【書評】『教育再定義への試み』

【書評】『教育再定義への試み』
        (鶴見俊輔、岩波書店、1999.10.25.発行、1,700円)

 これまで幾多の論争と宣伝がなされ、現在においてもなされ続けている教育論の、すべての視点をもう一度考えてみてはどうかという教育論の改革の提言が本書である。こう記してしまえばいかにも革新的な教育論ではないかと思われるが、そうではなく、教育を考える視点を「自分自身のその場での私的信念と私的態度」に取ることを、この教育論は主張する。それは、哲学者鶴見俊輔の従前からの主張である。「私的信念を、倫理と政治の領域から追い出さないという教育論」は、鶴見の体験に負っており、「護憲派も改憲派も国家論者でありすぎた」という反省を踏まえている。
 鶴見の教育論の過去には、傷つけられてきた「非行少年」の自分が、また現在から未来にかけては、「もうろく」しつつある自分が、色濃く影を落としている。それ故この視点からの教育論には、「疑い」や「間違い」を是認する姿勢がある。例えば鶴見は、自分の過去について、次のように述べる。
 「自分の傷ついた部分に根差す能力が、追いつめられた状況で力をあらわす。自覚された自分の弱み(ヴァルネラビリティ── vulnerability)にうらうちされた力が、自分にとってたよりにできるものである。正しさのうえに正しさをつみあげるという仕方で、ひとはどのように成長できるだろうか。生まれてから育ってくるあいだに、自分のうけた傷、自分のおかしたまちがいが、私にとってはこれまで自分の道をきりひらく力になってきた」。
 また「もうろく」の中に沈みかかっている自分については、こうである。
 「もうろくの中で、自分を支える思想を求める自己教育をしたい。言葉による教育をこえて、自分の中に反射してのこるようなしぐさによる教育が必要だ。自分をとりまく社会から、くりかえし自分の中に流れ入ってくる疑問とのとりくみも大切だ。(略)終わりにのこるものは、まなざしであり、その他のわずかなしぐさである」。
 このように鶴見は、教育の原点がつねに自己にあり、自己を「まるごと(whole)」──これは均質化された教育集団の中での位置づけ(=「全体(total)の中での位置づけ)とは異なるとされる──教育していくことを強調する。
 「まるごとというのは、そのひとの手も足も、いやその指のひとつひとつ、(略)からの各部分と五感に、そしてそのひと特有の記憶のつみかさなりがともにはたらいて、状況ととりくむことを指す」。
 それは「偶発性教育の実現」であり、「まちがいをいかす方法、選択をいかす方法」と言えよう。
 この視点から鶴見は、人間の生きかたの根幹にかかわる「親問題をすてないということ」を強調する。「人は生きているかぎり、今をどう生きるかという問題をさけることができない。今生きているということが、問題をつくる。それが親問題である」。
 これについて鶴見は、「親問題には、正しいひとつの答を出せないものが多い」から、別の子問題をつくって、親問題をさけることはできる。というのも現実の学校教育では親問題は問われないのであるから。しかし親問題そのものは消すことができないので、親問題を保ちつづける子どもは、「そうすると学校の成績がさがる。しかし、成績がさがるということは、自分の生涯をそれほどきずつけることになろうか。この親問題もしめだすかどうか」と問いかける。
 さらに、この問題についての裏返しとして、「今の形(たとえば主権国家)を批判の外におき、主権国家の秩序を生徒におおいかぶせるという教育方法を、私は批判したい」とする。すなわち「国民主権国家という形のほころびを学校の教室でもはっきりと見せたほうがいい。それが現在および未来の問題なのだから。それを生徒が口にするとき、教師がマニュアルどおりでなく、一緒に考えるようでありたい」として、鶴見は「この自分たちの教育思想のほころび」を直視することを主張する。
 そしてこのことは、現在論じられている歴史観の問題に、次のような一石を投じることになる。
 「すでに、現王朝より前に日本の文化の歴史があったことを認めるなら、現王朝の後に何が来るかをも考える自由があるはずで、その自由を戦前・戦中にはうばわれてきたことを考えると、教育の現場(家庭・学校・社会)でこの自由を守ることが大切だ。日本国のはじまり以前と、日本国の終わり以後を考える自由を、確保することが大切だ。(略)/人類の誕生とその破滅をはっきり目の前におくことが、日本国が昔からこのようにありこれからもあるという考え方を、かえてゆくだろう」。
 こうして鶴見は、現在の教育の基礎をなしている思想を、個人をベースにして変革していく視点を提言する。その主張は、確かに傾聴に値するものであり、鉄筋コンクリートのような均質化された近代社会の中のクローン人間化への鋭い批判となっている。
 ただ鶴見の視点には、このような個人からの運動とそれの集まり(サークル活動)は存在するが、そこから先が見えてこないことに注意しておく必要があろう。すなわち運動論としての観点は欠落しているのである。そしてこれに加えて、老年に入ってからの鶴見の主張に、しばしば自己満足気味の言い方が出てきているのも気にかかるところである。
 しかしこの点については今後の批判に待つとしても、本書から汲み出せるものは大きいといえよう。(R) 

 【出典】 アサート No.268 2000年3月25日

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