【書評】いま、問題の4冊

【書評】いま、問題の4冊

『日本新党 責任ある変革』 細川護熙編、93.4.30発行、東洋経済新報社、1500円
『日本改造計画』      小沢一郎著、93.5.20発行、講談社、1500円
『理想の国』        大前研一著、93.4.20発行、ジャパンタイムス、1200円
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』 噂の真相取材班編93.6.10発行、第三書館、1030円

ここに上げた4冊は、いま注目の書、あるいは問題の書である。とりわけ非自民連立政権登場という新しい状況のもとでは、細川、小沢両氏にとっては、書かれている内容に責任を取って貰わなければならない書ともいえよう。それぞれは、やはりというべきであろうか内容的には底が浅く、フアジーでもあり、表面的でもある。しかしそれぞれに提起されている論点は、よく特徴が出ており、現在の直面している課題を浮き彫りにしているともいえよう。そこで限られた紙面で少し強引ではあるが、それぞれに最も問題となる要点を紹介しよう。

<細川=ファジジーが本質の「責任ある変革」
「今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私は敢えて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う」–昨年5月、日本新党の結党宣言で細川氏はこのように述べた。その理想主義の旗とは、「品格ある、教養ある国家」であり、基本理念は「平和主義」、政治的には「民主主義」、経済的には「市場主義」、社会的には「生活者主義-地方分権の確立」である。これは決して単なる書生論ではなく、行動する「実践的理想主義」を貫き、実現可能で具体的な「政策プログラム」を提示し、実行していく、と強調している。まことにごもっともであり、それを一貫させることを監視しなければならない。
確かに、男女共生社会や高齢化社会の政策においては、他の諸党よりも具体的であり、進んでもいる。たとえば、最重点政策として「65歳定年制と70歳就業態勢の確立」を掲げ、ゴールドプランの前倒し実施を要求し、さらには「女性の社会参加、特に政策決定の場への進出を促すため、国、地方公共団体におけるすべての審議会、委員会、議会等にクオーク制を採用し、どちらかの性が20%を下回らないものとし、2000年までに40%に引き上げることを目標とする」こと、男女の平均貸金格差の是正、就職時の年齢制限の撤廃、男女雇用機会均等法を努力義務から禁止規約へ、企業への積極的平等推進策の義務づけ、セクシヤルハラスメントに対する法規制、教育の場での性別役割分業の見直し、離婚法の抜本的改正、選択的夫婦別氏制度への移行、女性の職業活動を妨げる税制の廃止、などを掲げている。
「日本新党は女性向けのワナ」と指摘される(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)だけのことはある。現実にも、土井委員長と消費税反対運動の中で盛り上がった社会党への女性や高齢者の支持がごっそりと日本新党へ移動したことを考えれば、労組を含めたいわゆる革新勢力の女性蔑視に貫かれた旧態依然たる体質が有権者から見放されたのだといえよう。しかし、全体として「責任ある変革」の中身は、きわめてあいまいであり、融通むげである。フアジーと称されるところである。それは基本的には、その政治路線からきている。本来保守勢力の改革派であり、なおかつ公明、民社の中道路線を取り込み、それらの政策を「理想主義」と「品格」で味付けをして、実は社会党を切って捨てることにその眼目があるからではないだろうか。
日本新党は、「政権交代がないということが日本の政治の致命的な開港であるということ」を出発点として、その基本的費任を「既成政党」に求め、自民党はいわずもがなのこととして棚上げし、「55年体制打破」のために、社会党にこそその責任を求める。「野党第一党の社会党はというと、「政権交代」を叫びながら、結局は「保革二元論」のワクの中で歴史的役割を終えたと多くの国民は受け止めている」、「野党第一党の社会党は、いまだに「保革二元論」にしがみつき、そうした点に拘泥している。それが、多くの国民の失望を生んでいることを知るべきである。そこにこそ、新しい政党の必要性が望まれるゆえんである」と述べて、社会党にとって代わる自らの立党の基本的立場を表明しているのである。

<小沢=強権政治への憧れ>
今や連立政権は二重権力状態であると言われているが、これを裏で操っているのが小沢だと目されている。その言動は確かに無視し得ないといえよう。この小沢氏のキーワードは「強力なリーダーシップ」である。
小沢氏は次のように述べる。「もはや指導力の欠如は許されない。弱い指導者は他国には迷惑でしかないのである。何が必要なのか。強力なリーダーシップである。問題の第一は権力のいたずらな分散である」、「改革の基本的な方向は、最高責任者が責任を持って政策決定できるように、いたずらに分散した権力を、形式的にも実質的にも民主主義的に集中化することだと私は思う」。まさかもはや民主主義の原則とは相い入れなくなっている共産党の組織原則がこんなところでお目にかかるとは。
小沢氏の民主主義に対する皮相的な理解は、マスコミ批判にまで及ぶ。「マスコミまでがこうした野党の行動に疑問を望しないばかりか、有力紙やテレビの多くは、審議を尽くしてコンセンサスを追求せよ、などと主張していた。現在の政治の閉塞状況をもたらしているのは、むしろ、権力を行使しない危険性によるものだ」「一朝有事になると、マスコミを筆頭にして「民主主義」が高らかに叫ばれる。しかもその場合の民主主義とは、きわめて手続き面に偏重した民主主義だ。「議論をとことん尽くせ」「多数決の横暴を許すな」といったスローガンが乱舞する(、これは国際社会の主要国としては許されないぜいたくであり、国際的な責務を放棄するに等しい」。
さらに小沢氏は、こうした事態を解決する特効薬を小選挙区制に求める。「冷戦の終結は日本政治の総談合構造の崩壊を意味する。なれ合い、もたれ合いの構造を壊し、政治のあり方を根底から変えねばならない。旧構造の打破は徹底的であればあるほどよい。衆議院の申達挙区制はぬるま湯構造の維持装置といっても過言ではない。現に政権を振っているから現状を変えたくない与党はもちろん、手をこまねいていても野党は130前後の議席を確保できる。中選挙区制が社会党を筆頭とする野党をダメにした。政治のダイナミズムを阻害しているのは、あまりに強すぎる比例代表制的な原理である。小選挙区制では、得票数の開き以上に議席数が開くので、支持率の変化が敏感に議席に反映され、政権交代が起きやすくなるという点も見逃せない。日本の政治が抱えているほとんどの問題は、小選挙区制の導入によって解決できそうだ」。
このように見てくると、小沢氏は、自民党の河野新総裁が述べているように「極めて国家主義的色彩の濃い政治運営を企図する勢力」の代表であるかのようである。確かにその危険性はあるといえよう。歴史の皮肉であろう、主客転倒して事態が進行している。この皮肉はそうしたことを許さないであろう。しかし小沢氏がこの本の中で提起している日本改造計画の具体的政策(五つの自由)は、高齢者や女性政策に明らかなように、より具体的で進んでもいる。やはりフアジーではあるが、日本新党と共通の特徴を持っているのである。むしろこれまで社会党を始めとする野党勢力、革新勢力が積極的で具体的なオルタナティプ(代案)を提起し、その選択を国民に迫るということにきわめて怠慢であったことのツケが回ってきたのだといえよう。

<大前=男性向けのウナ>
「平成維新の会」は今回の選挙では出番がなかった。そこで投票日の翌々日、主要各紙に「選挙の終わりがはじまりです」という大々的な一面広告を出し、「このたびの総選挙で、82名の平成維新の会推薦候補が当選。いよいよ”生活者のための政治”実現に向けて、活動が始まります」と述べて、自民党から新生党、日本新党、公明、民社、社会にいたる推薦議員を紹介している。大前氏は、「私たちは自分の出世や利権ばかりを考えるような議員は選ばない。私たち生活者の主権を中心に、生活を向上させ、これまでになかった理想の実現に邁進してくれる議員のみを推薦する」と述べている。
大前氏のキーワードは「生活者の主権」である。「国は富んでいるのに、生活者は依然として狭い家に済み、物価高に悩まされ、余裕のない生活に窮々としている」ところから出発する。そしてこうした事態をもたらした最大の問題を農業保護政策と税制に求める。「自動車産業などの隆盛があったからこそ、日本の今日の繁栄があったのです。だからこそ、国際市場の九倍もの米の値段を補助することができたわけです。農民が感謝すべきなのは自動車にであって、自動車をつぶしてアメリカの国旗を燃やすという蛮行はとんでもない話なのです。彼らの輸出があるからわれわれが市場開放させられて犠牲になる、というのはとんでもない詭弁なのです。コメ農家が日本を養ってくれる可能性は今後ともまったくないし、いまの生活水準を維持してくれる可能性もまったくないのです」と述べて、「私がいう第三次農地解放というのは、第一次、第二次が大農園主から小作人に対する農地解放だったのに対して、今度は農業従事者からサラリーマンに対する土地の解放が大都市周辺でなされなければならないという考え方です」と極論する。こういう切って捨てる論理が大前氏好みの特徴である。「適者生存原理がまともにわれわれを襲うような状況をつくるほうがいい、と私は思っています。競争なきところに競争力は絶対につかないのです。小売業でも農業でもぬくぬくと食っていける間は決して自分たちから生産性の改善などしないのです。むしろ「生活権」とか何とかいって甘えた現状維持を振りかざし、コスト高を生活者に平気で押し付けるのです」と述べて、弱者切捨て論を公然と振りかざす。
大前氏が怒髪天に登る勢いなのはどうも、自分の納めている税金にありそうである。「税制については、負担の公平ということを主張しています。所得税は「一律10パーセントでだれもが公平に負担する。所得の低い人の税金を免除するのはおかしいと私は思います。私自身は地方税も含めて65パーセントも取られています。年間の税金だけで1億円以上払います。累進制度というのは国家による搾取です」と、怒り露わである。確かに「男性向けのワナ」といえよう(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)。
大前氏は周知の通り、道州制論者である。「日本の都道府県や市町村は自立できる単位にはとてもなっていない。だから、私は第二次廃藩地県として、廃県地道ということをいっているのです。日本は1,000万人ぐらいの地域を単位として少なくとも一○ぐらいになるのがいい。これが私たちが提案している道州制の経済的根拠です」。地方自治に逆行して中央集権に屋上屋を重ねるようなこうした論法に対して、細川氏は、「ところで、似て非なる考え方として、「平成維新の会」の大前研一氏は、日本を一○のブロックに分ける「道州制」を捉唱されている。しかし現在の各都道府県の感覚からいうと、たとえば「九州府」として大分や沖縄まで一つにまとめるというのは、容易なことではない。いまの都道府県のサイズは、ひとつの行政の主体として、諸外国と比べてみても、妥当なところだと思うから、道州制に対して大前氏とは立場を異にしていることを示しておきたい」と述べている。
ところがこうした大前氏の立論に、社会党や労組を含めた一定の部分に支持と共感があることは見逃せないことであろう。大前氏は得意顔で述べている。「『平成維新の会』を始めたとき、いちばん賛成してくれたのは労働組合の人でした。社会党は政権担当意欲も能力もないわけだから、結局、組合側の声は為政者には永遠に聞こえない。組合も、連合など包括的に社会党を支持するのは間違いだ、と気が付いたようです。それはそうでしょう。会社で労使協調なんだから、政治的な運動も労使協調路線でやれる一つの新しい政治母体をつくるべきなのです。「平成維新の会」に対する組合の反応は全面的にいい。いまの社会党はこんなことをはっきりいってくれない。連合などは、「これ以上、政権担当意欲もないところにお金を注ぎ込むのは、組合員に対する冒涜だ」とまでいっています。まことにタイムリーな動きと評価してくれているのです」。

<人工甘味料=日本新党 平成維新の会>
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』は、「噂の真相」取材班が両組織の実像、実態に追ったタイムリーな企画である。同書は「おわりに」の中で「どちらの組織もおどろくほど安易に現職の自民党議員を受け入れている事実をよく見ておく必要がある。日本新党といい、平成維新の会といい、実態は’自民党のままでは選ばれない議員を自民党とはひと味ちがうふりをして当選させる人工甘味料”としての役割に過ぎないのである」と断じている。
まず日本新党の細川氏については、「細川のバックには、うさんくささを競い合うような人脈が総結集している。何と元右翼テロリストに土下座までしているのだ。この元右翼テロリストとは四元義隆。右翼の次には元左翼の転向者で、一質して自民党のプレーンをつとめてきたタカ派学者香山健一がいる。日本新党の結党宣言を代筆したのが学習院大学教授の香山健一だという。次に、松下政経塾。現在の塾長は元JC(金属労協)議長の宮田義二、細川も松下政経塾の評議員をしている。この松下政経塾は、自民党小沢一郎親衛隊の別名で呼ばれる起タカ派の若手政治家志望者軍団でもある。さらに狂信的な信者の組織力と、反共を掲げた勝共連合という名林を偽装して自民党や民社党に勢力を浸透させてきた統一教会が日本新党を全面応援。そして隠しきれない佐川との決定的な癒着。細川は参院時代、田中角栄に佐川急使を紹介され、以来、今に至るまでずっと佐川急便をスポンサーに、トータルすると、細川はこの間、百億円以上の支援を受けているはずです」等々、そのあやしげな人脈については枚挙にいとまがないほどである。 大前氏についても同様の実によく似たあやしげな人脈が立証されている。繰り返すまでもないであろう。ただ、「平成維新の会が市民運動だというデマ」について、「平成維新の会は民主主義とは全く相入れない組織だ。チーフアドバイザーとしての独裁者大前研一が数万人のフラット(ヒラ会員)の上に鎮座することが大前提なのである。共産党の方針が宮本議長の周辺で決まるように、平成維新の会の政策は大前研一の周辺で決まるシステムである。
4月11日の平成維新の会初の全国大会では大前研一の顔がいたるところで大写しになって参加者をシラケさせた。個人崇拝まで共産党のマネすることはないだろうに」という指摘は、この組織の本質に迫るものであろう。
問題は、このような批判や斬定が事実であり、的を射ていたとしても、それらが掲げる政策やプログラムが多くの国民の支持を受ける場合、その客観的理由を明らかにし、より具体的で革新的な代案を明示し、彼らをそれに合流させる努力こそが求められているのではないだろうか。連合政権の登場という新しい事態は、そのことを切実なものとしているといえよう。  (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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