【投稿】揺らん状態のロシア民主主義

【投稿】揺らん状態のロシア民主主義
                                                       –ロシア国民投票の結果と新たな権力闘争–

<「改革」対「共産主義の復権」?>
4月25日に行われたロシア国民投票の結果は、エリツィン現大統領の信任を改めて確認した。しかし以前の熱狂的な支持率からは明らかに後退しており、その社会経済政策も信任されたとはいえ、多くの批判票が投じられた。また都市部や工業地域では高い支持率を獲得したが、農村部や民族共和国地域では多くのところで批判票が上回る結果となっている。
大統領と対立する人民代議員の繰上げ選挙実施の是非については、過半数の支持を得られなかった。これによって、大統領・行政府と議会・立法府のいわば二重権力状態は新たな段階に入ったといえよう。事態は遅かれ早かれ「大統領と議会の早期繰上げ選挙」が不可欠な方向に進展しており、ルツコイ副大統領はエリツィン氏の対抗馬として大統領選立候補を明らかにしている。
エリツィン大統領は、今回の投票を通じて国内外に「改革」対「共産主義の復権」という対決の図式を前面に押し出し、海外からの緊急支援をテコに一定の成功をおさめたことは事実であろう。エリツィン氏は、「強い大統領」への国民の期待の高まりを背景に、大統領権限を強化した新憲法草案を公表、これに対抗して議会側は、「大統領は独裁に近い政権を想定している」として、独自の新憲法草案を起草、発表した。エリツィン氏は、これに対して「特別統治」といった強硬措置を導入したり、起法規的措置を使ってでも新憲法早期導入を目指す可能性を示唆している。

<現実の着実な改革からの逃避>
しかしこのような対決主義の図式はもはや過去のものであり、積極的なものを生み出さないのではないだろうか。対決主義は逆に現実の課題からの逃避を合理化させ、改革を棚上げすることにしか役立ってこなかったのである。社会の分裂を深刻化させ、対立をあおることによって、現実の着実な改革を遅らせることに利益を感じているものを喜ばせるだけであろう。市場経済がいずれの側からも語られながら、独占的経済構造は逆に強化され、インフレの激化と無政府状態が野放しにされている。
そもそもエリツィン氏を最高会議議長に選出し、大統領制を導入し、さまざまな追加的権限を与えたのは、現在のロシア人民代議員大会なのである。にもかかわらずその後の事態は、両者ともに現実の社会経済改革に失敗し、紙幣の乱発と年2~3000%におよぶハイパーインフレ(92年には物価は26倍にも跳ね上がった)をもたらし、生産をさらに落ち込ませ、国民の窮乏化を一層促進し、地域的民族的対立を激化させ、無政府的状態を深亥肘ヒさせてきたことを示している。

< 訪日の余裕などなし>
エリツィン大統領が再び訪日の延期を発表したことに対して、日本経済新聞5月8日付社説は、「現議会を廃止して大統領主導の国家体制を確立するには、新憲法を制定しなければならない。これは現在の規定によれば現議会で採択される。保守派の強い議会は当然反対する。そこで大統領倒は今月末か来月初めに特別の制憲会議を開催し、強引に新憲法を成立させようとしている。権力闘争が正念場を迎える時期に、日本を訪問している余裕はないというわけだ。」「さらに、もうひとつ見逃せない点がある。エリツィン大統領一流の野放図な振舞いは、国内で許されても対外関係では通用しない、という認識が現政権内には薄いことだ」と、痛烈な皮肉をこめて論評している。
権力闘争が正念場を迎えているかどうかは疑問であるが、問題は、困難な社会的経済的な対立や矛盾が存在することにあるのではなくて、そうした矛盾や対立があるのはむしろ当然であって、いかにそれらを解決、あるいは前進させて行くかということにある。ロシアはこの点で、それらを民主主義的に解決するすべも、それを支える政治制度も、民主的諸政党もまだ確立し得ていないといえよう。こうした段階での対決主義、急進主義は、ろくな結果をしかもたらさないし、むしろ社会を危険な状態におちいらせかねないものである。

<レッテル張りと原始的サディズム>
「もちろん、今のエリツィン大統領の政府は、自ら批判を呼び起こしているところがある。だからこの政府を批判するのは簡単だ。だが簡単であるが故に私は批判を控える気持ちになっている。今のロシア大統領は、以前のソ連大統領の時と同じ勢力、つまり防衛産業部門、封建地主階層、民族主義者の抵抗を受けているのだ」--こう述べているのは、A・ヤコプレフ氏である。
近著「歴史の幻影」(1993.4.22、日本経済新聞社、2800円)の中で、氏はこうした対決・急進主義に触れて、「この不寛容の思想こそがまさに今また社会を分裂させつつあると私は深く信じている。・・レッテルを張り、侮辱を加え、我々自身の子や孫を顧みず、神をも悪鬼をも恐れず、ただひたすら身近な者を塵芥のように地面に踏みつけることに専念し、この原始的なサディズムから甘美な満足を得てきた。ゴルバチョフとエリツィンを礫にせよ、サプチヤクとポポフを銃殺せよ、共産党を裁判にかけよ、民主主義を八つ裂きにせよ、と」と述べて、その弊害を厳しく糾弾している。氏はさらに、「政治的な武器としての烙印押しは相変わらず使われている。誰かがロシア大統領や政府を批判しようものなら、批判者は直ちにネオコムニストか保守派等々にされてしまう。烙印押しは以前は共産党政権と共産党メディアの得意手だったが、今は一部の民主派がこの手を愛用している」ことについても指摘している。

<民主主義にとっての三つの危険>
ヤコプレフ氏は、「だがそれでもベレストロイカは前進した。紆余曲折、緩急、停滞を繰り返しながらも進んでいる。社会はそれによって変貌」したことを明らかにしながら、同時に「ある人々は、宗教裁判さながらに、ゴルバチョフを裏切り者として、マルクス・レーニン主義の聖堂破壊者として非難している。私もまた同様の非難を賂びせられている。エリツィンを悪魔の化身とみなしている人たちもいる。また別の人々は、みるみる窮乏化しつつある社会からできるだけおくのものをむしり・とろうとしている。後は野となれの精神である。そして、誰が出てきてどうなるのかを憂欝そうに見守っている人々が大多数だ」という現実を見すえている。
氏はそうしたロシアの現状を厳しく見つめながら、「私はまだ揺藍状態にある民主主義にとって三つの危険があると考えている。第一に政治的、行政的未熟さであり、新エリートの能力の低さである。第二には民主主義の経済的、社会的基盤の侵食であり、第三には改革勢力の分裂、政治家の叡智とカは頭ごなしの否定ではなく民主的プロセスの一貫性のある継承にあるという理解の欠如である」と述べている。
これに関連して、ソ連共産党最後の大会となる28回大会の期間中、「若手代議員集会には450人から500人もが集まったが、その一部が私の所に押し掛けて、この大会を放棄して新党の結成大会を開催したいがどうか、と追った。だが私はゴルバチョフを見捨ててはならないという思いからこの提案を断わり、今はその時ではないと論じた。このことを今振り返ってみれば、私は間違っていたと思う。たぶん間違っていただろう。あの時にまともな、活力のある、改革を目指す民主的な政党を作ることは可能だったと思う」と振り返っている。まさにこうした政党、あるいは改革勢力の団結の欠如こそが現在のロシア情勢を規定しているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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