【書評】ミステリーは原発をどう扱うか
—『神の火』〔上・下〕(高村 薫、新潮文 庫、1995.4.1.)
ミステリー作家高村薫は、デビュー以来名だたる賞を総なめにした観があるが、彼女の代表作の一つが文庫本として大幅に改稿出版された(原版は、91年8月、新潮社) 。高村の作品には、提起された問題の大きさといい、ストーリーのダイナミックさといい、従来のわが国のミステリー界の枠組みを超えたものがあるとの評が一般的である。本書もまたスパイを扱った小説であるにもかかわらず、たんなるスパイ小説に終わらない可能性を秘めている。
本書の主人公は、原子力科学者の島田浩二(39)、彼は母とロシア人宣教師との間の「不義の子」であり、実業家でスパイの江口に誘われてソ連のスパイとなる。もう一人は島田の幼友達の労働者でワルの日野草介(40)、彼は結婚相手の律子が《北》のスパイであることを後に知るが、彼女の兄・柳瀬裕司が10年前に《北》で研究していて秘かに持ち返った資料をめぐる陰謀に巻き込まれる。そして日野は他方で、江口によって日本に密入国した高塚良(25)・・チェルノブイリ原発の事故で被曝した若者・・・を保護することになる。
時代背景は、旧ソ連崩壊直前の緊迫した混乱の時期。場所は、舞鶴およびその近辺に建設された音海原発、そして大阪。筋書きは、《北》から持ち返られた資料の争奪戦と各国の駆け引きのなかで《北》に拉致された良が死ぬという状況にいたって、島田と日野が、良の遺志を汲み取って音海原発を襲撃するというものである。登場する諸機関も、KGB、CIA、《北》の工作員、公安警察と多彩であり、襲撃シーンも詳細で臨揚感あふれる。
さて本書の流れの中に漂っているのは二つの浮標(ブイ)である。ひとつは、時代・大国の陰謀に翻弄される空しい無力な人間の姿であり、もうひとつは、そのような中で何とか生きる証を求める人間の心になお存在する空洞である。どちらの空虚さが先立つものであるのかは、にわかには決め難い。恐らくは前者が後者の芽を育てる契機となり、後者はより意識的に成長したものであろうが、客観的空虚と主観的空洞は、ともに相まって作品に独特の雰囲気を醸しだす。
島田は長年ソ連のスパイとして活動してきたが、その「社会主義体制は、人間の活動を機械のように統制することで、人間らしい生活が保証された世界を実現しようとし、今まさに挫折しつつある」「とすれば、たとえば《言う通りに動く機械》になるべく国家的に組織され訓練され、初めから人間の魂を空っぽにしてきたスパイという人種こそ、社会主義国家の矛盾を唯一、矛盾でなく具現した存在だったのかもしれない」という感慨によって、自分の位置を確認する。しかし同時に「島田は何を待っているのでもなかった。・・・時代が変わろうが変わるまいが、昔から何一つ待つものを持たなかった一人の人間が、今はただ、義務感だけを拠りどころにして己の命を永らえている、この欺瞞」をも自分に感じている。そしてこの義務とは、「終わりにしなければならない、盗んだ火は返さなければならない」ということに尽きる。
ここでは、冷戦の最中に西側の原子力工学の情報を東側に流し続けた島田が結果として果たした役割と、人間が原子力の火、〈神の火〉を盗み出してつくりあげた核と原発との果たしている役割が二重写しになる。そしてそのいずれにも義務を負っている島田がいる。
そのうえに、かつては《超安全》な原発を作る意思を持って《北》に騙されて渡った柳瀬裕司の姿と彼が熱っぽく語る《プラハの春》が、またチェルノブイリの事故直後に、大量の放射能を浴びながら技師であった父親を探す良の姿が結びつく。
そして「すべての科学技術は本来、その運用に当たって完全という言葉は使えない人間の所産に過ぎないが、いったん壊れたが最後、周辺地域が死滅するような技術の恩恵を、人間はどれほど受けてきたというのか。原子力は、人間にどれほど必要な代物だったというのか」という「回復不能の懐疑の闇」に陥る中で、島田の胸に音海原発への襲撃計画が浮上する。
「音海原発へ行く。計画を立てて、しかるべき装備を整えて行くのだ。事柄の生産性や正当性、価値、社会性、値段、一切何もなく、ただ行くのだ。音海原発へ。」
これはまた《プラハの春》の話で、人間は理想を持つことができるという希望を柳瀬から借りた日野の思いでもあった。
かくして島田と日野による音海原発襲撃が綿密に計画準備され、決行される。襲撃方法と原発内部の密度の高い描写については、作者の知識と筆力に敬服する他ないが、この襲撃は、島田が原子炉の圧力容器の蓋を開けることで終わりを告げる。
ただしこのことで原子炉が潰れるわけでもなく、「たった今まで核分裂を起こして熱を発していた原子炉の蓋を開けたというだけのことだった」のである。
しかしこの襲撃は、結果の空しさをも含めて、改めてわれわれの時代の核が絶望そのものであることを認識させる。島田と日野との会話の端々に出る言葉にもそのことは確認される。
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「良が片付けたていう四号炉、今はどないなっとるんや」
「鉛と砂とコンクリートで固めた石の棺になっている。もう壊れかけているらしいが・・・」
「原子炉はそうやって廃炉にするんか・・・」
「最終的には解体するが、数年間は格納容器を密封して放置することになる」
「あと二、三十年たったら、この若狭湾沿いに建っとる原発はみな寿命が来る。そのころ、この海岸にはコンクリートの廃炉が延々と並んどるということやな・・・」
日野は、自分たちが見ることはない二十一世紀の海辺を仰ぎ見るように、右舷の陸影へ目をやった。 「あの柳瀬が昔、俺らは核の時代に生まれたんやてしみじみ言いよった」
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このような寒々とした光景は、本書の主人公たちが抱いている気持ちであり、彼らの置かれている状況であり、更にまたわれわれ自身を取り巻いている現実ともつながっている。〈神の火〉とは、プロメテウスのごとく神から人間が盗んだ原子力の火であるとともに、人間社会・国家が人間自身を焼き尽くす火でもある。
本書に色濃く漂うニヒリズムの雰囲気は、出口のない体制とそのスパイに課せられた運命を象徴しているが、高村はこれを硬質的な文章で緊迫したストーリーを展開している。ここで提起された問題は、原発の存在意義と安全性について、今までとは異なった別の恐ろしい側面があるということであり、高村はそれを鮮烈に見せてくれたと言えよう。
高村の作品は文句なしに第一級のエンターテイメントであるが、これがたんなる「ミステリー小説」を超えたものになるかどうかの環は、今後、社会性をどのように追い詰めるかにあると思われる。この意味で、本書とともに警察機構内部を同様の密度で描いた『マークスの山』(1993年、早川書房、直木賞受賞作)を併読されることを薦める。(R)
【出典】 アサート No.217 1995年12月16日