【投稿】「健康自己責任論」の押し付けによる医療・公衆衛生の社会的共通資本の破壊で、新型コロナウイルスの対策が迷走
福井 杉本達也
1 特異な感染症である新型コロナウイルス
新型コロナウイルスには、これまでの感染症とは異なり、感染しても大部分の人は無症状から軽い上気道炎症状だけで終わるが、一部の人のみが重症化する。突然に肺炎を発症し、一部は急速に進行し、重い呼吸不全を起こしてしばしば死に至る。その他、腎障害、凝固異常なども起こる。また飛沫や飲食物などで口から取り入れ、腸管を通じて感染する。したがって冬季ばりか夏場にも感染しやすく、重症化すると回復に時間がかかり、回復しても肺機能がダメージを受けるなど、やっかいな感染症である。
厚労省のボタンの掛け違いは、新型コロナウイルスを第二種感染症にいきなり指定したことから始まる。指定したことで、感染者は軽症者を含め指定病院に隔離しなければならない。ところが軽症者・無症状者が多かった。そのため、約1800床の指定医療機関の病床はすぐ満床となってしまった。病床が著しく逼迫したため、発熱後4日間という強い縛りを設け極端にPCR検査数をしぼった。結果、感染者が地下にもぐり、また、重症化することとなり、東京都や大阪府などでは医療崩壊につながった。
2 結核の減少と国の公衆衛生行政からの撤退
日本における感染症の代表格は結核であるが、「労咳」と呼ばれ、古くから日本に多く見られる病気の一つであった。国民病・亡国病とまで言われるほど猛威をふるい、1950年代まで肺結核は死亡原因の1位を占めるなど、日本における公衆衛生政策の中心であった。特に繊維工場ではたらく女性労働者には感染が多かった。長時間労働や深夜業による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となっているが、工場内では糸を保護するため湿度が高かったことも結核菌の増殖を助けた。国は公衆衛生対策として、各地に病院や療養所を設置し、保健所を配置した。福井県内でも福井勝山総合病院は繊維産業が集中し、女性労働者の結核患者が多い勝山市(当時町)に町立病院として設置され、戦後、国有化された。1960年代までは一般病床107床に対し、37床もの結核病床をもうけていた。
しかし、2000年代、結核などの感染症が減少したことで、国は感染症対策の第一線から撤退し、国立病院の廃止や自治体への移管などを行った。福井県においても鯖江市では国立鯖江病院が公立丹南病院として移管され、若狭町の結核感染症の拠点だった国立療養所福井病院も公立小浜病院に移管、国立療養所北潟病院も重症心身障害専門施設・国立病院機構あわら病院に改組された。医療費削減の流れの中で、“儲からない”感染症病床の削減が進められた。感染症病床の多くは自治体病院が負担することとなった。
3 「健康自己責任論」の台頭と、「保健予防」から「健康増進」への転換
1994年には保健所法が改正され地域保健法となり、1998年には伝染病予防法なども感染症法に改正され、2007年には結核予防法も感染症法に組み入れられた。結核のような大規模な感染症は起こらないものと想定され、海外から持ち込まれるエボラ出血熱など特殊な感染症に対応すればよいとされた。それも空港などの検疫体制で水際で食い止められるものとして想定され、国内で蔓延することはないとされた。社会的共通資本としての医療・公衆衛生システムは縮小された。2000年には「健康日本21(第一次)」が制定され、2002年には健康増進法が成立した。病気の「治療」から「⽣活習慣は、基本的には個々⼈が⾃らの責任で選択する問題である」とする生活習慣病の「予防」へと大きく舵を切った。個人への健康教育とそれによる個人の行動変容(自己責任に基づく自助努力)が政策化された。保健師の役割も「公衆衛生」から「健康づくりの推進」、「生活習慣病対策」に重点が置かれるようになった。健康自己責任論は、医療・公衆衛生の社会的役割を放棄し、国民に健康への自助努力を強要し、感染症・生活習慣病が予防でき、医療費が削減できるという、「新自由主義的」色彩の濃い政策である。しかし、「予防」によって医療費が削減できるというのは何のエビデンスもない。これまでの医療経済学の多くの研究によって、予防医療による医療費削減効果には 限界があることが明らかにされている。それどころか、⼤半の予防医療は、⻑期的にはむしろ医療費や介護費を増⼤させる可能性がある(権丈善一『東洋経済』ONLINE 2018.9.14)。「予防医療推進で医療費を抑制できるとの言説発信源は経済財政諮問会議と経済産業省です。彼らは、健康寿命を延ばして平均寿命と健康寿命の差(不健康な期間)を短縮させることによって医療費を削減できると主張しますが、予防医療に健康増進効果があるとしても、健康増進によって累積・生涯医療費はむしろ高くなって」しまう(二木立2020.6.1)という。疾病の発症は、生活習慣要因の他に遺伝要因、外部環境要因など個人の責任に帰することができない複数の要因が関与している。これは、結核でも新型コロナウイルスでも変わらない。
4 医療の現場から手を引いても、「権限」と「財源」は手放さない厚労省
国は医療の第一線から引いたにもかかわらず、厚労省→感染研→県・保健所という古い“指揮命令”体系は残し、自治体に財源も含めた医療の権限移管を行わずに来た。さらに、近年、厚労省は病床削減が進まないことに業を煮やし、直接地方自治に介入。2019年9月には公立・公的病院のうち地域医療構想において再編・統合の必要があるとする424の病院の名称を公表し、病院の統合など、の具体的方針を1年以内に見直すよう求めた。財政によって地方自治体を締め上げる作戦である。
こうした脆弱化した医療・公衆衛生体制の下で起きたのが新型コロナウイルス感染症であるが、仁坂和歌山県知事や大村愛知県知事などは国の“指導”に従わず、徹底したPCR検査を行った。一方、検査を徹底せず、パフォーマンスのみの小池東京都知事や医療資材の不足を雨がっぱでごまかそうとした松井大阪市長のように、公衆衛生における自治体の役割を放棄する自治体も多々ある。感染症を「自粛」や「手洗い」・「ソーシャル・ディスタン」・「夜の街」・「ステッカー」といった個人の責任を前面に対処しようとする試みには危うさを感じる。「病気になったのは、自分(の生活習慣)が悪いからだ」という攻撃的なメッセージが込められている。いま自治体に求められるのは、患者の早期発見と適切な医療につなげること、院内感染対策、現状を正しく住民に伝える情報公開の徹底、経営難に直面する医療機関への支援である。再度、医療・公衆衛生を社会に位置付けること・社会的共通資本への組み直しが求められている。新型コロナウイルスに感染したボリス・ジョンソン英首相が「コロナウイルス危機がすでに証明した一つのことは、社会なんてものはほんとにあるんだということだ」と口にしたように、我々はこれまでの新自由主義的医療・公衆衛生政策を根本的に反省しなければならない。