【追悼】森信成先生の急逝を悼む(大阪労働講座)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成先生の急逝を悼む
                      大阪労働講座実行委員会

 森信成先生の突然の死は、我々を深い悲しみに陥れた。その日、大阪労働講座実行委員会のメンバーは、社会科学入門講座を無事終え、受講者とともに兵庫県香住の海辺に真夏の一日を楽しんでいた。しかし、森先生急逝の悲報が伝えられるや、我々はしばらくそれを信じられず、ただ茫然とするばかりであった。聞けば、大阪労働講座主催の社会科学入門講座が先生の最後の講演になったという。いま我々は、六月一七日の哲学コース最終回において、先生が、お身体の調子が余り良くないと言われながらも、あの張りのある確信に満ち溢れた話し振りで弁証法あるいは偶然と必然について講演されていたのを悲痛な気持で想い起こす。おそらくその時、すでに病気は先生の痩身を冒しており、先生は最後の気カを振りしぽって我々に語りかけておられたのに相違ない。
 思えば、先生は大阪労働講座のかけがえのない大きな支柱であった。労働講座の運営についても、労働者教育には労働者の意識水準の把握が大前提であることなど、しばしば貴重なご忠言をいただいた。こうして、1967年1月25日の桃谷における第1回連続講座から死の直前まで、我々は先生から限りない励ましとご支援をいただいたのである。いま我々は、先生に対して感謝の気持でいっぱいである。
 いうまでもなく、先生は、日本の生んだ数少ないマルクス主義哲学者のひとりであり、常にマルクス主義の原則性と党派性を擁護するための闘いの最前線に立っておられた。同時に先生は、マルクス主義を真に労働者階級の闘いの武器とするために、労働者のなかにおける啓豪活動がいかに重要であるかをカ説され、みずからも寸暇を惜しんでそれに精魂を傾注された。先生の戦後の出発が尼崎労働学校における労働者教育であったと伝えられているが、これは決して偶然の出来ごとではなかろう。その後、先生は、マルクス主義のさまざまの偏向とのきびしい理論闘争の最中においても、大教組、大阪唯研などにおいて熱心にマルクス主義の真髄を説かれた。
 我々が先生から教えられ、運動の指針としてきたことは余りにも多い。我々が労働運動のなかにおいてともすれば陥りやすい経験主義・実感主義を強く戒められ、我々を必然性の洞察—-我々の意識から独立の客観的存在とその発展法則の認識へと駆り立てられたのは森先生であった。また先生は、今日労働運動の内部に根強く残存している階級協調主義が運命共同体思想すなわちブルジョア民族主義と深い連関を有しており、その克服が急務であることをくり返し強調された。さらに、死の直前においては、一部左翼が労働運動を放棄し、市民主義・議会主義に転落しているその哲学的基礎を明らかにされ、我々が階級的視点を堅持するうえでの大いなる教訓を与えられた。
 いま、自本の労働運動は、世界資本主義の危機が深化するなかで、大きな転換点に立たされている。すなわち、労働者階級が激化する帝国主義間の矛盾に幻惑されることなく、先生の長年の主張であった—-社会進歩の基準=生産力の発展=労働者階級の要求にのみ基礎をおく強大な労働戦線を構築することが要請されている。この重要な時期に森信成先生を失ったことは、我々、ひいては日本労働者階級にとって計り知れない打撃であり大きな不幸である。しかし、森先生が、壮絶ともいえるその全生涯を賭けられた日本労働者階級の解放という大事業はなんとしてでも為し遂げられねばならないし、これこそが、ほかでもない森先生の我々に残された最大の任務であると考える。
 我々大阪労働講座実行委員会は、いまここに森信成先生の霊の安らかならんことを願うとともに、先生の生前の遺志を継いで、これに一歩でも二歩でも迫るべく、微力ながら全力をあげることを誓うものである。 (一九七一・九・二四)

 

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