【映画評】「永遠のマリー」とイタリアン・リアリズム
4月下旬の日経新聞、「シチリアの少年院を舞台に、そこへ赴任した教師と少年達のぶつかり合いを描いたマルコ・リージ監督の『永遠のマリー』は、現実を乗り越える視点と、さわやかな映像で観客に強く迫る。技法の面からも注目したい作品だ」という映画評に引き付けられてこの映画を観た。
題名からすると、恋物語のようにも響くが、パンフレットのサブタイトルは「囚われの美しき青年達」とあり、文字通り美少年のマリーのカット写真が載っている。同映画評で「題名のマリーは男娼のトラブルで収監された美少年のことで、その美しさと、彼らを犯罪へと追い込む社会のゆがみとを対置させている」と紹介されているとおり、イタリアン・リアリズムの社会派的伝統が脈々と生き続けていることを実感させるものであった。
主人公のマルコ(ミケーレ・プラチド)は、ミラノでの幸福な生活に破れ、古典文学の教師の職を捨て、失業者のあふれる故郷のシシリー鳥に帰ってきた。失意の彼が選んだ職業は、誰もが敬遠して応募しなかった少年院の教師の職だった。バレルモの少年院には、麻薬、売春、暴力などで捕らえられた少年たちが待っていた。反抗と事件を繰り返す少年たちに、マルコは一つ一つ教えていく。きれいな川がつぶされ、水をなぜ買わなければならなくなったのか、美しい自然が破壊され、コンクリートだけの住宅団地になぜ住まなければならなくなったのか、シチリアの貧困の歴史的背景とマフィアの犯罪的行為を、マフィアにあこがれ、マフィアに連帯感を持つ少年たちに説く。授業といったものが成立しない雰囲気の中で、読み書きすらできなかった彼らに、文を綴らせ、人間として己を振り返り、誇りを持って生きるよう、繰り返す。
しかしマルコ・リージ監督は、教師を聖職者に仕立て上げることなく、主人公のマルコもまた悩み、揺れ動く人間として措いている。少年たちと格闘しつつ、一方で文部省からの一般高校教師の採用通知を待っているマルコであった。そうした揺れを管理強化と罰にやっきとなる院長や看守たちに見透かされてもいる。だが、マルコは、心を開き始めていたピエトロ少年が脱走した後、おもちゃのピストルを持ってデパートを簸い、警官に射殺された事件を機に、少年院に残ることを決める。この決意は、監督自身の生き方を表しているように、私は感じた。
周知の通り、イタリア政界とマフィアとの癒着は、今に始まったことではなく、つい先日も前首相が辞めぎるをえなくなったように、広く深く浸透している。そして、追及し悪を断ちきろうと立ち上がった人々を容赦なく死に追いやってきた、残酷な現実がある。「世の中、持ちつ持たれつじゃないの」を、政界や財界はむろんのこと、司法界まで地でいっている。しかしこのところ明らかに事態が変化してきている。
ミラノの3人の検察官が摘発した政界・財界の汚職と腐敗構造の追及が、ついに政界のトップにまで及んできたのである。その先頭に立つ検察官の一人が、これまでは必ずもみ消され、上からの指示でストップさせられてきたが、今度は世論が、多くの国民の一人一人がそんなことを許さなくなってきたと語っている。この映画は、1988年に製作・配給されているが、「イタリア政界を揺るがしているスキャンダルを見据えていたようにも見える」と、日経編集委員の嶋田氏は書いている。
リージ監督の最新作「Ragazzi Fuori」は、「永遠のマリー」の続編とも言うべき作品だそうだ。機会があれば、ぜひ観たいと思っている。 (大阪・田中雅恵)
【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日