【書評】『「学校」が教えてくれたこと』

【書評】『「学校」が教えてくれたこと』
                                  —山田洋次著、PHP研究所、2000.4.27.発行、1,300円—

著者は、『男はつらいよ』シリーズで有名な映画監督である。監督作品としては、他に『家族』『幸福の黄色いハンカチ』等があるが、また周知のように、『学校』シリーズによって、現代日本の教育のあり方を考えていく話題作品を提供している点でもユニークな存在である。
本書は、その『学校』シリーズ制作にあたっての体験と視点をまとめたものである。
映画制作過程に即しての語り口であるだけに、表現は平易かつ簡潔であるが、その内容は興味深い。
『学校』第1作目を制作するきっかけとなった「夜間中学」との出会いの中で、著者は、普通の昼間の中学校には見られない特徴を発見する。そのひとつは、生徒はみんな何らかの事情で義務教育を受けられず、そのことでさまざまな差別を受けて生きたこと、もうひとつは、「夜間中学には競争がない」ということである。つまりこの学校に集まってくる生徒たちは、それまでの人生や現在の生活において苦難を抱えているが、しかしそれぞれが、学校に来る「高い志」とでもいうべき目的を明確にもっている。そして彼らにとって「夜間中学」が、「ひとつの家庭であり地域であり社会」である存在となっていること、ここにこそ本来の学校の姿があるのではないかと著者は確信する。そしてこの視点は、「夜間中学」誕生までの歴史の認識と重なって、教育の現状、あるいはもっと根源的に、「教える」ということを考える挺子となって、さまざまな問題を浮き彫りにする。
『学校Ⅲ』は、知的障害をもった主人公の在学する高等養護学校が舞台であるが、この映画を撮るにあたって助言を受けた教員の言葉を、著者はこう語る。
「知的障害の場合は子どもの心を理解することがとても難しい。障害のあらわれ方が一人ひとりみんな違うわけだから、子どもを一生懸命みつめて、それぞれの子どもたちから、その子がどのような障害をもっているかを学びとるしかない。子どもたちから教えてもらうという気持ち。この子がどんなふうに悩み、どんなことに怒り、何に喜ぶかということを一生懸命に学ぶ。そのために教師はなるべく目立たない存在でなければいけない。」
このような姿勢が大切なことは言うまでもなく、これを抜きにした権威の絶対視や怠惰な現状肯定の認識にもとづく行動が、学校不信、教育崩壊の底にあるのではないか、と著者は指摘する。
そして著者は、学校の問題について考える中で、「教えるとか学ぶとかいう問題は、ぼくたちの映画創造の現場の悩みや苦しみと深く関わりがありこと」に気づき、著者のバイブルともいうべき、伊丹万作の『演技指導論草案』(『伊丹万作全集2』所収、筑摩書房)との比較を試みる。伊丹万作は、亡くなった伊丹十三の父親にあたり、戦前の脚本家・監督として有名な人物である。
ここでは演出者として俳優をどう見、どう指導していくかが、具体的な心構えとして説かれている。たとえば次のようにである。
「俳優の演技を必要以上に酷評するな。それは必要以上に賞讃することよりももっと悪い。」
「演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのためには文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する要因になるような言動は絶対に慎まなければならない。/演技指導とは俳優を侮辱することだと思っている演出者がいるのは驚くべきことだ。」
これらの指摘と、子どもの心になって考えることとの共通性には注目すべきものがある。演出者という権威で俳優を萎縮させてしまう姿と、教師という権威に寄りすがって子どもを叱っている姿とが二重写しになるのではなかろうか。(ちなみに著者は、学校の教師がお互い同士を「先生」と呼び合っているのは、自分たちが特別な枠組みの中にいるということをひけらかしているのではないか、と批判的である。)
また、俳優の可能性については、こう述べている。
「ある時間内の訓練が失敗に終わったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。たとえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて、ついに彼が孵化するまで待つだけの精神的強靭さをもたねばならぬ。」
今日の学校には、この雌鳥のような自信への障害が多い。しかしあきらめることなく、というのが著者のメッセージであろう。 そして著者が結論的にこだわるのは、「品性の高さ」というわれわれ自身の問題となる。これは、映画のセットについての次の戒めとなる。
「セットはたえず掃除せよ。しかし掃除していることが目立ってはいけない。/つつましやかにいつもセットを掃除していてくれるような働き手を演出者は見つけるべきである。そういう人が見つからないときは自分で掃くがよい。それほどこれは肝腎な仕事なのだ。セットがきたないことは仕事の神聖感を傷つけ、緊張をそこね、そこで働く人たちを容易に倦怠に導く。(略)/通例照明部の人たちは泥のついたコードを曳きずり、泥靴をはいたままで、殿様の書院でも江戸城の大広間でも平気で蹂躙してまわる。その後から白足袋で歩いていく大名や旗本は、演技にかかるまえにもうその神経を傷つけられてしまうのである。(略)」
この「品性の高さ」と前述の「高い志」という視点こそが著者の眼目であり、この点に「この四十年もの間に日本人が失ってきた大切なもの」があるとされる。それ故、「なんとかしてあの時代の精神に、あるいはあの時代の慎ましい暮し方にもう一度立ちかえることはできないのか」と問いかけ、「三十年から四十年の年月をかけてぼくたちが大切なものを失い続けたとすれば、それをもういちど拾いあつめるためには、同じように三十年も四十年もかけるしかない。その覚悟をぼくたちはできるのだろうか」という決意にも似た気持ちを述べることに、著者の監督としての姿勢があらわれている。
以上のような著者の視点と姿勢は、現代社会、特に教育の現状に憂慮と関心をもつ多くの人びとから共鳴を寄せられている。しかし同時に考えなければならないことは、著者が、三十年前、四十年前云々と語るとき、その時代に闘われた歴史からの教訓と、著者の現在の姿勢のもつ意味を冷静かつ客観的に比較考察する必要が、われわれにはあるということであろう。この問題を絶えず念頭に置くのであれば、著者の説く内容には学ぶべき多くの事柄があり、本書は、小冊子ながら、現代社会の教育に対する理解と打開の道の一端を担うものとなるであろう。(R)

【出典】 アサート No.276 2000年11月25日

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