【投稿】日・米経済摩擦その後

【投稿】日・米経済摩擦その後

はじめに
東西の冷戦構造が崩れ、ソ連邦の解体・国家共同体の創設へと世界政治の転換期を向かえている中で、プッシュ米大統領は、「真珠湾攻撃50周年」記念演説で、米国内に台頭してきた孤立主義とその「経済的共犯者」の保護主義を厳しく非難し、冷戦後の新しい世界秩序づくりへの決意を改めて表明すると共に、市場開放とグローバル・パートナーシップ(地球規模の日米協力)の拡大へ向けて、日本への強い期待ものぞかせた。
しかし、いっこうに解決されない日米間の貿易不均衡、米議会に台頭してきた保護主義、「日本異質論」をはじめとする反日感情の高まりの中で日米経済摩擦は、米国にとっても、冷戦後の新しい世界秩序を構築する上で重要な課題である。最終局面を向かえた関税貿易一般協定(ガット)新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)とプッシュ米大統領の訪日を控え、日米関係も新たな段階を向かえている。

<ウルグアイ・ラウンド>
世界貿易の新秩序づくりを目指してジュネーブで行われていたウルグアイ・ラウンドは、12月21日ガット本部で貿易交渉委員会(TNC)を開催、ドンケル・ガット事務局長が包括協定案(最終合意文書)を提示して、5年間にわたった協議をいったん打ち切った。各国は、1月13日にドンケル裁定案とも言われる合意案を受け入れるかどうか答えることになっているが、すんなりとは行きそうもない。
焦点の農業交渉ではコメの市場開放につながる「例外なき関税化」が農業改革の柱として盛り込まれたほか、米国と欧州共同体(EC)が鋭く対立している輸出補助金もドンケル事務局長(農業交渉議長)の査定で93-99年の7年間の削減量が明記された。
又、農業以外の分野ではサービスや知的所有権といった新分野の貿易自由化もうたった。全体的に多国間の自由貿易体制の堅持をうたいつつ妥協的な実になっている。
日本政府は韓国、カナダなどと共に、コメのような基礎的食料や生産制限作物には数量制限を認めるべきという立場をとってきたが、こうした「食料安保」の主張は退けられた。
最終合意実の骨子は、以下のようである。

●農業分野
1、市場アクセス(参入)はすべての農産物につい
て非関税障壁を関税化する
1、国境措置は1993-99年の間に平均36%削減、
国内保護は20%削減する
1、輸出補助金は予算および量で削減する
●その他の分野
1、音楽用CD等レコードレンタルは、許諾(禁止)
権を義務付け。ただし条件付で代出を認める
1、現地部品調達(ローカルコンテント)の要求を規制
1, 米通商法301条などの一方的措置に歯止め
1, サービス貿易にルールを導入

<ブッシュ大統領の訪日>
国内経済と同様に支持率の低迷が続くプッシュ米大統領にとって、アジア太平洋地域歴訪の一環として1月7日からの訪日ではグローバル・パートナーシップ(地球規模の日米協力)の拡大と経済摩擦の解消でコメ・自動車間撞・日米構造協議(SII)の再活性化など市場開放が課題となる。
訪日を前にしてプッシュ大統領は、「米国は世界で最大の開かれた市場であり、我が友好国、同盟国はそこから大きな利益を得てきた。彼らも、開放貿易維持の兼任を分担しなければならない。貿易は(一方通行ではなく)双方通行であることを強調したい」と述べ、これまで米国の市場解放策から恩恵を受けてきた日本はじめアジア諸国が、今度は応分の市場開放を行うよう要求。「米国は米国の製品、サービスに村し、完全に開かれた市場を求める」と迫った。そして、「今回の訪日目的は日本の頑迷さを打ち破り、自由で公正な貿易の実現にある」と日本を名指しでかつてない厳しい調子で自動車、岡部品、コメ、金融サービスなどの市場開放を迫る「決意」を表明した。
また、米3大自動車メーカーを含む米経済界トップ十数人が初めて大統領に同行し、具体的な成果を日本に迫る事になっている。

<日米経済摩擦の歴史>
日米経済関係は、戦後の一時期を除けば、摩擦の連続であった。その内容は、日本の経済成長にともなって大きく変化してきた。60年代の繊維・鉄鋼から70年代後半の自動車・工作機械まで日米摩擦はほほ例外なく、日本の自主規制などの措置によって解決してきた。80年代の半導体・通信機器など“ハイテク”摩擦で米国は、日本側に「市場開放」を求める政策へと対日姿勢を転換した。しかし、こうした個別協議での“成果”にかかわらず、対日赤字は米国のドル高政策もあって80年代に入ると急増。84年には300億ドルを突破した。
その後、85年9月のプラザ合意による「為替調整」が行われたが、日米両国の貿易不均衡は当初期待したほど改善しなかった。このため、88年の牛肉・オレンジの自由化、対日強硬ムードを反映して制定された88年米包括貿易法スーパー301条(不公正貿易国・行為の特定・制裁)をはじめ、保護主義的色彩が浪いものとなった。89年5月には、スーパー301条に基づく特定国・行為の発表と併せ、プッシュ米大統領の提案によって、日米構造協議(より正確には、日米構造的障壁協議と訳すべき)が、日本企業の談合体質や流通機構、系列販売のほか、価格メカニズムが米企業の日本市場参入を阻止する構造問題として、双方の制度・慣行に踏み込んで貿易不均衡の改善を図ろうというのが目的で開始された。
米国には「米国産業の象徴ともいうべき自動車・工 作機械や半導体で米国を追い越し今や最後の牙城ともいうべき航空機産業にまで乗り出してきた。」と言った危機感がある。主要産業が、すでに過去のものとなり、国家としても巨額の貿易赤字にあえいでいる状況であり、日米経済摩擦は、日本の輸出自主規制から日本が米国の商品を強いて買わなければならない段階にまで来ている。そうしなければ、貿易不均衡はいっこうに解消しないのが現状である。

<日米経済摩擦の背景と特徴>
1985年9月のG5プラザ合意は、バックス・アメリカーナの終りと日・米・欧を中心とした国際協調体制に入ったことを意味している。そして、戦後80年代までの日米関係は、政治的にも経済的にも東西関係の緊張を前提として構築されてきた。米国も安全保障政策を他の政策より優位に置き、自由主義陣営の結束を乱さないよう、時には日米経済摩擦なども、それなりの配慮を加えてきた。しかし、東欧の民主化とソ連のベレストロイカからソ連邦解体まで進んだ国際政治の変化は、経済問題が安全保障問題をしのぐほど大きな存在になってきた。
この間、米国は純債務残高が89年末で約6千億ドルもの巨大な額を抱える世界最大の債務国へと転落し、日本は逆に世界最大の純債権国になった。この傾向はさらに強まる一方である。米国の財政赤字は91年度約27∞億ドルと史上最高、92年度は3500億ドル近くになる。政府、企業、個人を合わせて約11兆ドルと国民総生産の2倍に膨らんだ不便や、競争力の低下、貧富格差の拡大といった構造問遭を抱えたプッシュ政権の政策の弱点が、景気後退で一気に表面化しているのが現状である。

プッシュ政権にとって構造協議の真の狙いは日本が世界に向け開かれた経済・産業構造を持ち、米国と同質の自由経済社会にすることである。これに対して、日本側の対応は旧態依然とした対応しかしておらず経済摩擦解消に有効な手だてを講じていないのが現実である。

<日米経済摩擦の今後>
国民総生産の合計が全世界の40%に達する日米は、長く貿易交渉を繰り返してきた。しかし、半導体交渉以来日本も米国の‘最後の砦”ハイテク(高度先端技術)・軍事技術分野にまで踏み込んだわけである。この点で今までの貿易摩擦といった概念から、国力全体に関わる点にまで問題がエスカレートしてきていると見なければならない。
こうした中で、国際協調の名のもとに、以前であれば、内政干渉と言われたことまでお互いに干渉しなければならない状態まできているのが今の資本主義である。他国の証券への間接投資をしていた昔の資本輸出と違い、直接投資によって、個々の企業はグローバルにならざるを得ない。国境のない経済が広がる中で資本主義のルールを均質化することは世界経済発展に欠かせない条件になってきた。共通ルールとは、より競争的に、より透明にということである。
日米間の貿易インバランスは構造的なものであり、為替調整や政治的な解決に寄って簡単に解消される物ではない。しかし、日米の資本主義が、国独資の段階から新たな経済力の競争の時代にはいるなかで、鋭い対立を深めながらも、「日本たたき」と嫌米感情の悪循環を超えて、日米経済の一層の協調体制を確立する方向に進まざるをえない。個々の企業はグローバルに、国境のない経済が広がる中で、自由貿易体制の恩恵を一番受けたのは他でもない日本である。               (名古屋・Y)

【出典】 青年の旗 No.172 1992年1月15日

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