【投稿】「世代の総括」そして「与党的立場」について
このごろ気になっているいくつかの点について、述べてみます。そのひとつ、世代論について。その2は、与党的立場について。
****「世代の総括」について****
<戦後の総括と絡んで>
ずっと前から気になっていることがある。それは、日本における「世代の総括」。(表現は適切かどうか?)。図書館に行って歴史のコーナーをいつも覗く。興味があるのは現代史であるが、少なくとも明治・大正・昭和特に戦前戦後までは本の数も多い。
しかし、私の興味のあるのは、大学紛争前後、またはその後のテーマであり、当事者達の発言なり「総括」なり、ルポの類である。残念ながらこの手の書物は余りない。
私が読めたものと言えば、連合赤軍浅間山荘事件の坂口というひとの「浅間山荘日記」、全共闘経験者の意見をアンケートでまとめた「全共闘白書」、筆者は忘れたが「全共闘経験」だったか。歴史というよりは、証言のような形式を取った書物は余り現れていない。(もし、ご存じでしたら教えていただきたい)
「安田講堂落城」から27年と言うし、もうすでに歴史と言っても言いわけで、60年代後半から70年に至る全共闘、全学連などの学生運動、また社会運動の負の遺産を正しく伝える作業はこれら時代を生き抜いた方々の「責任」と言ってもいいはずである。団魁の世代と言われ、現在50歳を前後する世代が、いま日本の社会、経済、政治を担う中心的世代であると思われるが、これら世代の「世代論」がまだ未完成ではないのか。あるいは明らかになっていないのではないか。
<ベトナム戦争とアメリカ>
日本との対比で興味を惹かれるのが、アメリカであろう。アメリカ映画などをみるとベトナム戦争をテーマにした映画が、「娯楽的」にも成功するほど「負の歴史」を取り上げ、そこに生きた人々を描くことで「共通の世代」の姿を明らかにしてきている。戦争体験の悲劇は「プラトーン」が、戦争の狂気をコッポラの「地獄の黙示録」が、従軍し障害者になった元兵士の苦悩を「7月4日に生まれて」が、そして大学紛争は「いちご白書」がという風に。その前段には、原作があり文学にも多くの作品があるのだろう。
世代を総括する、共通認識を生んでいく作業は、やはり固有名詞的に、個人名で行われ、その積上げで生まれるように思う。ベトナム戦争という国家的戦争に巻き込まれた人々の感情は、たしかにアメリカ全国民に共通の苦悩であり、映画の例は少し底の浅い評価かもしれないが、ひとつの時代を生きた人々を描き出し、社会的に「総括」をしているように思える。
<日本の風土か 過去を語れない>
全共闘や学生運動の経験者にとって、なかなか「過去」を語りたくない心情も分かる。敗北の歴史は忘れたい歴史かもしれないし、「過激派」「セクト」などの表現は少なくとも悪いイメージ以外起こらず、社会的地位や職業柄、沈黙を決め込むことも分からぬでもない。しかし、「負の歴史」と心の隅に仕舞い込むだけでは、次の世代に何も残せないのでは思うわけである。
一方、権力の側にいた人々からの証言はすこしずつ出てきている。現在文芸春秋には元内閣安全保障室長の佐々淳行が「浅間山荘事件」の連載を始めているし、93年には「東大落城」を著し、警備の側からの大学紛争当時の経験を綴っている。最近文庫本になったので私も読んだ。大学紛争鎮圧当事者の証言だが、機動隊員の「奮闘」、機動隊と警視庁との対立、記憶に残る機動隊員の実名を挙げて当時を振り返っている。その中で印象的なのが、警備にとっての「敵」、学生に対する印象である。大学紛争、特に東大紛争については、「学生が怒るのも無理もない大学側の無責任体質」を語り、戦術的エスカレートが起こるまでは、むしろ警察側は学生に同情的な気分もあったという。さらに当時の学生の「自己否定」と言う表現に象徴されるような「自己の利害」を越えた行動に対しては、方向は違うにせよ、そういうエネルギーこそ社会にとって大切だ、とも評価している。佐々以外にも、浅間山荘事件や安田講堂における警備の最前線の人の手記もいくつか著されている。
<NHKの戦後50年ものでは>
昨年NHKは「戦後50年そのとき日本は」という連続の特集を組んでいる。その中に「東大全共闘・・26年後の証言」というのがあった。私は残念ながら見ることができなかったが、最近本になって出版され、読むことができた。
東大全共闘、民青のメンバーや、大学側、警察側の関係者の証言を集めて、東大闘争を再現し、当事者の現在の眼から見た姿を明らかにしようとしたようだ。
橋爪大三郎、今井澄(社会党参議院議員)、最首悟、三浦聡雄(当時民青、東大民主化行動委員会議長、後に共産党を離党)、町村信孝(自民党衆議院議員)ほか20名以上が実名で登場し、闘争の経過を振り返りながら、現在から見た闘争の意味を語っている。
医学部の不当な処分問題から始まり、全学スト、機動隊導入、新左翼諸派、民青の介入、安田講堂封鎖、内ゲバ、封鎖解除、入試中止、と続く経過を追いながら証言で綴られている。特に松田忠(仮名)の手記により経過を追いつつ、一般学生が如何に運動に参加し、挫折し、運動終結、就職後に自殺をしていった「青春」をだぶらせながら。
さらに「東大全共闘のその後」ということで、この時代を生きたそれぞれのその後を追い、運動の経験とその後の生き方をつないでいく。三浦の証言によれば、東大闘争当時の民青執行部の中から72年頃「新日和見主義」と共産党からレッテルを貼られた部分が生まれ、党から追われることになり、共産党から距離を置くようになったという。
一面運動に非常に好意的な印象があるが、インタビューに参加したディレクターは全員が30歳を越えたばかりの世代だそうで、「全共闘世代への思い入れも呪縛も存在しなかった」という。「私たちは全共闘とはなんであったのか、それが戦後史に何を残したのかを問うことをやめ、学生達が時代に対し、闘争の局面に対して何を感じ、どう判断したのか描くことにした。ある意味では価値づけ、「総括」を放棄したのである。」と語っている。
<総括を困難にしているセクトの存在>
こうした結論にたどりついたわけは、証言者の中から共通の「総括」のようなものを抽出できないことから、こうした方針で番組作りをしたというわけである。
「ポツダム自治会解体」を叫び、「直接民主主義」を掲げた全共闘という「組織」は、最後には70年安保を目標にした新左翼諸派の運動の舞台となり、自らの総括を組織的に行えず、まさに「解体」したということだろうか。ここにもどうやら「世代の総括」を困難にしている問題が横たわっているようだ。安田講堂の興亡も篭城した大半は全国動員のセクト部隊だったというし、それに参加した一人の個人の体験は、セクトとの関わりなしには語れず、それらセクトは少ないながらもその命脈を今の保っているとすれば・・・。 「前衛党」(アサートの紙面に登場するのも久しぶりの言葉だが)の呪縛はここでも、「世代の総括」を邪魔している。個人が個人の責任において証言し、歴史を語る作業が困難な運動、組織に残らなかったら「裏切りもの」となる閉鎖組織、こうした組織が「世代の総括」を邪魔しているわけである。
<固有名詞で語れる歴史こそ>
68年から69年のこれらの闘争に全国延べ200大学35万人が参加、1万5千人が逮捕されているという。証言にとどまらず文学の世界でも、三田誠の小説以外にあまりこの時代を語る書物は少ない。数年前一時「全共闘回顧ブーム」がマスコミを賑わしたことがあったと記憶しているが。
70年代以降、新左翼ならずともいろいろなグループが存在し、その後も少なくとも東西冷戦の終結、ソ連の崩壊などころまでは「組織」の体をなしていたことだろう。著名な指導者の証言などに頼ることなく、「自分の運動」を語る、明らかにする作業は一人一人の責任ではないか、と思うのだが。
と、ここまで来れば、私が言いたいことは何か。お分かりのことと思う。一つの時代は終わったが、その時代を引き継ぐ我々の思想とはどんな内容か。個人の証言や意見を積み上げ、共同作業で明らかにしなければならない。私たちの周辺についても同様である。
私も今年43才。いろんな運動に関わって25年が経過しているではないか。アサートの編集も前紙を含めると15年くらいになる・・・私は大学紛争以後の入学なのだが自分自身の「世代論」も気になる年頃で、こんな文章になりました。
アサートがこうした議論のステージになればいいと考えるのですが。
****「与党的立場」について****
<与党的立場について>
最近少し気になっている。「与党的」な発想に立ち過ぎていないかと。もちろん私自身がである。93年の総選挙で反自民の連立政権ができた。連立政権に期待もしたし、社会党も「与党」になった。そして一昨年6月には自社さ連立政権が突如生まれ、社会党委員長が首相になった。自分の所属する組合が村山前首相の出身組合であったこともあり、村山政権には「好意的」であった。連合の旧民社系労組も支持しているとしても、公明+小沢の新進党には「一片」の期待も評価もできなかった。
しかし「被爆者援護法」「戦後50年決議」「平和のための国民基金」そして今回の「住専」問題。純粋野党にはなれないとしても、「与党的」な発想もそろそろ限界かな、という思いがありつつも、基本的には労組を舞台に運動をしなければ、とは思うのだが。
<社会民主党にはもはや期待はできないか?>
日本社会党は、「社会民主党」に変わった(?)。単なる看板の書き換え、そのものだったが、村山委員長は「これを新党とは呼ばない」と、社民+さきがけでの新党結成に向けて努力するという。正直なにがなんだかわからない、というのが本当の気持ちではないか。「社会新報」は昨年12月で発行を止めたというが、2月も中旬になるというのに、新しい党の機関紙はまだ発行されていない。ただ、性急な結論や決め付けは止そうと思う。評価するにはまだ早いような気がするからだ。住専問題で総選挙、というシナリオも案外遠のく可能性もあるし、自社さ連立政権もまだ続きそうな気配だから、社民+さの「新党」つくりを少し見守るのも大切かな、とも思うからである。
<住専問題での社民党の役割>
2月の第1日曜だったか、NHKが徹底討論と題して特集を組んでいた。その中で久保蔵相が、徹底した情報公開を明言し、責任追及抜きの公的資金投入はありえない、と言ったとき、すこし「社会党らしさ」がでているのかな、と感じた。
現在マスコミが「血税を使うな」とか「銀行と農協の損失のために、国民の負担は出来ない、法的破産を」とキャンペーンを行っているが、一種「ガス抜き」の匂いも感じている。
公的資金投入のみが問題にされているが、リチャード・クーの最近の著書「投機の円安実需の円高」の中で「銀行の不良債券問題で公的資金を使うかどうかについて、日本のマスコミはあれだけ騒ぎながら、日本の輸出業者の補助金である為替介入には、月間1兆円規模で公的資金が使われているのにも関わらず、誰も何も言わない。しかし、公表されているだけで日本政府の外貨準備に発生している為替差損は9兆円にものぼるのである。」「米国や台湾でも、外貨準備に為替差損が発生したら、担当者は議会にしょっぴかれて国民の資産をドブに捨てた責任を厳しく問われる」という指摘をしているが、環境破壊の「長良川河口堰」や食管法による農業保護など「公的資金」の使われ方も、同様に扱ってほしい、と思うのは私だけだろうか。
不良債券総額40兆円以上と言う中で、公的資金導入という手法そのものだけに議論が収斂していいものか、どうか。土地の流動性が止まり、右方上がりの地価上昇が当分ないとしたら、危機脱出のための「適正な国民の負担」とは何か、大蔵省の機能の明確化、組織的改編、金融システムの再構築などの長いスパンでの議論を進めるべきではないか、と私は思う。(責任者の処罰、自己責任は当然の上での話だが)
タイミングよく経済企画庁は、「景気は回復基調」と2月月例報告を出し、住専問題を誤ると景気回復に支障が出る、みたいなムードもにじませながら、新進党の及び腰も見透かして、「住専処理」を進めようとしているようだ。
ここでこそ、社会民主党の、久保蔵相の見せ場だと思うのだが・・・
<制度政策が大事、という議論>
昨年の統一地方選挙では、「オール与党」体制への批判が強かった。連合も反自民・反共産というものの、連立政権以来「与党」への執着は強い。そこで「制度政策」が出てくる。確かに「制度政策」の研究は、連合総研などで積み上げられているように思う。
しかし、現場で使い物になる「政策」はなかなか見えてこないのが実態であるし、もちろん現場の我々にも責任はある。個々の政策という点もあるが、基本的な「総予算」をどう配分するのか、ということ、それが勤労者国民にどのような短期・長期の利益をもたらすのか、まだまだ「官僚による予算分配」の結果に対して注文を付ける程度になっていないか。「与党経験が浅い」のも確実な原因だが、そろそろ「眼に見える、実感できる政策が求められているのではないか」とも思うのである。
<与党・野党という分類から脱却できないか>
与党は責任があるが、野党は無責任、みたいな議論。これはもう時代遅れなのではないかと思う。与党の社会民主党の「住専」問題への政策では、パンフレットすら見ていない(出ているのかも分からない)。与党に隠れて違いがはっきり出せないなら、「新党」議論など、話題にもできないのでは・・・と最近「与党的立場」に慣れすぎしまった私自身の愚痴とお聞きいただければ幸いです。(1996-02-14 佐野秀夫)
【出典】 アサート No.219 1996年2月21日