【書評】現代日本企業社会の暗部を衝くミステリー

【書評】現代日本企業社会の暗部を衝くミステリー
                  –高村薫『レディ・ジョーカー』(毎日新聞社、1997.12.5.発行、上・下巻と もに1700円)

高村薫が3年ぶりに出した評判のミステリーである。その評にいわく「多視点から『現代』を描いた試みの鮮やかな成果」(毎日)、「現代日本描く『全体小説』」(朝日)等々。いずれも好意的な評価を寄せるだけに、その筋書は面白く、描写は綿密かつ膨大である。
本書の中心をなしている犯罪は、日本一のビール会社「日之出麦酒」の社長・城山の誘拐と、製品を「人質」にした脅迫である。明らかにグリコ・森永事件にヒントを得ていると思われるが、事件は、最初にこの犯人たちが目論んだ予想を越えて、彼らの手には負えない社会の闇の構造をあぶり出していく。
犯人グループは、それぞれの境遇から現代社会に向けての不満を表現しようとし、それが競馬という機会を通して、犯罪というかたちで具体化、実現することになる。従ってその結び付きは偶然であり、動機も、狙う目的も、ある意味では偶然であり、彼らがすべて同一レースに賭けたこと自体、偶然的である(=日常的にはどこにでも存在するもの)という意味をもつ。
「日之出麦酒」の就職差別の問題に絡んで娘婿と孫を失った薬局店主・物井、障害児の娘と情緒不安定の妻をもつ元自衛隊員のトラック運転手・布川、在日朝鮮人の信用金庫職員・高、警察官でありながら下積みの視点から上層部の混乱を夢見る刑事・半田。こうしたメンバーが、ある時、それぞれの特技を寄せ集めて、「レディ・ジョーカー」を名のり、「日之出麦酒」社長誘拐と脅迫を行うのである。
この事件は周到に計画され、成功する。表向き6億、裏取り引き20億の身代金の要求とその受け渡しについての詳細は、本書を繙かれたい。そもそも犯人たちの誰もが金の奪取を第一にしていなかったということから、捜査は困難を極める。そしてそれなりの大事件として存在するこの事件を一つの契機にして、企業社会を取り巻く大きな腐敗構造が顔を出すことになる。
それは、この事件の以前になされた大手都市銀行の絡む不正融資事件であり、その絡まった糸は、永田町、保守党の大物国会議員・酒田へと続いていく。そしてまたその糸は、総会屋へも、闇の仕手筋、韓国の闇組織にもつながることになる。このような腐蝕の構造が、ある時には対立抗争、またある時には妥協と取り引きというかたちで活動を続けるのであるが、著者はこれらの複雑な動きを、脅迫する犯人たち、脅かされる社長を中心とする企業側、これらの事件を捜査する警察組織、その警察組織と張り合う検察庁、これらとは独自に事件を追う事件記者と新聞社組
織、そして以上のどの部分にも多かれ少なかれ触手を伸ばしてくる闇の組織等、というさまざまな視点から多角的に描こうと試みる。それはこの小説の一つの重要な背景をなしている競馬レースに類似している。すべての馬がゴールを目指して疾走しているが、ゴールの先には何もなく、またそれぞれの馬がジョッキーによって操欲望の構造が全篇を包んでいるのである。
本書をどのように読み、本書から何を汲み取るか──社会に対する怒りか、やり場のない嘆きか、息つく暇もないほどの面白さか、等々──は読者によって異なるであろうが、本書の底深く流れている怒りと行き詰まりの感情を無視することはできないであろう。例えば、誘拐事件の犯人の一人、物井は、事件が拡大してもはや自分にはての届かないものとなった時期に、こう考える。
「物井清三は一日じゅう新聞を読み返し、読み返し、この浮世に棲む人間の本性は、七十歳の自分が見てきた以上の何ものかだと考え続けた。(略)自分は悪鬼だと勝手に納得していたが、世の中には、自分のこの黒い腹よりはるかに黒い腹の持ち主たちがおり、はるかに大きな悪意をもって、社会を動かしていくのだ。その前では自分はやはり小さな虫けらに過ぎず、精一杯知恵を絞ったつもりだったレディ・ジョーカーまで、案の定カモにされて、高笑いしているのは結局、自分たちではないどこかの悪党なのだった」。
これに対して、警察組織の中で事件の捜査に従事していながら、その体質による締め付けに辟易している警部補・合田(彼は、高村のこれまでの作品『マークスの山』『照柿』にも主要な登場人物として現われている)は、次のように感じる。
「一兆円企業の社長を逮捕監禁し、(略)商品へ異物を混入して世間をパニックに陥れた凶悪犯レディ・ジョーカーが、こうして今、もっと大きな構造的な不正をめぐる動きに呑み込まれようとしているのだった。もちろん、レディ・ジョーカーの犯行自体は、増えも減りもしない事実として残っていたが、それはまるで、大きな濁流のただ中に取り残された中州のように感じられた。(略)そう思うと、今ある所在なさには、一抹の虚しさや、もうどうにもならないという諦めも含まれていたかもしれない」。
また闇の組織の事件を追い続ける途中で失踪した先輩記者を調査している記者・大久保は、事件についてこう感想を述べる。
「この一年の間に、誘拐や恐喝、強請、詐欺、殺人、自殺といった形で表に現われた多くの事件も同じだった。表面的な因果関係は明らかになったが、そこにはほんとうの発生源はなかったのだ。巨大証券と大手都市銀行の商法違反事件も、解きあかされたのは個別の事犯の個別のメカニズムだけであり、そのメカニズムを動かしている真の駆動装置は見えず、どこに、どんな形で存在しているのかも分からない。辿っても辿っても道はどこかで途絶え、決して発生源に行き着くことがない」。
このように登場人物のそれぞれ──これは、誘拐事件の被害者である城山とて例外ではない──に漂う感情が、全体として現代日本社会の虚無性を示している。
本書は、ミステリーとはいえ、多角的な視点から社会を描き出して、われわれに問題を突きつけている小説であり、筋の複雑さ、多様な面を見せる展開など、エンターテイメントとしても第一級であろう。ただし本書で触れられ、伏線として取り上げられる諸問題(部落差別問題、在日朝鮮人問題、障害者問題、老人問題等)についての掘り下げ方には中途半端さが感じられる。著者が現代日本社会に対して真正面から取り組む姿勢を見せているだけに心残りと言えよう。読後に少々切れの味の悪さが残るのも、現代のわれわれが、どこまで行っても真の解決に至らない社会的諸問題について感じている矛盾と共通するものを含んでいる。(R)

【出典】 アサート No.243 1998年2月21日

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