【投稿】ペレストロイカヘの「希望」
-シェワルナゼ前ソ連外相の著書に関連して-
<朽ちても古びてもいない>
シェワルナゼ外相が突如人民代議員大会の壇上から辞任を発表したのは、昨年12月20日であった。彼はそのとき、ベレストロイカがもはや危機に瀕していること、独裁が近づいていることを警告したのであったが、それにしても新思考外交の推進者であり、ゴルバチョフの盟友である彼が、なぜその盟友を放り出してまで辞任しなければならないのか理解に苦しむところがあった。さらにクーデター失敗後に解放されたゴルバチョフ大統領に対して突き放すような厳しい評価を下したことに対しても、共に協力しあわなければならない相手に対してこれでいいのだろうかという疑問が消し得なかった。それらの疑問の一部が今回の著書によって氷解することはまちがいない。また先のクーデター騒ぎによって、彼の警告が現実化したのであるからなおさらである。
今回の著者について、これはルポルタージュであって、回想録ではない、「回想録は引退する人間にふさわしいものだが、私はまだ政治の世界から離れる気はない」と彼は断言している。その政治の世界で彼が「きわめて貴重なもの」としているのは、当然のことであろうが、やはりベレストロイカである。「まだそれは朽ちても古びてもおらず、従って見捨てられたり忘却の運命にあるものではない。ベレストロイカは擁護を必要としている」と強調している。擁護が必要ならば、なぜその立場から辞任というような一回限りの警告ではなく、継続して反ベレストロイカ勢力を糾弾し、孤立化させる共同戦線を形成する方向に外相という立場を徹底して利用できなかったのであろうか?
<陰の権力の登場>
事態はそんななまやさしいものではなかったのであろう。すでにその当時、「1990年の9月から12月にかけて、これ以上外相を続けるのがむなしく、無価値であると思えるような動きがさらに際立ってきた。われわれの眼の前で、新思考政策のスタミナが力尽きようとしていた。」という。「一つだけ例をあげよう」として、明らかにされた事実は、90年11月パリの全欧安保協力会議首脳会議で調印された欧州通常戦力削減条約に関するものである。条約によって廃棄されるべき特殊戦車部隊の数千台の戦車を、ソ連国防相と軍参謀本部が、条約対象外のウラル山脈以東にひそかに隠し、海軍所属部隊の色に塗り変えてごまかしたという事実である。このことは日本の新聞でも報じられていた。「問題は、国の最高指導部の-員(である私)が、それについて外国の報道ではじめて知ったということだ。これまであらゆる点で逃げ口上などと無縁の、率直でざっくばらんな関係を築き上げてきたパートナーたちに向かって、ソ連外相である私が、既成事実を後日弁明する羽目になるとは‥…・」。
当然彼は、ゴルバチョフ大統領に抗議を行った。大統領は軍事顧問のアフロメーエフ元帥に事実を明・らかにするように命じた。するとアフロメーエフは、この措置を無条件に正当化するメモを届けた。「私の抗議は、彼の金属の輝きを持つ論拠の前に色あせてしまった」というのである。大統領は決然たる行動を起こすべきだったのであろうが、不決断のまま、自らの依拠すべき改革派勢力、民主勢力を見い出しえないまま、ないがしろにされることとなった。軍の首脳達は、この時点ですでに自らも大統領と共に条約交渉に参加し合意してきた内容を、何の恥じらいもなく、大統領にも遠慮なく破壊し始めたのであった。つまり、「陰の権力は失地を回復しつつあった。晴間の中から顔を出し、公然と行動を開始した」のである。
<保守派過信の経緯>
そこでもはや外相辞任という選択以外に、道は残されていなかった、という。しかし「私の辞任は、不同意、反対、そして警告を込めた行為だった」のであり、「それに私は友人を見捨てたわけではない。辞任することで、彼が目標を取り戻すのを助けたいと思った」のであった。「私は警告し続けてきたのだ。だがなにも効果はなかった。」辞任は結果として、改革派勢力を落胆させ、ゴルバチョフを保守派の囚われ人にしようとする勢力を勇気づけたといえよう。辞任声明と同時に、「独裁の亡霊にとりつかれた人騒がせな男」「責任への不安」「批判に対する神経過敏さ」「シェワルナゼの神経は参っている」などといった非難が、ルキヤノフやヤナーエフといった後の非常事態国家委員会をでっち上げた陰謀8人組から発せられた。「私に向けられた非難の合唱の中でモスクワのボナパルティズムは登場を待ちわび、ブリユーメル18日がすでに意図されていた」わけである。
かくして「陰の権力は合法的権力のかたわらで快適に過ごし、姿を隠すこともなく、合法的権力構造の破壊工作を行っていた」のである。91年1月のバルト諸国に対する軍事力の行使・流血事件に対しても、大統領は知らされていなかった、黒幕が誰かは知らないと述べて、その責任さえ問われないという事態にまで進展した。あのあまりにもおざなりなクーデター騒ぎは、このような経過からすれば簡単に権力を奪取できるし、たいした反撃もないであろうと過信した保守派勢力の時代錯誤にあったといえよう。結果としてゴルバチョフが彼らの期待するような囚われ人ではなかったし、63年、同じくクリミアで休暇中のフルシチョフ首相を嶺室で勝手に更迭しえたときとは違って、なによりもソ連社会はベレストロイカによって大きく変化し、これまでのように従順に非民主的な政変劇を黙って見過ごすような社会ではなくなっていたのである。
<しのび寄る第2の政変>
ソ連週刊紙モスコー・ニューズ(10月13日号)によると、第2の政変の危険を警告した文書(米国カナダ研究所、欧州研究所、KGBの幹部、専門家らが作成した情勢分析文書集)が出され、それは「しのび寄る政変」の形を取り、来年1月中旬から末にかけてその時期に入り始めるという。それは去る8月の喜劇的な政変とは似ても似つかぬ本格的な政変であって、その指導者となるのは先のクーデターを支持しなかったKGB一共産党一軍産複合体の第2陣であろう。現在これら軍産複合体に従事している人々は1140万にも及んでおり、解雇されつつあるKGB、共産党の要員達、住む家も持たずにドイツや東欧から引き上げてくる10万人以上の将校達がさらにこれに加わり、これらの人々は死に物狂いで戦うだろう。反乱は冬を越す燃料の枯渇、商店の棚が空っぼになる事態に呼応して、「パンをよこせ」に始まり、急速に協同組合商店への攻撃、商業網センターの奪取、自主管理委員会の結成、軍の分裂、民族間紛争の内戦に発展する頃、政変の本物の指導者達が登場するだろう、というのである。この文書集では、このような事態をいかに阻止するかについて、現在の勝利者たち(民主勢力)が権力を手中に収め、中央の統治機構を創設し、諸共和国間の集団安全保障体制の創設条約を締結することを提案しているという。
この文書の流布はKGB筋の挑発という見方もあるが、事態の深刻さが放置されている限りは楽観できないであろう。シェワルナゼ氏が著書の最後で「まだ多くのことが起こり得る。幸福感に溺れていてはならない。まだあらゆる可能性がある。最後の戦いを決心した社会機構が断末魔の叫びを上げているときには、あらゆることが起こり得るのである。八人の共謀者が陰謀のすべて、独裁のすべてではない。彼らは多くの支持者を当てにしなかったから、暗黒の目的を実現できなかったのだろう。」と述べているとおりである。
<「希望」はどこにあるのか>
現在の勝利者たちが民主勢力であるといえるのかどうかは別として、保守勢力が大きく後退した現在、自治と分権、公開と大衆参加、そして三権分立にもとづいた民主主義的基盤(そして、これこそが追求されるべき社会主義的基盤であろう)を制度的にも社会的にも確立する大きな可能性が存在していることは間違いない。にもかかわらず「全体主義の大学から民主主義の(より高度な)大学院へ移行する過程には、病的な行き過ぎと喪失が満ち満ちていたことが証明された」のであり、「権力を欲する者達は民主的な制度を、横暴な要求をカムフラージュするために公然と利用してきた」ことが厳然たる事実である。「我々は政治的には無知だった。上から指令を出すという古い方法で、新しい現実を築こうとしたのだ」という切実な反省は、著者やヤコプレフ氏らが共同議長として組織している「民主改革運動」等々、ベレストロイカを支え、大衆自身のものとして現実化する組織、運動、党の再構築、そしてそれらの結集と共同戦線を最大の課題としているのではないだろうか。著者は、「希望」の最後を「一度始めたことは、続けなければならない。このために語り、書き、行動しなければならない。」と結んでいる。
(エドアルド・シェワルナゼ著「希望」91.10.30.朝日新聞社発行 2200円)
(生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.169 1991年11月15日