【投稿】内山達四郎さんを偲んで
昨年11月のはじめ、内山さんの訃報が届きました。
内山さんの文章は何かで読んだことがあったにせよ、実際にお会いする機会もなく、ぼんやりと労働運動の闘士のイメージを思い描いていました。その後、私は仕事で東京へきてからおよそ25年になりますが、お会いできる機会をたびたび得て、当初のイメージはそのままありましたが、内山さんの御人柄やらを知るようになりました。
内山さんは戦後、社会主義運動から労働運動に入り、解散した総評の有力な産別だった全国金属の調査部を永く勤められました。調査部といっても、当時の労働運動では、私鉄、電機、鉄鋼といった産別と同様に労働運動での重要な分野であり、「花形」でもありました。理論派の内山さんにとって、水を得た魚のように活躍されたことを聞いています。
1970年代の終わり頃、内山さんの春闘をテーマにした講演で、瀬戸内海でのある大メーカーの全国金属所属の労組が、当時対立していた全金同盟に組織変えしたことを例に挙げ、「なぜ向こうに行ったか。職場での運動がなくなり、交渉などすべて中央でやるようになったからだ。中央だけの運動では、幹部請負になり、いざ合理化攻撃がなされても、職場からの闘いが構築できない」と強い調子で語られたことがあります。
その後内山さんは全国金属を離れ、総評に入りますが、とりわけ、地域での闘いを強く主張されていた内山さんは、総評副事務局長として日本全国の市町村に地区労を組織し、国民春闘を支えようと、1989年の総評解散まで活躍されていたことを思い出します。また、今日のIT革命を見越されたのか、ME合理化にも多くを語られていました。産業再編成にも早くから対処すべしとも言われていました。
労働運動に人生の大半をかけられた内山さんは多くのことを私たちに遺されました。現在、時代は変わって労働運動は連合時代になり、戦後最低の組織率になり「冬の時代」といわれて久しくなりましたが、一方でいままた地域の闘いや職場段階での闘いが強調されています。
内山さんの遺されたものは、単に全国金属に及ばず、日本労働運動にとっての大いなる教科書でもあったと思います。
ご冥福をお祈りしたいと思います。(立花 豊)
【出典】 アサート No.268 2000年3月25日