【投稿】長良川河口堰反対 4/11東京デモ報告
青年の旗読者の皆さんにはおなじみの長良川河口堰反対運動。いよいよ本当の正念場であります。6月にブラジルで開催される「国連・環境と開発サミット」(地球サミット)や4月の世界賢人会議などに焦点を絞って年明けから全国で反対運動が強められてきました。河口堰建設現場では既に13本の内8本のピア(堰柱)が完成しようとしており、今年度予算250億円が執行されると、河口堰の全体が完成するわけです。
4月11日のデモはこうした中で、昨年10月の5000人の東京デモに続いて、敢行されました。東京代々木公園には午前10時から全国の反対する会はじめ自然保護団体が環境フェスティバルを開催し、午後1時から上記の集会が開催されました。主催者発表はなかったのですが、参加した私の読み(?)では、全体で1500名程の皆さんがデモに参加しました。自治労も「環境自治体」作りの立場から組織的に参加。大阪府本部はじめ、地元の岐阜、愛知、三重県本部、東京都本部から五百名以上の組合員がデモに参加していました。
集会では、社会党(はせゆりこ、旭堂小南陵)、共産党(上田幸一郎)、田秀夫参議院議員などが国会報告、野田知祐、近藤正臣、夢枕漠などがトークに参加。自治労本部鈴木政策局長、長良川地元の運動家、全国の自然保護団体がそれぞれ発言し、建設一時中止を訴えました。集会後は、土曜日の午後とあって道行く人も多い中を渋谷・宮下公園デモ行進を行いました。
<既に根拠を失った河口堰建設>
川幅661mの長良川をせき止めて3千万トンの水を貯める必要があるのでしょうか。。建設省は32年前に河口堰建設の計画を立て、23年前に閣議決定されたわけですが、当初は東海地方の工業地帯への都市用水供給の計画でした。しかし、現在そんな水需要は存在していないのです。その後、災害など治水対策が強調されましたが、むしろ河口堰建設による災害の危険が指摘されてきました。最後に残った「塩害」も昨年の参議院環境特別委員会の答弁で実態のない議論であることが証明され、すでに河口堰建設の根拠は全くなくなってしまいました。今は建設省のメンツしか残っていないのです。
むしろ、日本の自然を守ること、全国で釧路川と長良川しか、ダムのない川は残っていないこと。長良川に生息する豊富な魚類を守ることができるのか、に対して建設省は弁解をする立場になっています。建設省は、4月に河口堰に環境に与える影響について追加調査を発表しているが、調査を行ったのは建設省の外郭周体であり、「堰は出釆ても環境への著しい影響は避けられる」という内容だった。この発表に先立ち、3月に財団法人日本自然保護協会は、堰の建設は環境に悪影響との独自調査報告を発表しているが、建設省の調査結果は、この独自調査の問題点に応えるものでなかった。
<運動的には 少し中だるみか?少ない参加者>
確かに建設省の根拠はなくなった。地元の住民アンケートでも反対が大勢になった。マスコミも味方になっている。自然を守れの声に建設省も弁解する立場になった。また、ワシントン京都会議でも主催者のエジンバラ候が長良川問題に言及するなど国際世論も出てきた。地球サミットでも話題になりそう。しかし、である。運動としては少々道に迷った感もある。それは、国会や政治の場でも反対運動の力が増しているなか、反対運動指導部の中に少し「突出」が目だっているのではと考える私である。集会の準備の段階から「世界賢人会議で竹下が河口堰建設一時中止をぶち上げる」だとか、「河口堰が出来ても建設省は、堰を止めることはない」とかの勝利色を匂わせ、あとは動員を増やせばいい、というような空気があった。要するに10月の頃ように運動の具体的な目標が明示されず、「環境問題の長良川」みたいなおごりとも取れる空気を私は感じていた。案の定、集会、フェスティバルも参加した者としては、さびしい状況だったわけだ。(昨年10月は5000人はいたはず、それも雨の集会、デモだけに)集会の1週間前、浦安でシンポジュームが持たれたが、1000人規模の会場に250名ぐらいの参加だったと聞いているほど。
確かに、自然保護運動としてかつてない高まりと広がりを見せた河口堰建設反対運動だが、今後どう発展させるかについて、反対する会での真剣な議論が必要であろう。
この運動を契機に全国の自然保護運動のネットワークは生まれつつあるが、さらに各地方毎の連携や地域での環境グループの結びつきの問題など課題は多い。
また、我が組合である自治労も「環境自治体」創りを打ちだしたが、単に行政政策のレベルでの対案形成だけでなく、基本的に組合員一人ひとりの生活からの環境運動をどう創るのか大切だと思う。流行だからと環境問題を取り上げるというのでは、ダメである。環境問題は生活の根底からの発想の転換が基本だからである。(大阪 H)
【出典】 青年の旗 No.175 1992年5月15日