【書評】哲学がなぜ求められるのか」

【書評】哲学がなぜ求められるのか」
                 『ソフィーの世界~哲学者からの不思議な手紙』
     (ヨースタイン・ゴルデル、池田香代子訳、日本放送出版協会、1996.6.30.)

哲学ブームという波の先端に乗っている入門書、とでも言おうか、『ソフィーの世界』はベストセラーにもなっているようである。600 頁をこえる大冊であるにもかかわらず、この本が売れている理由は何か。われわれはそこに思想的潮流の左右を問わず求められている問題を見ることができるのではないだろうか。
本書の筋書きは、ノルウェーの14歳の少女ソフィーと哲学者が対話を通して哲学史の世界をたどるなかで、本書のからくり自体が明らかにされてくるというミステリー仕立ての物語である。
さて主人公ソフィーは、ある日「あなたはだれ?」「人間て何?」「世界はどこからきた?」という今まで考えもしなかった事柄についての手紙を受け取る。そして14歳の少女が考えるには余りにも大きいこれらの問題に関して次々と謎の人物(どうも哲学者らしい)から分厚い手紙が届けられる。
そこでは哲学の最初とされる古代ギリシャの自然哲学者たち(タレス以下)の探究から始まって、ポリスの哲学者(ソクラテス、プラトン、アリストテレス)、ヘレニズム哲学(ストア、エピクロス)、キリスト教哲学(アウグスティヌス、トマス・アクィナス)と一連の流れに沿って哲学史が続いていく。しかしソフィーが謎の人物(彼はアルベルト・クノックスという哲学者であることが判明する)の哲学講座を読み、後に彼に会って直接話を聞くなかで、これまた次々と不可思議な事柄が起こりだす。
それはソフィーと同い年の、誕生日まで同じのヒルデという少女が、どうもどこかに存在していて、その誕生日を祝う父親のメッセージが、どういうわけか余りにも都合良すぎるくらいにソフィーの生活のあちこちに出現する、というのである。(ヒルデの父親は、ノルウェーの少佐で国連監視軍の一員としてレバノンに派遣されていて、まもなくヒルデの誕生日頃には帰ってくるらしいということがわかる。)ソフィーは、この異常な出来事に悩まされるが・・・アルベルトはその理由に気がついているらしい・・・哲学講座は続けられる。
この不可思議な事件の謎は、本書の前半の終わり、哲学史がルネッサンス、大陸合理論を過ぎて、イギリス経験論に入るころに(ロック、ヒューム、バークリに至って)明らかにされる。
(ここでミステリーの結末を述べるのはルール違反かもしれないが)実は本書は、ヒルデの父親(アルベルト・クナーグ少佐)が、娘の誕生祝のプレゼントとして自分で書きためて送った哲学史の著作だったのであり、そしてその登場人物が、娘と同い年のソフィーであり、父親と良く似た名前の哲学者アルベルトであったのである。従ってソフィーの日常にヒルデ宛のメッセージが現れるのも、哲学者のアルベルトの方がその仕組みについて分かっているのも、すべては本の筋書き通りだったのである。しかも父親のアルベルトは、その仕組みを知っている登場人物の方のアルベルトに、作者である自分の裏をかこうとするたくらみの筋書きさえこさえているのである。
そして本書は、このような風変わりなプレゼントを贈られたヒルダが、ソフィーの哲学史の学習のありさまを読んでいく、という後半に移る。哲学史としては、ドイツ観念論(カント、ヘーゲル)、マルクス主義、実存主義、ダーウィン、フロイトといったところが概説される。
ところが娘のヒルダは、つくられた登場人物のソフィーとアルベルトが余りにも父親のプログラム通りになっていることに同情し、終わらせてしまった物語の続きをつくり、逆に父親の方が登場人物であるかのような悪戯をしかける。この結果ソフィーとアルベルトには、登場人物でありながら、今度は実在の人物たちを観察するというひっくり返った役回りが生まれる。
物語の最終場面は、ヒルダと父親が「ビッグ・バン」の話をしながら、本書の最初の質問と同じ、われわれがどこから来たのか、という問いを立てているところで終わる。そしてここにわれわれ一人ひとりに、もう一度「あなたはだれ?」「人間て何?」「世界はどこからきた?」という問いが発せられ、われわれ自身が考える役割が回ってくるのである。これこそ本当にミステリアスな結末ではなかろうか。
以上のように本書は、一言で表せば西洋哲学史の概説である。前ソクラテス学派(自然主義哲学者)から、デカルト、カント、ヘーゲルを経て現代にいたるヨーロッパ思想を中心とした思想の概観であり、この本自体は、かつてわれわれが高校時代に学んだ「倫理」もしくは「倫理・社会」の教科書とそれほど異なったことを叙述しているわけではない。(もちろん高校の検定済教科書は、その指導要領に従って題名のごとく「倫理」であり、そこでは哲学というよりも、道徳、社会思想等に力点が置かれているので・・・教科書検定の問題点をも含めて・・・多少のニュアンスの違いはあるが。)
本書についてはもちろんその思想理解の欠陥を多々認めることができる。たとえば、民主主義についてほとんど問題にされていないし、産業革命後の資本主義の発展とその諸矛盾の激化についても、マルクスの思想との関連で、本質的な理解からは程遠いと言わねばならない。また現代に大きな影響を及ぼしているアメリカ思想(プラグマティズム等)については一言も語られてはいない。
しかしそのミステリー風の構成といい、ファンタジスティックな内容といい、従来の教科書には見られない新鮮さが若い読者を引きつけている。しかも宗教ブームが一段落したとはいえ、それに代わるものが現れてきていない今、本書のような哲学の著作が求められる事情について、本書の訳者(池田香代子)は、「危険は、精神世界と言いながら、精神とは何かということについて、きちんとした土台が共有されていないことにある。宗教も含めて、長い歴史をつうじて精神の世界で紡がれてきた言葉の内実が、とりわけ若い世代にしっかりと受け渡されないままに、『心の時代』というコピーだけが踊った、そのことに私たちの時代のあやうさはある」と的確に述べている(9月8日、朝日・夕刊)。われわれはここに、現代において「哲学」が要求されるひとつの理由を認めることができるであろう。
ともあれ本書は、かつて「倫理」の授業を欠伸をかみころして受けた経験を持つ人々にも読みやすいものである。本書の現代思想に関しての説明で首をかしげざるを得ない部分については、マルクスその他を直接読んでいただくとして、論理の発展の道筋として哲学を読もうとする向きには適切な書物と言えよう。わが国に氾濫している哲学入門書(木田元『反哲学史』講談社など、読むだけ無駄な本である)の類を圧倒する希有な書である。 (R)

【出典】 アサート No.216 1995年11月18日

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