が資本主義の全般的危機の深まる中で、平和共存路線を国際的な階級闘争の一つの形態として重要な闘いの形態として平和共存路線を正しく押し進めていくことの必要性を81声明宣言の中でうたっているわけですけれど、この積極的な側面というものが青年同盟の中に6回大会・7回大会を経る中で一定程度定着する。それがそれなりに青年同盟の大衆運動の非常に大きなバネとなって青年同盟が増えていく、という経過が存在するわけです。しかし、1961年日本共産党の8回大会によって平和共存路線をゆがめだし、62年~63年決定的には64年以降、その民族主義的色彩が、その平和共存路線を否定する中国派、中国共産党の毛沢東的な方向と合体していく。それに益々傾斜していくという傾向の中で民青の8回大会、62年の、その過程で否定されていく路線が、民青6回大会、7回大会で確認されていた平和共存完全軍縮をめざす戦い重要性と言う日本民主青年同盟の路線であったわけです。

民学同第1回大会 1963-09

<民主主義学生同盟結成へ>

 そして、この民主青年同盟内部における闘い、あるいは日本共産党のこのような誤りに、内部で闘っている人達の努力の中で、まさに民主主義学生同盟というものが結成されていく過程に移っていきます。
 民青の闘いというのは60年安保闘争においては、先ほど言いましたように民主青年同盟自身として闘うということは、労働青年段階においてはあったわけですけれど、学生運動段階においては非常にごく少数で民主青年同盟に入っている形で安保闘争に参加したり、あるいは安保闘争以降の学生戦線の分裂の中で、それ以降の大管法闘争に積極的に参加し、政暴法闘争とか、大衆的に担っていくという同盟ではなかったわけです。にも関わらず、先ほど言いましたように6回大会、7回大会で確認されていた路線の大衆的性格といったものが体現していたものが、60年の安保闘争の社学同や、社学同から分裂しその後合体した所謂革命的マルクス主義学生同盟(革マル派)なんかの全学連の16回大会、17回大会に至る過程でますます極左的な路線を深めていった人達と区別する内部の闘争というものが、学生戦線の中においても民主青年同盟を結成していこうという形で徐々に反映していくわけです。従って、民青が学生戦線の中に登場しだしてくるのは、これまで言いました経過の中から言うならば、基本的には7回大会以降になってくるわけです。すなわち安保闘争後の1961年62年63年になって初めて、民主青年同盟というものが学生戦線の中に登場してくる。
 そこで若干だぶりましたが、いよいよ民主主義学生同盟の結成というところに移っていきたいと思います。

 民主青年同盟は、6回大会7回大会においては、平和と平和共存、完全軍縮の闘いというものを、はっきりと掲げながら運動を展開していたわけですけれども、一方、この7回大会路線は、民青は63年の4月に第8回大会を開く過程において、日本共産党の民族主義的な偏向とまったく軌を一にして、日本民主青年同盟内部において極めて民族主義的な路線が持ち込まれてくるわけです。それは、平和と平和共存の闘いを何か日和見主義であるかのように唱えだし、アメリカ帝国主義反対ということをあらゆる形において明らかにする。当時、原水爆禁止運動の中においても、敵を明らかにする理論が必要だということが語られだしたわけです。具体的な平和共存のための闘いを述べるのではなく、アメリカ帝国主義反対ということを空念仏のように掲げだす。そして事実上日本がますます帝国主義的な復活をすすめ、アメリカ帝国主義の戦争政策に密接に加担し、むしろ安保条約の改定以後、日本独占資本主義の独自的な冷戦、戦争挑発的な政策というものを批判することなく、従って原水爆禁止運動においても、平和と平和共存の闘いでも何か反アメリカ帝国主義闘争に歪曲することが戦闘的でもあるかのように語られていく雰囲気が民主青年同盟の中においても進んでくるわけです。
このような傾向に対して闘っている人達というのは、非常にたくさんいたわけです。当時の7回大会で選ばれていた書記長自身がそうであったし、民青同盟の中央委員や中央委員会の常任委員の多くの人達は、7回大会や6回大会で確認されていた路線を断固堅持しようとしていたわけです。ところが、共産党の民族主義的な誤り、それは段々と議会主義的な誤りに密接につながっていくわけですけれど、当時は中国共産党の毛沢東派的な、表面上「戦闘的」なものに移行していく過程の中、民主青年同盟内部においても、非常に激烈な闘いが展開していきます。それは学生戦線の中においては、東京教育大学を中心とした人達によって担われる「共産主義青年同盟」というものに体現される人達であるわけです。共青を結成する人達は、6回大会や7回大会で確認されていた平和共存路線、さらにはそれをもっと進めて世界の共産主義運動の中で、その路線として確認されてきているところの「81声明宣言」に体現された平和共存路線、国際的な階級闘争の一つの重要な形態である平和と平和擁護の闘いというものを定式化して、更に日本の独占資本に対する闘いというものを明確にした青年同盟をつくっていくべきである、そしてそれは現在の日本民主青年同盟では克服できない、という人達によって共産主義青年同盟に移行するという過程があるわけです。

<関西3府県学連、関東の共青結成、その違い>

民学同結成直後のビラ 1963-09-19

 民主主義学生同盟を結成する人達というのは、大阪を中心にして闘ってきていたわけですけれど、その人達と、共青を担っていた人達との重要な違いは、60年安保闘争以降、安保条約が強行採決されて自然成立するという状況の中で、トロ諸派はどんどん壊滅状態に陥っていくわけですね。61年以降、学生運動は、全自連と「全学連」に分裂していきます。61年以降は、各都道府県学連というのは、次から次へ解体していくわけです。解体していく過程の中で民主青年同盟の内部における闘争もあったわけですけれども、関西と関東における非常な違いというものは、関西においては、全学連が60年安保闘争以降どんどん解体していくにも関わらず、関西3府県学連、一つは大阪府学連、一つは京都府学連、そしてもう一つは兵庫県学連、この3つの府県学連だけは全国で唯一学生自治会の態をなしていて統一行動をなしうる機関として残っていったわけですね。61年以降の闘争というのは、この3府県学連、関西の3府県学連の闘争によってすべて端緒が切り拓かれていくという闘争形態になっていくわけです、学生運動においては、東京においては都学連が壊滅し、都学連自身の行動が行われていないという状況の中、先ほど言った東京教育大学を中心とした共青を結集する部隊が存在していたわけです。関西においては、61年以降も3府県学連は「政治的暴力行為防止法案」という60年安保以前に出されて「警職法」と非常によく似た反動的な弾圧立法を60年安保直後に政府独占資本は民主勢力の後退に付け込んで強行しようとしたわけですね。けれども、それに対する反対闘争、これはまあ関西3府県学連が全国の大学に激を飛ばして闘いを進めるわけですけれども、関西3府県学連は統一行動で強固な大衆的な反撃を行うわけです。そしてもっとも大きな反撃を関西3府県学連が行ったのが、大学管理法案です。大学理事会法案というのが、戦後すぐさま出されて、これは戦後結成された第1期全学連がそれを廃案に追い込むわけですけれど、そのあとすぐ、大学関係の法案というのが、その後第2期全学連の時に出てきた大学理事会法案、これも廃案に追い込まれるわけですが、その次が大学管理法案として、61年63年と3年にわたって大学管理法案反対闘争というのが、非常に大きく盛り上がるわけです。これも、実は関西3府県学連、とりわけ大阪府学連が圧倒的なストライキを背景にした全国の統一行動への呼びかけによって成功していくわけです。
 この大学管理法案反対闘争の中で、初めて東京都においても、大学管理法案に対する統一行動が、都学連の準備段階を作っていこうという意識を一定程度反映しながら、進められます。この大学管理法案反対闘争の過程の中において、一方において民青同盟内における誤った民族主義的な闘争方針、平和共存否定論、こういったものに対する同盟内部闘争が行われていたわけです。
 そこで、後に民主主義学生同盟を担った人達というのは、一方においては3府県学連の統一行動を成功させながら、これを関西3府県学連の統一行動から全国的な統一行動の母体として大管法反対全自代、全国自治会代表者会議というものを開いて、その中から、大管法自治会共闘会議、その具体的な課題においる統一行動を進めるための統一的な共同行動機関をつくりあげよう、そしてそれを契機にして学生運動の統一をかちとって行こう、といういうことを非常に重要な闘争課題として掲げていたわけです。従って民主青年同盟内部における闘争というものも、このような課題と密接に関連させながら、そして大衆運動と密接に関連して常に闘争を進めていたわけです。

<共産主義青年同盟結成と矛盾>
 ところが、このような闘いとは別個の形で進んでいた民主青年同盟内における東京の、後に共青を結成していく人達の闘いというのは、抽象的な平和共存路線擁護の、それ自身は非常に積極的な側面をもっていたわけですけれども、同盟内における闘争を放棄したまま、別個な形で共産主義青年同盟を結成していくという過程が存在していたわけです。それは、1961年9月に青年学生運動革新会議というものがつくられ、ここで青年学生運動革新会議の呼びかけということで、1962年に共産主義青年同盟東京準備会がつくられます。
 ここで次のような方針を出すわけです。一つは共産主義青年同盟というものを提起する。それは第1に共産主義運動の一環であるという前提を明確にすることが最も重要である。そのようなマルクスレーニン主義の諸原則に立脚することを放棄しては一切の運動は組織できない、と言う事を第1に掲げるわけです。第2に、しかしながら、共産主義青年同盟は—これは非常に自己矛盾なんですが—ほとんどの場合、共産主義について全く知らないか、ややぼんやり知っていても実際の行動の中でしっかりとした信念にまで固まっていない青年が対象である、というわけですね。このような考え方の下で共青というのものを組織したのかどうか非常に疑問なわけですけれど、出発当初から。一切の運動はマルクスレーニン主義の諸原則に立脚していない限り、運動は組織できない、従って共産主義青年同盟は共産主義運動の一環である、とまず自己を規定して、しかし共産主義青年同盟というのは大衆的青年同盟であるから共産主義については、またく知らないか、ややぼんやりしている同盟員が対象であるという自己規定の中から出発して、まず準備会から結成されるわけです。そしてそれはすぐさま、東京の教育大学において準備会から正式に発足して一大学からまず出発していくわけです。東京都においては、東京理科大学、法政大学、慶応義塾大学等々の中に、それなりの大衆的な基盤を持ちながら、共産主義青年同盟というのものは結成されていきます。それは民主青年同盟の内部闘争を経ながら、それなりの運動を経過していたということもあるわけです。にも関わらず、先ほど言いましたように大管法反対闘争や、それを相前後する大衆的な闘争においては、指導的な役割を担うことができず、大阪の地において、我々民主主義学生同盟に結集する人達が、全国的な学生戦線の統一の先進的なイニシアティブを発揮していたものに対して、常に否定的な態度で学生戦線の統一よりも、そんなことより共産主義青年同盟結成の方が大事だ、共産主義青年同盟の旗の下に完全軍縮のゼミナール活動をやろうという風な運動形態に、せっかく同盟内において、6回大会や7回大会で確認された路線を擁護しようとしていた人達が、学生運動という非常に大衆的な形で展開されなければならない課題を不明確にしたまま抽象的な諸原理、その教育宣伝活動というものに、同盟活動を矮小化していくという経過の中、その共産主義青年同盟が結成されていきます。これに関しては大阪において、大阪学芸大学において、当時共産主義青年同盟の活動が展開される一時期があったわけです。私達は大阪の地において、今そのような形で語られることは誤りではないか、第1に組織原則自身が非常に不明確であるし、そのような形で結集することによって第1に掲げていた共産主義運動の一環であるということ自身が自己矛盾を起こす、そのようなものによって自己をセクト的に自己区別することによっては大衆的な性格をもつことはできないし、ましてやそれと矛盾するような、ぼんやりしたまだわかっていない人達を無理やり共産主義青年同盟に結集したって、実際の大衆運動に有効な役割を果しえない。それよりむしろ現在の学生戦線の中において、非常に重要な役割を果たしている3府県学連の統一行動というものを、関西学連の結成から、全国的な学生自治会総連合へ、再度の第3の全学連結成にいたるような課題を明らかにして、それを指導的に担いうるような大衆的な政治同盟こそ結成すべきではないか。それが、現在の民主青年同盟の内部における民族主義的な誤りや、あるいは青年同盟とは別個に存在し、反戦学生同盟が社学同に転換し、社学同がいろいろな形でブンドや革マル派や中核派へと分裂していった極左派、新左翼派がとっている路線を我々が遂行する事ではなく、平和共存・反独占民主主義・学生戦線の統一を明確に掲げた、そういう学生の政治同盟を結集することによって、現在の学生運動の統一を勝ち取っていく母体をつくりあげていこう、そういう努力が必要ではないかという統一の呼びかけを、共産主義学生同盟の人達や共産主義青年同盟の人達に何度も呼びかけて、それを担いうる単一学生同盟の結成の呼びかけというものを、民主主義学生同盟に結集していた、しようとしていた人達が統一の努力を行っていきます。

 私たちは常に共産主義青年同盟の人達とは共同行動を行い、統一闘争を行うことを第1義的に重要視していたわけです。そしてそれは、関西3府県学連の統一行動を東京都学連段階で成功させるために、是非とも東京都学連の再建、そして全国的な学生戦線の統一、そして当時ようやく再建されつつあった九州学連、これは当時社会主義協会派の諸君によって再建されていたわけですけれど、九州学連、関西3府県学連、そして東京都における都学連の再建準備、というものを密接にからんだ、そういうことを担いうる、正しい意味での平和と平和共存、反独占民主主義の路線を担いうる政治同盟の結集のための呼びかけを発しながら、民青内部における闘争を行っていたわけです。民青内部における闘争は、そういう人達と相協力しながら行っていたにも関わらず、共青の人達が一方的に次から次へと自ら民青同盟からの脱退声明を出して、同盟内闘争を放棄したまま共産主義青年同盟を結成していく。従って大阪においても、共産主義青年同盟というのが、同盟内闘争を放棄した形で結成されていきます。我々はやむを得ず単一学生同盟結成を前提にしながら、そういう人達の努力をも、是非とも作られるべき単一学生同盟に結集させていく努力の第1歩として、大阪の地において、民主主義学生同盟の結成に踏み切るわけです。
 それは具体的に言えば、63年の最初に民青同盟内の闘争というものが共青あるいは後のフロントと呼ばれる社会主義学生戦線の人達がどんどん民青内部の隊列から脱落していく中で、私達だけが大阪の地において、同盟内闘争を展開し、非常に大きな多数派を形成していたわけですけれど、それが民青の8回大会の規約改正によって本来同盟員の処分というのは、基礎組織で決定されるという規定でしたが、8回大会の決定によって、1級上の上級機関が必要と認めたら、誰でも処分できるようになったわけです。それで私達も直接名指しでどんどん除名されていき、同盟内における正しい内部闘争ができないという、同盟内闘争自身が極限されたような状態に立ち至ります。事ここに極めりですね。同盟内における正しい闘争というものを受け継ぎ、しかも学生戦線の分裂をもたらすことなく、大阪府学連や兵庫県学連、京都府学連の隊列を防衛しながら、進めていける形態を求めて、そして民主主義学生同盟というものを、この同じ年の1963年9月に結成していくわけです。

 1963年9月に民主主義学生同盟が結成されるわけですが、このような過程を経ており、平和と平和共存の闘いの重要性を第1義的に明らかにし、第2に反独占民主主義闘争の果たすべき役割、その中での学生戦線の果たす役割というものを明らかにして統一戦線の立場を明確にした学生の政治同盟として結集していくわけです。
 その第1回の大会においては、本来民主的青年の結集母体とその統一の役割を担うべき青年同盟である民主青年同盟は・・といった言い方をしておりますけれども、それは当時の状況というものをよく反映しているわけです。民主青年同盟内部における闘争を契機にして民主主義学生同盟に結集した人達は大阪だけではなく、京都大学、岡山大学や東京においては理科大学や中央大学、教育大学において民学同は結成されていくわけですけれども、それらの多くの人達は民主青年同盟内部における闘争を執拗に提起しながら、決して自ら内部闘争を放棄するような形ではなく、その内部闘争を継続するという形で、しかも学内の大衆的な高揚を担いながら運動を進めていくという形の中で民主主義学生同盟が結成されたわけです。
 結成された民主主義学生同盟は、すぐさま、大阪においては大阪学芸大学の共産主義青年同盟の人達と一緒になって、単一学生同盟結成の呼びかけを行うわけです。

共青・民学同「単一学生同盟のための全国代表者会議の声明」1965-3

 これは、1965年3月に、大阪段階から共産主義青年同盟東京都学生委員会、それから共青大阪府学生委員会、それから民主主義学生同盟全国委員会という3つの団体の呼びかけによって、単一学生同盟結成のための全国代表者会議というものが民主主義学生同盟が積極的に呼びかけ、学生同盟としての、平和と平和共存、反独占民主主義、学生戦線の統一という、この3つの基本路線を明らかにした単一学生同盟結成を結成しようという統一の呼びかけを行うわけです。実は、それ以降、共産主義青年同盟というのは事実上学生戦線の中において急速に影響力を失って勢力が分散、うさん霧消状態になっていきます。従って我々民主主義学生同盟としては、民主主義学生同盟が呼び掛けた単一学生同盟の路線をあくまでも堅持しながら、全国的な学生戦線の統一の役割を中心的に担っていく政治同盟の必要性を堅持していく必要性から民主主義学生同盟の大衆的な隊列を防衛してそれ以降も運動を進めていったわけです。
 この間ですね、共青や社会主義学生戦線の=フロントといった人達とも、論争は様々な問題で、組織問題や政治路線やそれ以降の運動の統一の方針等々めぐって意見の相違が克服できないまま、一方における共青の人達やフロントの人達が影響力を失っていく過程の中、民主主義学生同盟は現在に至るまで続いているわけです。共青は先ほど言ったような形になりましたが、社会主義学生戦線についてちょっと説明しておきます。共青を結成しようと呼びかけた青年学生運動革新会議の中から分裂してできた組織であるわけですが、これは当時では法政大学とか関西では立命館大学等々において結成されたわけですけれども、後にプロ学同に合流する人達、プロ学同とは別個な形であくまでも統一社会主義同盟が現在も存続していますが、それに継続していく人達など、当時以降、学生戦線の中においては、大きな役割を果たすことができないまま経過していったことは共青と同じです。
民主主義学生同盟は、第1回大会以後、すぐさま大管法全自代や、それ以降のアメリカ原潜寄港反対闘争や日韓条約反対闘争等々の過程の中で、さらに学生戦線の統一の方針として、原潜日韓学生自治会共闘会議というものを提起して関西3府県学連の統一行動を軸にして全国の学生運動の統一の視点を失うことなく闘いを進めていったわけです。

<平民学連から統一派が民学同に結集>
 民主青年同盟内部における闘争のそれ以降の事態の一つは民主青年同盟が平民学連方式というものを学生戦線の中にもちこんだことです。平民学連方式というものは、平和と民主主義をめざす学生自治会連合というわけですけれど、これは個人加盟できる、サークルでも加盟できるといった非常に曖昧な組織を呼び掛けて、学生自治会の中に、別個の第2自治会を結成していく。大阪では大阪府学連や兵庫県学連、京都府学連の中に、平民学連というい別個の組織をつくっていくという誤った組織方針をとっていく。それに対する闘いを契機にしながら、民主主義学生同盟の路線がどんどん勝利を重ねていく中で、平民学連方式をとっていた人達の中から、一つは京都大学、中央大学など、これではいけない、こういう学生戦線を分断するような路線を取っていることは間違いだとして、自己批判して民主主義学生同盟に結集さうる、こういう時期に、民主主義学生同盟第4回大会で現在の結成趣意規約が確立します。1965年の3月第4回大会を開いて、平民学連方式と決別した人達が民主主義学生同盟に結集してくる。63年に大阪で誕生した民主主義学生同盟でしたが、65年に至ってこのような経過から全国化する方針をうちだし、4回大会以降は全国的な学生の政治同盟としての役割を担うことになります。

<3度の分裂の経過>
 これからは、政治路線として重要なところに入ります。民主主義学生同盟が2度の重要な試練を受けるわけです。その一つは、プロレタリア学生同盟という人達に代表される民主主義学生同盟からの脱落、そして続いて3年くらい前になると思いますが、学生共闘派諸君との分裂、そして今回の、これは3度になったわけですけれども、デモクラート派諸君との分裂ということになっているわけです。これは先ほどから言いましたように、戦後の学生運動において常に強調し、闘いを継続してきて守ってきた原則、それは大衆的な学生の要求に基づいた政治同盟の存在意義、というものを瞳のように大切にしながら、統一戦線の思想というものを断固として守りながら、そして現在もっとも重要な平和と平和共存のための闘い、反独占民主主義の重要性というものを、今後資本主義の全般的危機が益々深まってくる中で、より一層その政策の重要さとそれに基づいた闘いが要請されている現在の事態に対応した政治同盟のさらなる発展をめざすという時期に非常に重要なこの政治路線への疑問として民主主義学生同盟は試練に直面してきました。
 プロ学同というのは、動乱的平和共存というものを主張しだして、これまでの平和と平和共存路線というのは積極的ではない、何か階級協調主義的である。これから進められるべきものは、世界情勢の動乱に呼応した動乱型平和共存である、といったことを強調しだして、最初は平和共存を何か擁護するように語りながら、順次もうすでに平和共存路線自身を全く否定する存在になっておりますけれど、当時は平和共存路線にたいする疑問として、また反独占民主主義擁護闘争に対する疑問として語られていく過程の中で、民主主義学生同盟の隊列から分裂していく。
 学生共闘派の時は、常に存在している資本主義の危機、これは上層の危機であり、上層の危機、下層の危機は常に存在していると。しかし、下層の危機から上層の危機に至る、下層から上層への上向的転換がない。すなわち攻勢的転換の闘争理論が民主主義学生同盟の採用すべき路線である、といった形で、これまた平和共存路線と反独占民主主義闘争の大衆性とそれに基づく粘り強い闘いというものを否定して、主体形成論的な誤った闘争形態を採用していくという形で、基本的な政治路線に対する疑問を提出してくる・・
今回の、デモクラート派諸君も・・・・・

(テープ切れ)

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