【書評】 『白い土地—-ルポ福島「帰還困難区域」とその周辺』
(三浦英之著、集英社クリエイティブ、2020年10月、1,800円+税)
東京電力福島第一原発の事故後に、放射線量が極めて高く、住民の居住ができない「帰還困難区域」が指定された。しかしその中で2010年代後半に、「特定復興再生拠点区域」(国が積極的に除染して2023年までに避難指示を解除する=住民が住めるようにする区域=「還れる」区域)とされる地域が新たに定められた。
《白・地》(しろ・じ)とは、これ以外の地域、つまり将来的にも住民の居住がまったく見通せない地域=「還れない」区域=約310平方キロメートルを指す行政用語である。
本書は、この地域に焦点を当て、そこで生き抜く人々の様々な局面を切り取るレポートである。前著『南三陸日記』(2019年、集英社文庫・・・本誌2020.1.23付に掲載した)でも見られたが、個人の生活・体験という小さな切り口から、日本社会の大きな流れが見えてくる。
中でも注目されるべきは、本書の第五~七章(「ある町長の死Ⅰ~Ⅲ」)での、原発の北西部に隣接する浪江町の馬場有(たもつ)元町長(2018年6月27日死去)へのインタビューであろう。馬場は震災前の2007年に町長に就任し、その後の原発事故や6年に及んだ全町避難の対応に当たった当事者であった。その浪江町は「悲劇の町」と呼ばれる。
「町内に原発が立地していないにもかかわらず、原発の爆発事故によって巻き上げられた大量の放射性物質を含んだ雲(プルーム)が浪江町内を縦貫するかのように北西方向へと流れ、(略)町域全体が極度に汚染されてしまった。国や福島県は当時、それらの雲の流れを事前に察知していたが、その情報は浪江町には伝えられず、町は結果的に──あるいは悲劇的に──町民をあえて被曝する危険性のある地域へと避難させてしまった」。
その馬場はかつて原発推進派であった。
「『決して馬場さんだけじゃないんです』と馬場の死後、町長の椅子に座った吉田数博は(略)言った。『過去のすべての町長が皆、ここまで原発の「安全神話」に漬かっていました。立派な公共施設などで絶えず財政的に豊かな隣の立地自治体と比較される。原発を欲するのは、いわば「原発周辺自治体」の宿命なのです』」。
しかしその馬場は、原発事故後2カ月も遅れて福島県の担当者が「SPEEDI(緊急時迅速放射能予測ネットワークシステム)」の拡散予測を浪江町に伝えなかった事実の報告を受けて、謝罪する担当者に向かって詰め寄る。
「放射能の汚染予測がわかっていたら、私は決して町民を津島地区(註:浪江町北西部)には逃がさなかった。あのとき、避難所の外ではたくさんの子どもたちが遊んでいた。あなた方の行為は、あるいは『殺人罪』に当たるのではないですか──」。
また東京電力の幹部が、避難先である二本松市東和支所の仮役場を訪れたときである。
「どういうことなのか、まずは説明してください」と馬場は爆発しそうな憤りを抑え、ひとまず相手の言い分を聞こうとした。「東京電力と浪江町は通報連絡協定を結んでいた、それはご存じですよね」/「はい」/「それなのに原発事故が起きたとき、東京電力からは浪江町に何一つ情報が寄せられなかった。結果、我々は震災の翌日に急きょ避難を強いられ、まだ沿岸部に残っていたかもしれない町民の救助にあたれなかった。その責任を、あなた方はどのようの考えておられるのでしょうか」。
しかし埒が明かないので馬場は、取りあえず避難所の寒さを防ぐための暖房器具の寄贈を東京電力に要請した。その話を聞いて随行していた東電社員が書面を取り出して幹部に渡そうとした、その時、書面が社員の手から滑り落ちて馬場の足元にはらりと落ちた。
その書面を拾って見たとき、馬場は体中の血液が沸騰していくのがわかった。/《ストーブ=大熊町、双葉町四〇台、浪江町五台・・・》/(略)/「あなた方はいつだってそうだ」と馬場は抑えきれない怒りをかみ殺すように震えながら言った。「原発が立地している地域にしか意識が向かない。今回の事故の最大の被害自治体は大熊町や双葉町じゃない。双葉軍最大の人口二万一〇〇〇人を抱える、わが浪江町ではないのですか──」。
原発推進派であった馬場が、事故と町民避難の現実に直面して吐露した言葉である。この後馬場は死の直前まで奮闘するが、2017年2月には避難指示解除に伴う町民の帰還に関する苦渋の決断をする。しかし「避難指示の解除から半年で町に帰還した人はわずかに約三八〇人。町内にはスーパーや病院はなく、新設された小中学校への入学希望者は一〇人に満たない。帰還住民のうち少なくない人が『こんなことなら戻らなかった』と嘯き、その不満の多くは今、馬場町政への批判となって町役場に寄せられている」。
ここに政府、福島県、東京電力を信じてその政策に振り回された首長の軌跡が記されている。
本書ではさらに、浪江町では実は震災が起こる直前には土地買収がすでに98%まで完了していた「東北電力浪江・小高原発」計画があった──町議会が誘致運動を展開していて、震災がなければここには原発が建設されるはずであった──ことが語られる。この土地はその後どうなったか。
「東日本大震災後、浪江・小高原発の建設計画を撤回に追い込まれた東北電力は、『用済み』となったその広大な土地を浪江町に無償で寄付し、その後、原子力行政の失敗による損失を償うかのように経済産業省が国の水素製造施設の建造計画を立てていた」のである。
そしてここには2020年3月「フクシマ水素エネルギー研究フィールド」(FH2R)が開所し、水素燃料の製造施設が建設された。同じ3月、浪江町は「ゼロカーボンシティ」を宣言する。そして本年3月25日、この水素燃料を灯した聖火リレーが駆け抜けたのである。浪江町のホームページにはこの記事が誇らしげに掲載されている。
あまりの不条理に言葉もない。しかしそこには厳然と資本の論理が貫かれている。
本書の最終章では、こう語られる。
「東京は次なるオリンピックの開催を機に過去を拭い去り、再興に向けて勢いよくスタートダッシュを切るだろう。あるいはこのままオリンピックが開かれなかっとしても、何かまた別のイベントを作り出し、『成功』を演出するに違いない。(略)でも福島はきっと東京のようには前に進めない。拭い去ることのできない、あまりに多くのものをすでに抱え込み過ぎているからだ。それは廃炉作業が思うように進まない壊れた原発であり、帰還の見通しが立たない《白地》と呼ばれる帰宅困難区域であり、癒えることのない人々の心の痛みだ」。(R)