【書籍紹介】社会主義の実態を語る2冊の本
『長い旅の記録-わがラーゲリの20年』寺島儀蔵著、93.6.2発行、日本経済新聞社、1900円
『ワイルド・スワン』ユン・チアン著、93.1.25発行、講談社、上下二巻、各1800円
<理想の祖国・ソ連への亡命>
寺島儀蔵氏は現在83歳、ロシア共和国のトアプセ市に在住している。今年の3月、ソ連亡命以来、実に57年ぶりに生まれ故郷の根室に一時帰国された。氏が南樺太の国境を超えソ連に亡命したのは、あの岡田嘉子・杉本良吉亡命事件の2年以上前の1935年8月であった。十代で日本共産党員となり、治安維持法違反で二度逮捕され、6年半に及ぶ独房生活を「若かったですから、理想の社会を実現するまでは、と耐え抜き」、監視役の特高刑事の東京出張を、「理想の祖国・ソ連へ入るのはこのチャンスしかない」と決意して亡命を決行したのであった。時あたかも、ソ連社会はスターリンの独裁・恐怖政治が着々とその足場を固めていたときであった。
<「大反逆罪 スパイ罪により最高銃殺刑に処す>
モスクワでは、野坂参三、山本懸造両氏とも会っているが、ほどなく山本氏は周知のように野坂の密告によりありもしないスパイ罪で抹殺されている。氏の回想によると、「野坂参三さんは稀にしか見えなかった。彼と会っても山本さんのような同志としての温かさは感じなかった。会った時には私に対していろいろ質問などをするが、私の答えに対して自分の意見をほとんど言わなかった」という。「日本での人民戦線については君はどう思っているかね」と聞かれて、寺島氏は正直に「現在の目的は、軍閥が完全にブルジョア民主主義までも打ちひしごうとするのに対する国民闘争ですから、そのためには反動に対抗する積極的大衆ばかりではなく、消極的なブルジョア層も参加させるように働きかけるべきだと思います」と答えている。これに対して野坂は「君の意見として指導部に伝えておくよ」と言ったきりであった。氏は、1938年4月3日、「起訴状は全く事実無根であります」との必死の抗弁もむなしく、いきなり「大反逆罪、スパイ罪、妨害罪により最高銃殺刑に処す。本裁判は最終であって、宣告に対しては控訴権はない」と告げられたのである。
<「赤鬼が罪なき人々を苛む>
まさにこれからが「長い旅の記録」である。読むに耐えない拷問、なぶり殺し、死の恐怖、卑劣なラーゲリの支配体制、「赤鬼が罪なき人々を苛む」地獄図絵、寺島氏が想像した社会主義とは全く似ても似つかぬ、あまりにも悲惨な実態に絶望し、「罪なくして死んで行くこと、それを誰も知ってくれないことは残念でたまりません」と、同じ銃殺刑仲間に訴える。ところが1938年12月、「最高銃殺刑を25カ年重禁固刑に変更する」と告げられる。「ああこれで生きることが出来るのだ。何とかして25年生きて行こう。そして必ずもう一度祖国の土を踏もう。これがその時の私の偽らざる心境であった」。以後、極北のラーゲリを転々とさせられ、極寒と飢えと重労働の長い日々が果てしなく続く。ナチスとの戦いもようやく勝利し、ラーゲリにも希望が訪れる。四人仲間は「戦争が終わったら、第一にラーゲリの制度は真っ先に廃止されると思うよ」と語るが、寺島氏は「私は残念ながらそうは思いません。ラーゲリ制度は廃止されるどころか、ますます拡大して行くと考えます。われわれ何百万人もの囚人は5か年計画とか戦時非常経済計画の作業を遂行しているのです。ソ連にはこんな重要性を持ったラーゲリは何百、何千とあるでしょう。それを一朝にして廃止するなんて出来るものですか。反対に戦後復興工事にもっと多くの囚人労働が必要になると思いますよ」と答えている。期待せざる予感は事実であった。1953年3月、乱入のほとんどが願っていたスターリンの死が発表された。しかしソ連式社会主義に不可欠のものとなっていたラーゲリの「赤い奴隷」には、すぐには福音をもたらさなかった。ようやく1955年8月6日、「無国籍証明書を渡されて裟婆に放り出された私は、瞬間どうしていいか判らなかった」という。
実に貴重な記録である。こんなに悲惨な経験であるのに、読むものをとらえて離さない脈々と流れるものがある。それは何なのであろうか。
<「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」>
もう一つ紹介する『ワイルド・スワン』は、同じく社会主義を扱っているのであるが、こちらは祖母、母、作者の三代にわたる中国の女性のドキュメントである。上下二巻にわたる大作であるが、実に感動的で衝撃的な作品である。多くの固で翻訳され、世界的なベストセラーとなっており、作者へのインタビューが先頃NHKでも紹介されていたのでご存じの方も多いことと思う。
作者の母の回想に、日本帝国主義の実態が鮮明に語られている。「教育の一環として、母たち女学生は日本軍の戦況を収めたニュース映画を見せられた。日本の軍人は、自分達の残虐行為を恥じるどころか、逆にそれを誇示して少女達の心に恐怖を植え付けようとした。ニュース映画には、日本兵が人間をまっぷたつに切り捨てるシーンや、囚人を杭に縛り付けて野犬に食いちぎらせるシーンが映っていた。犬の餌食にされる囚人が恐怖に目を見開いた表情を、カメラは長々と大映しにして見せた。11歳と12歳の女学生通が目をつぶらないように、叫び声を止めようとして口にハンカチを押し込まないように、映画の間中日本人が見張っていた」という。さらにある日、母の女学校の友達が本を読もうとしてうっかり日本軍の武器庫に入ってしまい、捕まってしまった。「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」を見学するため、女学校の生徒全員、それに近所の住民まで集められた。目の前に連れてこられたのは、あの友達だった。鉄の鎖につながれ、ほとんど歩くこともできない。拷問されたらしく、見慣れた友とは似ても似つかぬ膨れ上がった顔だった。日本兵がライフルを構え、少女に狙いを定めた。少女は何か言おうとして口を動かしたが、声にならなかった。銃声がして少女が前のめりに倒れ、雪の上に血がにじみはじめた。日本人校長の「ロバ」は、生徒の顔を一人一人のぞきこんで歩いた。母は非常な努力をして感情を押しとどめた。だれかの押し殺した鳴咽が聞こえた。田中先生だった。即座に「ロバ」が気づき、田中先生をぶん殴り、蹴り上げた。貴様は大和民族を裏切ったんだぞ、とわめきちらしながら」。1945年8月9日、「アメリカが日本に原子爆弾を二発落としたというニュースが伝わり、町の人々は手をたたいて喜んだ」という。
<贅をつくした饗応>
上に紹介したことは、この本のごく一部のことである。中国の民衆に悲劇をもたらした日本帝国主義の侵略行為は、「過去に遺憾なる戦争があった」では済ませられぬ傷跡を残しており、今後も問い続けられなければならない課題である。しかしこの本の中で最も大きな位置を占めているのは、中国共産党と毛沢東の役割である。とりわけ毛沢東の百花斉放、清風運動、大躍進政策、そしてなによりも文化大革命を巡って、歴史の波に翻弄される作者の父母の苦闘の連続とあくなき理想への執念である。共産主義者であるならば、本当はこうあらねばならないのではないかという、祈りにも似たすさまじい努力にはただただ頭が下がるばかりである。この本、特に下巻を読んでいると涙がとめどなく流れてくる箇所がいくつかある。努力をすればするほど、悲劇的な結末を迎えなければならない、しかしそれをずる賢く回避しようとしない人々がいたのである。
作者はエピローグの最後を、「1988年に錦州へ旅行したとき、母は玉林の暗くて狭い、みすぼらしいアパートに泊めてもらった。アパートの裏手は、ごみ捨て場だった。通りを隔てた向いには錦州で最高のホテルがそびえ立ち、毎日毎日、中国こ投資してくれそうな外国人を招いては贅をつくした饗応がくり広げられていた。ある日、そうした宴会を終えて出てきた客人の中に、母はおほえのある顔をみつけた。まわりに取り巻き連中が群がり、その男が台湾に持っている豪邸やらの写真を見せてもらって盛んに褒めそやしている。それは、四十年前に女学生だった母を公安に通報して逮捕させた、国民党スパイの政治主任だった」という言葉で結んでいる。中国社会主義はどのようになるのであろうか。
ここに紹介した二書は、社会主義というものの歴史と実態、そのありようをあらためて考え直させる、深刻でありながら、なおも感動をもたらしてくれるものであった。
(生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日