【書評】国家経済から地球経済(グローバルエコノミー)の時代へ

【書評】国家経済から地球経済(グローバルエコノミー)の時代へ
          『THE WORKS OF NATlONS』–21世紀資本主義のイメージ–
       ロバート・B・ライシュ著 中谷 巌訳 ダイヤモンド社 ¥2200円

昨年秋アメリカに新しい民主党大統領が誕生した。スローガンは「CHANGE」、変革を合い言葉に、さわやかに登場したクリントン。その新しい民主党の経済政策ブレーンの一人であるライシュが、1991年に出版したのがこの書物「THE WORKS OFNATIONS」である。ライシュはハーバード大学政治経済学者で、リベラル派の論客として知られ、フォード、カーター両政権で政策ブレーンを務め、民主党の有力な政策アドバイザーである。
全米ベストセラーになり、「民主党圧勝の決めてとなった経済再建プラン・・・・・・そのシナリオが本書である」との宣伝文句に見事に引っかかった私は、短い正月休みにこの本を読むことになる。(もう1冊は、副大統領アル・ゴアの「地球の掟」であった。)

◆国民経済から地球経済(グローバルエコノミー)へ「われわれは今、来るべき21世紀の政治学と経済学が再構築されようとしているその過渡期に生きている。21世紀には国籍が意味を持つような製品や技術はなくなっているだろうし、企業や産業も国家を超えていることだろう。少なくともこれまで理解してきたような概念としての国家経済(あるいは国民経済)は存在しないだろう。国境を超えて移動しないのは、国家を構成する国民だけになるだろう。それぞれの国家にとってもっとも重要な資産となるのは、市民一人ひとりの技能と洞察力であろう。そして国家が担う最も重要な政治課題は、地球経済(グローバル・エコノミー)がもつ遠心力にどう対処するか--すなわち最も技能に優れ、卓越した洞察力を有する人々にはかつてないほどの富が授けられる一方、たいした技能を持たない人々の生活水準は低下するに任されることによって、市民の結束をずたずたに引き裂こうとする強力な遠心力にどう対処するか-ということになるだろう。経済の領域での国境がかつてないほど無意味になるにつれて、世界市場で成功するのに最も都合の良い立場にある有能な個人は、国家との絆を断ち切ろうとする。そしてそうすることによって、同じ国の恵まれない同胞から逃れようとするだろう。本書は、以上のような経済の移り変わりとそれによって誘発されるきびしい政治課題について分析するものである。」(本書P3:序章 国家という概念の冒頭)。
この文章が、本書の内容の見事な概略と言えるようである。

◆経済ナショナリズムの起源
第2次世界大戦後、政治経済において世界をリードしてきたアメリカの姿は、従来の「国家経済」の立場からは見えてこない。それは、大量生産・大量消費の時代の経済感覚に基づく立場であって、もはやこうした事は高付加価値型の経済の中には見いだせないというのである。著者はまず「国民経済」という従来の考え方に疑問を投げかける。「国民の利益は国家の経済成長である、国民の幸福とは、国家の経済成長であると考えられている。・・・・・・少なくとも経済的運命を共有するという意味で一つの絆につなぎ合わされている。
そして経済的な成長を達成するか否かは国家の資源をいかに効率的に開発するか否か、効率的に使うか否かにかかっていると。・・・・・・このビジョン通り理解することが持つ問題はそれが根本的に間違っているという点にある」
第1章では経済ナショナリズムの起源が分析される。17世紀の人々には国民経済という概念はなかった。19世紀の後半、国家経済の繁栄が国民の幸福であるという概念が生まれ、運命共同体の意識が生まれた。「同じ国に住む人々が経済的運命を共にすると言う概念は、19世紀後半の数十年間に広く受け入れられるようになった。・・・・・・こうした中で世界的な競争の場が創りだされ、国家対国家の戦いが初めて行われるようになったのである。」 蒸気機関、電信、タービンなどの発明一つ一つが生産形態の進展に重大な役割を果たすと同時にあらゆる種類の大量生産を可能にした。(19世紀前半は生産量を前年比0.3%増やすのがやっとだったが、19世紀の終わりには生産性はその6倍近くに上昇した。)大量生産は、過剰生産でもあった。市場を求めて、帝国主義的な販路の拡大が始まった。この過程を通じて、「20世紀始めまでに、経済国家主義は世界中の多くの場所でしっかりと根付き、米国、英国、ドイツ、フランス、日本その他の市民は、自分の個人的な幸福が国家の経済的な戦争能力と密接な関係にあると理解した。愛国心と経済国家主義はしっかりとつながっていた。」
経済国家主義は、国内の企業を巨大化させ、アメリカにおいては中核的な巨大企業が誕生したのは、20世紀初頭であり、1930年代には巨大企業に合法的な役割と目的が与えられる。「1950年代には、市民個人としての幸福、国家の繁栄、国家の中薇企業の成功の三つは切っても切れない関係にあった。」 中核をなす約500社の巨大企業は工業生産高の約半分(自由世界のそれの約4分の1)を生産し、企業利益の約40%を稼いだ。そして、何百万もの雇用を創り出し、中産階級の層を増大させた。

◆80年代再び保謙主義が台頭
大量生産で海外に輸出された製品は、やがてブーメランのようにアメリカに返ってきた。より安価、良質で。この結果、80年代から、繊維、鉄鋼、電機、自動車などが国際的な競争から保護されるまでになる(アメリカで製造される標準的製品の3分の1にあたる)。もちろん、保護主義は一時の救済にしかならなかった。同時に、コスト減のために賃金引き下げや合理化も強行された。しかし、その分だけ、海外製品も同様にコストダウンをしためでアメリカの経済は回復しなかった。最後は会社の乗っ取りゲームに至るが経済の根本的解決ではなかった。
こうして、アメリカ産業の「競争力の衰退」こそ、現在のアメリカを悩ませている諸現象の根本的な原因であると言う見方が広がり、同様の報告書などが氾濫しているという。しかし、著者は、この考えをもはや誤りであり、時代遅れだというのである。

◆大量生産から高付加価値生産へ
50年代の大量生産時代からの巨大企業も現在存在しているが、その中身は全く変化している。例えば、成長力があり収益性が高いのは大量生産部門ではなく、特別な技術を施した特定需要の製品だと言う。これは全産業で共通する現象であり、顧客の個別のニーズに応え、大量生産では対応できないものを生産する部門こそ成長力があるという。
こうした高付加価値生産企業に共通な技能には、第1に、物事を独自な方法で組み立てることが要求される問題解決の技能、第2に顧客向けに作られたカスタム製品の競争上の利点を見つけだし、可能性を発見していく技能さらに、問題解決者と発見者を結び付ける戦略的媒介者の役割、技能である。

◆企業における新しい組織形態
高付加価値型企業には強権的な最高経営者が何重もの管理者層を統括し、その何倍もの時間労働者の集団の頂点に立って、誰もが標準作業手順に従って働くような生産を特徴付ける古いビラミッドのような組戯は必要としない。高付加価値型企業の組繊は、ビラミッドではなく、網状のクモの巣(組織網・ウェブ)のように見える。それは、すばやく問題を発見し、手際よく解決する事ため、戦略と金融の両面からきびしく検討を重ねながら、技術的な洞察力とマーケティングのノウハウを結び付ければ良いわけである。
こうしたグローバル・ウェブという新しい経済活動の組織的分析が第2部で行われている。

◆どれが「アメリカ製品」なのか
グローバル・ウェブにおいては、製品はいずれも国際的な合成物になるという。「あるアメリカ人がボンティアツクをGMから購入した場合、GMに支払った1万ドルのうち、3000ドル余りはルーチン労働者の組立作業代金として韓国へ、1750ドルは先端技術による部品の代金として日本へ払われ、750ドルはスタイリングとデザインの代金として西独へ、400ドルが細々とした部品代として台湾、シンガポール、日本へ、250ドルがマーケッテングサービスの代金としてイギリスへ、約50ドルがデータ処理代金としてアイルランドヘ、そして残りの4000ドルが、デトロイトの戦略家とニューヨークの法律家と銀行家、ワシントンのロビイスト・・・そして株主の手に渡る。しかし、外国籍を所有する株主も次第に増加している」。これをアメリカ製品と呼べるのかと著者はいう。こうした、国境を越える経済的つながりが、先進国間の国際貿易の大半を占めるようになっているという。
さらに、アメリカ企業はどんどん技能を求めて、外国人を雇用している。IBMでは世界中の雇用者のうち40%がアメリカ人以外で占められているように。 アメリカの衰退、またハイテク部門での日本の追い上げの中で、国防上の理由と言うことで、取られてきた政策が対した経済効果をもたらさなかったばかりか、市場を狭める結果となったのも、政府高官や企業家達の中に依然として、「国家経済」の考え方があったからと著者は批判する。
同様に「国家経済」的立場から行われた、政府の対応について「10古びた考えの危険性」という章で分析されている。例えば88年の包括的通商法でアメリカ政府はアメリカ企業の支配権を外国投資家の手から守ることを公認した。「国家安全保障を損なう」と判断されれば拒否権が発動できるようになった。また、同様に先端技術開発で日本が脅威になりつつある頃、アメリカは半導体開発の共同企業セマテックに年間1億ドルを出資したが、そこに外国人所有企業の参加は認めなかった。結局この出資は無駄になった。むしろ参加企業も自らグローバル・ウェブを進め、日本企業がアメリカ国内最大の先進チップ生産工場を建設した。
更に、著者は外国の市場解放要求の混乱も指摘する。グローバル・ウェップの時代は、むしろ外国政府の国内雇用優先のルールを撤廃させ、アメリカ人の雇用機会と技術的経験の拡大を求めることこそ将来的に重要だと言うわけだ。
「・・・・かつての時代の考え方に囚われているために、政策決定者はどの国の労働力が何を学ほうとしているかということよりも、誰が何を所有しているかということをずっと懸念してきたのだ。」

◆なぜ貧富の差が拡がったか
第3部では、グローバル・ウェブの中で、どのように職業分類が必要であり、また、どの層が富み、どの層が衰退していくのか、と言う分析が行われる。著者は、3つの職業分類を行う。「ルーティンサービス」「対人サービス」「シンボル分析サービス」。
「16不平等化したアメリカの所得分配」「17なぜ、貧富の差は広がる一方なのか」の二つの章で、山のようなカーブで中位の所得層を中心にした従来の所得構造が、77年から90年の間に、富めるものは更に富み、貧困なものは更に貧困になるというアメリカ社会の問題をグローバルウェブと結び付け、さらにそれを政府の政策が拍車をかけたと分析する。 一つは81年のレーガンの富裕者減税である。所得税の最高税率は50%から33%に引き下げられ、連邦税収の最貧困層の税負担率は逆に高まり、租税負担の逆進性が国民の貧富の差をさらに広げたこと。さらに、ルーティン生産労働者は、外国との競争の結果低賃金を押し付けられたが、グローバルウェブの中心であるシンポリック分析労働者の収入は増大したこと。更に、福祉切捨てにより、最貧困層は更に貧困になったからである。

◆レーガン・ブッシュ共和党政権がもたらしたもの
こうした国家経済的立場から行われたレーガン・ブッシュ政策の批判が、この本の面白さでもある。国家経済的立場から、企業家の意欲喚起として税の逆累進制が行われた結果、所得の不均衡は、グローバル・ウェブのとも相乗して一層進んだことことを著者は徹底的に批判していく。その反面、技能教育、先端技術研究への国家予算がむしろ削減されていることに懸念を表明し、また-一般労働者の技能や能力を高める政策努力が行わなかった共和党政策を痛烈に批判している。
すでにアメリカでは、シンポリック・アナリストのような高い賃金の人達が独自の街を創り、低所得者とは地域的にもはっきり分離するような状況まで生まれ、公共サービスの格差も日本では考えられない程になっている。格差の増大は、富める層がそれ以外の層への関心を低め、社会的連帯観を希薄にさせていることにも著者は懸念を表明し、これが重大な課題であると、教育や公共投資の重要性を語っている。

◆積極的経済ナショナリズムの提唱
最後に著者は、「歴史を見れば、我々が勝つか彼らが勝つかという「ゼロ・サム」ナショナリズムがいかに公共精神を腐敗させるか、その教訓には事欠かない。」また、地球市民というコスモポリタン主義にも疑問を投げかける。そこで第3の「積極的経済ナショナリズム」を提唱する。「自国民の生活改善によって他を犠牲にすることがないように他国とも協力する」「他国を犠牲にして一回の福祉を推進するのではなく、グローバルな福祉の推進と言う総合的目標がある」。さらに積極的経済ナショナリズムは、第3世界諸国の労働者の能力開発を目指すことになる」と。

◆我々に問われるもの
この本は非常に読み易い。十分な事実分析を進めるなかで行われているため説得力を持っている。アメリカや欧米の新しい経営がどのように行われているかを知ることは重要である。特に、私自身にもまだ「レーニン型の革命論」が生きている。大量生産型労働者が資本家と対決して、社会主義を創ると言うような。残念ながら資本の方が「国際主義」であったようだし、従来型の生産労働者の比率はどんどん低下している中での労働運動の課題もいまだ十分解明できてはいない。そういう意味で、著者の結論については、まだ十分な分析が必要であろうが、我々自身の現実の経済観を問いなおすためには十分その役割を果たすと思える。           (大阪 佐野 秀夫)

【出典】 青年の旗 No.183 1993年1月15日

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