「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼
森信成の死とその生涯
小野義彦
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われわれの親しい友森信成は、五十七歳という若さで、さる7月25日午前6時、阪大病院で突然死んだ。その少くとも半時間前、彼の体内で彼の生命を奪うほどの何らかの飛躍的異変が起り、一言の遺言を残すとともなく彼は死んだ。天性快活であけっ放しの才気にあふれていた日頃の彼とは打って変わったその最期の姿が余りにも強い印象として私の眼底に残っているので、まだ彼について書くのは早過ぎるような気がする。
彼のあのように早い死は誰にも予想されていなかったので、病状の急変に気がついた病院関係者以外、彼の肉親者もわれわれも誰一人臨終に立会うことはできなかった。だが、われわれを驚かせ悲しませた彼の死は、その病死という厳然たる事実からふり返ってみると、必ずしも偶然ではなかったように今は思う。
7月18日の午後京都大徳寺の済生会病院五階の彼の病室に、本誌編集部のM君とともに見舞ったのが、ついに彼との最後の出会いになってしまった。そのとき私は、一見して彼がひどく痩せて衰弱しているのにおどろかされた。六月末に市大の研究室で会って話したときにも、疲れているとは感じたが、そんなに痩せてはおらず、中国問題や学生運動のことなど夜九時頃まで語りあったが別状はなかった。 そのニ、三日前には 「大阪労働講座」 で長時間の哲学の講義もしていた。胃かいようと肋間神経痛の疑いというのにこの衰弱ぶりはどうしたのであろうかと訝って付添婦にきくと、患者がわがままで病院の給食をたべないからだという。そのとき森は付添に遠慮しながら 「喰えるようなものがないんや」 とつぶやいた。 四~五日間もほとんど何もたべていないらしいだけでなく、「右に寝ても痛いし、左に寝ても痛い、上向きにも寝てられへん」、「こんどのは前のと(彼は以前にも胃かいようを患ったごとがある) はちがう、桃山病院でとったレントゲンは胃は白やいうとるのやが」 ともらした。 それについては先の付添が重ねて口をさしはさんで、患者さんが胃カメラをのんでくれないので、はっきりした診断がつかんのですという。私はますます訝らざるをえなかった ものが喰えないのに、喰わないから衰弱するでは、いったいどうなるのか。私は医者ではないから、森の食欲が衰えている深い理由は判らないが、彼の病室の暑さの故もあろうと感じた。その病院は鉄筋ではあったが古い建物で冷房はなく、しかも森のベットは最上階の五階にあって健康な者でもたえられないほどに暑苦しかった。何とか冷房のある病院に移してせめて食物がロに入る状態にでもしなければ精密検査にもたえられないのではないかと思って、その場ですぐ彼に、自分の大学の病院で設備も新しい市大病院に移ってはどうかとすすめた。ところが彼は「市大病院はいやだ」という。なぜかときき返すと、どうも去る大学紛争中の医学部問題にとだわっているらしい。そんなおかしなことはない、紛争中、君は医学部の教授連の身代りになって監禁されひどい目にあったのだから大いばりで入院したらいいのだよ、そんなことを気にするのは君らしくもない—-と説得すると、急に気が変って、「ではそうするか」 と案外すんなり移る気になってくれた(本人の意志なのだからと私は翌日早速大学の事務局をつうじて上等のベッドを予約してもらったのだが、この件は森を京都におくこと
を望んだ家族の同意がえられずお流れになった。)
看護婦の注意で面会は30分位ということであったが、彼がもっといてくれというので、二、三日前に発表されたニクソン訪中情報のことなど話し合った。すると急にうれしそうな顔をして 「米中接近は反ソやろ、そやないか」とか、ドル危機の見とおしはどうやとか、「知識と労働」の3号にはぜひ続篇をかきたかったんだがこんどはムリやなァなどと、かなり努力して、時々私の耳を近寄せるよう求めながら語った。彼を刺戟しないよう簡単に合槌をうつ程度にして、まあ、涼しい病院にでも移って元気が出てきたら大いにそういう問題を話し合おうと話しを打切った。私が帰りかけると彼は、私がが見舞いに持参したグレープ・フルーツとサンキストのオレンジに手を延ばして 「それ絞ってほしいねん」と真顔でたのんだ。もし患者が飲めなければ御家族にでも位の気持でもっていった私がびつくりして付添婦にはかると、「患者さんはビタミンCのとり過ぎですよ、これ以上飲んでどうします。オシッコが臭そなるだけですよ」 と叱られた。何もたべられない人が欲しいといってるのだからと看護婦室にまでききに行くと、センイ質がないよう絞ったものなら構いませんという返事だったので吸い飲みにして口にふくませてやると、「うまい、うまい」 といって咽喉を鳴らしながら全部飲んだ。私はよかったと嬉しくなり、いろいろ考えたあげくこの見舞品がよかろうとすすめてくれた妻の助言に感謝した。
森の予想外の病状とその病室の状況からしてこのままにしてはおけないと強く感じた私は、その日大阪に帰るとすぐ友人たちに電話して集まってもらい対策を協議した。その人たちの中には、唯研で森の教えをうけた医師の諸君もいて、翌日すぐ京都の病院を訪ねてくれることになった。彼らの判断は、 一、潜血反応が強陽性なので精密検査により早急に出血部位とその原因をつきとめる必要がある。 二、全身衰弱と体重減少がきついので冷房の完備したところが望ましい。 三、血圧は正常なので現在の状態なら大阪までの救急車輸送にはたえ得る、ということであった。問題はだが、家族の同意がえられなければ、済生会病院の方でも転院を認められないであろうという点にあった。さらに困った事情は、家族の同意がないという事が弱っている森自身の神経にも影響して本人自体自体の意志も何度かぐらついたことで、 「知識と労働」の同人たちが連日京都に往復して、やっとのことで、本人と家族のの同意を得、七月二十三日に阪大病院山村内科への転院が実現した。救急車での移送には前記医師が立会い、同乗もしてくれた。 その日の12時半頃阪大の病室に移り、2時には教授回診をうけた。冷房のきいた新しい病室に移った森は「気分がいい、移ってよかった、有難う」 と割に元気に語ってくれたということをきいて、私をはじめ同人一同安堵した。私自身は、森とその家族たちに余計な心配をかけてはいけないという同人たちの忠告に従って、少くとも「面会謝絶」期間中は病室を訪ねないことにし、同日夜からかねて約束していた大阪労働講座の一泊合宿(兵庫県香住)に出向いた。森が阪大に移った二十三日は金曜日で、翌土曜日は精密検診ができず、阪大では二十六日の月曜日にそれを行う予定で、万端の準備を整えていてくれた。それなのに、森の病状はそれを待たず、二十五日の早朝に異変を生じ、まもなく永眠した。
その日の朝、大阪からの電話で森の急死を知らされた私は、車で急遽引返し、正午頃阪大病院に直行したが、彼の遺体はすでに京都の自宅に引取られた後で病院にはなかった。阪大の主治医が求めた解剖は家族の同意が得られず、死因は「急性心不全」と発表されている。何とも救われない気持に暗然として、同行した同人の生駒君と共に当直医の説明を求めると、森のカルテを示してその医者は、断定的なことは何もいえないがと断りつつも、二十三日転院直後の回診のあと行われた十数名の医師のディスカッションでは、そのほとんど全員が「悪性のもの」 ではないかという印象で一致していた、しかし血圧は九〇~一一〇位あり(森は元来低血圧であった)、このように早く異変が起るとは予想されず血液検査の結果からも輸血の必要もなかった。後から考えれば、肋間神経痛という疑いは、おそらく「悪性なもの」 の 「転移」であったのではなかろうか、今早朝の異変は、その結果として大出血を起したものとも考えられる、というような説明であった。
以上が、 一人の科学者、唯物論者の予想外に早い死をもたらした直前の事実についての私の報告である。何のために私がこのようなことについて改めて書いておかねばならぬと感じたか、それについて一言しておく必要があろう。それは、私たちを含めて彼の周囲の者たちの、病気や人の健康状態に関する無智と不注意がなかったかという反省からである。森の死後、明らかになったいろいろな事実、お通夜に集まった人たちの話などをつき合せてみると、森の健康上の変調を示す事実はほとんど一年、少くとも半年以上も前からいろいろとあらわれていたからである。まず私自身の発見からいうと、昨年の七月ニ十五日—-それは奇しくも森の死の正しく一年前にあたる—「知識と労働」発刊の相談をまとめた後私の家の前で写した写真の中の彼は、凛然として少しも衰えらしいものをみせていない。 ところがその半年後の今年の正月、創刊記念の集りをもったときの写真を比べてみると、彼だけが椅子に頭をもたせかけて、痩せて気むつかしそうな、生気の失せた容貌で写っているのである。友人たちの記憶では、去年の秋頃から何となく元気がなくなり、彼の持前の陽気さと放言癖が消え、また大学の将棋友達のいうところでは、昨年末頃からはメシより好きであった将棋も絶えてやろうとは言わなくなったという。 今春頃には食欲がなくてシンドイ、シンドイといいながら、大阪に出てきて若手連に会うと天ぷらそばなど油っこいものを貧り喰って吐気をした起したことなどもあったという。もしその頃、少くとも数力月に、彼の周囲の誰かが、こうした彼の健康上の変調に疑いをかけ、成人病センターとか然るべき病院で検診を受けさせていたとしたら、彼をあのような若さで死なせることにはならなかったのではないかと、悔まれてならないのである。しかし、今ではもう取返しのつかない森の突然の死についての報告は、以上で打切ろう。
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私が森信成を知ったのは一九三五年、京都大学史学科に入学した一学期の時のことで、森は法学部の一年生であった。私は森と同じ一九一四年生れだが、学生運動で一高を中退し一年おくれて大学に入ったのに、彼の大学入学がやはり私と同じになったのは、彼も高知高校で一年留年していたからである。
誰が森を私に紹介したのかあまり正確な記憶はない。森の高知での友人には、 一九三四年の京大事件の立役者の一人、長尾孫夫がいた。長尾は一見、土佐自由党の壮士風の男で、京大事件のあと停学処分をうけていた。その後輩の村上尚治(戦死)は同学年の哲学科生、一年上級の史学科には藤谷俊雄もいた。同年文学部に入ってきた者には、戦後に作家として大きな仕事をした野間宏が仏文科に、私と同じ史学科には奈良本辰也がいて、森信成とは私より少し前から知り合っていたようだ。私は入学後比較的早くからこれらの人物と接触するようになっていたので、彼らのうちの誰かが、おそらく村上か奈良本が森を私に引き合わせたのだと思う。 森は私を知るとじきに、私をつき合い易いとみたか、頼りになると見込んだのか、私と同じアパートの近くの部屋に密柑箱一ばい位の書物といっしょに引越してきた。 翌年私が別の所に引越すときもついてきて、森と私は、大学時代のほとんどをいっしょに生活することになった。私が階下、森が2階に居を構えた当時われわれが「せんたくや」と呼んでいた—白い、比較的小ざっばりした感じの、—-北白川の小アパートは、自然文学部の左翼学生の溜り場のようになった。森はこのグループの空気がひどく気に入ったようで、三十六年春にはさっさと文学部に転部し、哲学科に籍を移したのである。こうして哲学者森信成が生まれることになったのだが、彼はおよそ法律でメシがくえるような人間ではなかった。
三十五年入学者のなかには、高校時代に左翼運動歴をもつ連中が相当数いた。京大事件直後とはいえ、当時の京大当局はまだ思想的理由で入学をチエックするほど反動化していななかった。資格さえあれば無試験入学できた文学部は特に自由であった。広島高校の柔道部主将でありながら学生運動で処分をうけた永島孝雄も哲学科にいて、前記村上が森や私を彼に紹介し、こうして三十五年秋頃までにはマルクス主義学生の新しいセンターが文学部内にでき上っていた。一方法・経学部には前記長尾のほか、同じく京大事件当時の活動家で停学中であった野田千之(戦死)、真壁、佐々木時雄らのグループがあり、私たちは彼らを 「老人組」と呼んでいた。そしてこの両グループが合流して三五年~三六年にかけて京大事件の敗北後の学生運動を再高揚させることになったのである。
だが、京大事件の「老人組」と新入りのわれわれ文学部グループのあいだには、両者が接触するとじきに、はっきりとした意見の対立が生じた。 この論争は、その後の関西の学生運動とひいては人民戦線運動の発展上に大きな意義をもっていると思うので、要点だけでも紹介しておこう。意見の相違は学友会問題に端を発した。長尾を先頭とする「老人組」が、学友会は全学生から会費をとりながら事実上大学当局と運動部とに私物化されているという理由で会費納入をボイコットし、学友会の廃止を主張していたに対し、われわれはこの全員加盟制の学友会の民主化 教室別・高校別・代表者会議を母胎とする代議員会の直接選挙制の実施 という提案を対置した。論争は一時はげしく行なわれたが、「老人組」の主張はペシミスティックなもので運動の展望をもちえなかったために結局われわれの出した新提案に同意せざるをえなくなった。同時に教室に根を下ろした研究会組織と文化サークルの拡大に注力する方針がきまった。この論争が一時はげしく行なわれたにもかかわらずケンカ別れに終らず、それをつうじてかえって学生たちの結束がつよまり足並及を揃えることになった点は、たえず理論闘争で運動を四分五裂させている今日の学生運動にとって他山の石としてもらいたいものだ。
新方針への意志統一ができたおかげで、三五年末から学友会代議員の選挙運動が全学的にもり上ることになり、三六年春に実施された選挙でわれわれグ改革派Iは圧倒的勝利をおさめ、法の佐々木時雄、経の増山太助、その他多くの改革派代議員とならんで、森信成も哲学科学生に推されて代議員会の一員に当選した。この選挙とその後の代議員フラクション活動の貴重な体験は、おそらく森信成の”政治生活”のスタートであったといえるとともに、その後の彼の政治的思想的信条—-大衆運動におけるセクト主義への敏感な反撥、正しい理論の上に立つ統一政策の熱烈な擁護、保守派と反動派を弧立させ多数者を獲得する現実的戦術—-の基礎を学びとらせたものであったといえよう。
改革派が多数を占めた代議員会は学友会の民主的管理に成功し、文化部・サークル予算を大巾に増額させ、京大新聞を改革し、三〇をこえる各学部学生の自主的研究会に補助を獲得するなど画期的な成果をあげて、学友会への学生大衆の関心を高めた。 そのような活動のおかげで翌三七年の改選でも再び改革派が大勝するとととなり、同年七月日中戦争開始後の反動攻勢下においても京大内の民主的体制と自治の担い手として動いていた。それだけでなく、学内で改革派を勝たせる力をもっていた当時の京大の学生組織は、三六年頃世界的に高揚してきた反ファッショ人民戦線運動の関西地方での展開の一翼を担うこととなり、進歩的学生の全国誌「学生評論」を創刊するほどの進出を遂げた。
運動のこのような拡大と発展は、われわれがその中にしっかりした思想的中核をつくりあげる必要を促すことになり、二つの非公然の研究会が生まれた。 一つは当時資本論の新訳の仕事をすすめていた長谷部文雄氏を中心とする 「資本論研究会」であり、そこには経済、歴史のマルクス主義学生が集まって、資本論を勉強しつつ日本資本主義の政治経済の研究に熱中した。もうーつは、右の研究会のO・Bでもあった梯明秀氏を中心に、同氏の宅でもたれた「哲学研究会」で、森信成は永島孝雄、村上尚治らとともにこの研究会に熱心に参加し、ヘーゲル弁証法の究明と西田哲学の検討、ポルケナウ 「近代世界観成立史」(横川・新島訳・叢文閣)などの研究討論を、ほとんど二年間にわたってつづけた。 森信成は戦後、この研究会での師であった梯明秀氏の論争者として登場したが、彼の唯物論者としての素養が形成されたのはこの研究会においてであったことは明記しておく必要があると思う。私も時にこの研究会に加わることがあったが、当時中学教師をしておられた梯氏夫妻の森や村上、永島にたいする厚い情誼が、真理探求者にのみある特別な信頼感にあふれたものであったととを、昨日のことのように記憶している。
ここで、前記のように「せんたくや」で私と同居していた森の勉強ぶりについて少し述べておとう。彼の部屋には衣類も蔵書も少なく、押入れはほとんど空っぽであった。 しかし彼が大事にしていつも小さな机のまわりに置いていたのは、当時白揚社その他から刊行されていたマルクス主義の教程本であり、彼はそのほとんどすべてを丹念に読破していた。ミーチン・ラズモフスキー、シロコフ・アイゼンベルグなどの弁証法的唯物論と史的唯物論の教程、それにプレハーノフとデボーリンとブハーリンの訳書、ラピドス・オストロビチャノフとバルガ、レオンチェフのマルクス主義経済学教程など、ほとんど隅から隅までペンと鉛筆で傍線と書込みが加えられ、重要なところはこれら仮とじ本が二つに折れる程折り曲げられていて、何か議論をするとその個所がパッと出てくるというような具合になっていた。 この癖は、彼の生涯を通じて変らなかった。
一九三〇年代にかなり大量に出廻っていたこれら教程本の特徴は、マルクス主義哲学や経済学の解説が、極めて戦闘的な思想闘争の形で、すなわち、哲学ではデボーリン派との、経済学ではトロッキー派・ブハーリン派その他との鋭い理論闘争という形で展開されていたことであり、こうした論点に精通することによって森は、理論戦線における党派性確立の重要性を学びとっていったのだと思われる。 こうした教程本を次々と征服しわがものとすることとならんで、当時森の思想生活を深くとらえていたのはチェルヌイシェフスキー、ドブロリユーボフ、ベリンスキーなどのロシア社会思想家の著作と、『史的一元論』などのプレハーノフへの傾倒であった。後年の森の著書『史的唯物論の根本問題』におけるプレハーノフノフの見事な消化は、すでにこの時期において用意されていたといってよがろう。私も中学時代以来、ロシア文学とロシア社会思想書を貧り読んできた経歴の持主で、「学生評論」にベリンスキー論やポクロフスキー史学論を書いたことがあるが、森を私に結びつけたものが、この思想分野への共通の関心でもあったということは事実である。凍てつくような洛北の夜、夜暗きそばをくいながら夜を徹しでロシアの文学と社会について森と語りあかした頃のことを、私は忘れられない。
高校を中退した私は、ドイツ語の代りにロシア語を学ぶようになり、学生時代森にもロシア語を勉強するようにすすめたことがあるが、彼は私のこの勧告だけは受けつけなかった。「翻訳家がなんぼでもいる日本で、なんで翻訳や原書よみに時間潰しせんならん」というのが彼の答えであり、さらに、外国の原書の翻案みたいな論文をかいて学者ぶっている教授連を、彼は頭から軽蔑していた。三六年の末頃であったか前記の哲学研究会で、西田幾多郎教授がアドラッキー版の 『資本論』を読攻はじめたということを誰かが高く評価して報告すると、そめ頃がら西田哲学を東洋的観念論ときめつけて西田哲学から何か前向きなものをひき出そうとしていた仲間とはげしく論争していた森は、「アホかいなーなんではじめて資本論読む者がドイツ語で読まんならん」とうそぶいたものである。こんなことが関係したのか、指導教官の田辺元と西田哲学を真向うから批判した森の卒業論文は及第点をもらえず彼は京大哲学科を二年も留年する破目になってしまった。(森は後に大阪市大文学部教授になってからは嫌いなドイツ語の勉強をやり直すようになった。 それは必要なことであったのだろうが、彼の著書に所々ドイツ語の引用が出てきているのを見ると、私は、彼が辞引をひきなが大真面目に横文字を挿入している姿を想像して、ふき出したくなる。)森の持前は、衒学者流の世迷い言をうけつけない、よい意味での大阪町人の子として、思想的正しさ以外のあらゆる権威を受けつけない、その思想の科学性と独創性にあったのだ。
もう一度当時の情勢に戻ろう。森をふくめたわれわれの学生グループの中では、 満洲事変以後の、そして日中戦争開始後においても、ファシズムと反動の拾頭に対するペシミスティックな態度は、全くなかった。反対に、スペイン、フランス、メキシコなどで嵐のように発展した人民戦線運動の高揚のなかで、日本でも三六年二月の総選挙での社会大衆党・無産諸派の進出、つづいて三七年四月総選挙での社大党三十七名の当選、労働組合運動での全評、白本無産等を中心とする労働戦線統一への動きなどに大きくうねりはじめた国民大衆の反ファッショ的潮流に依拠しつつ、労学提携をもってこの潮流の先頭に立とうとするアクチブな意慾に燃えていた。当時の状況を 「暗い谷間」だとは、われわれのなかの誰れも考えてはいなかった。
三七年冬のことだったと思うが哲学科のリベラリスト教授天野貞祐氏の 「道理の感覚」 が反軍的だということで京大配属将校が教授の進退を問題にしているという記事が地方新聞にかきたてられたことが起った。 この事件に大学に対する思想弾圧の先ぶれを感じた永島、村上、森信成ら哲学科の学生は、その報道のあった翌日すぐ京大北門に集まって配属将校室におしかけ、報道の真偽を問いただした。あわてだ配属将校が 「そんな発言をした覚えはない」と答えると、その一問一答をすぐビラにして全学に流し、右翼の干渉は失敗した。(この天野氏は戦後第三次吉田内閣の文部大臣となり反動的ブルジョア制度の擁護者となったが、それは戦前天皇制下に天野氏らの抵抗線であったブルジョア民主主義が戦後は体制として実現されてしまったからである。)
われわれの反ファッショ運動の大衆的進展のピークは、 一九三七年五月ーニハ日京都朝日会館で大成功裡に行なわれた京大事件三周年記念の 「京都学生祭」 であった。 このカンパニアは半年以上も前から準備され、全関西の大学から動員され た。中心は末川博博士の反ファッショ講演であり、教授が林(銑十郎)反動内閣の打倒を呼びかけてこの講演を終わった時、会場を埋めつくした学生たちは総立ちとなり、口々にファッショ打倒「人民戦線万才」を叫んで帽子やカバンなど手に持っていたものは何でも投げ上げて熱狂を示した。入学以来角帽など持っていなかった森信成も興奮して両手をあげて絶叫し、解散後はわれわれと肩をくんで四条河原町まで流れデモをやった。この日はだれも警察につかまった者はなかった。
その一月余り後に近衛内閣が成立し、日中戦争が開始されたのであるが、戦争の拡大は国内的には反ファッショ的国民運動の高揚にたいする帝国主義支配層の反動的制圧を意図したものであった。戦時体制への移行を口実に大きな弾圧が開始され、その目標は労農派や学者グループなど合法左翼の上にも及んできた。この情勢の下で、その年の秋から従来の人民戦線形態の運動は合法主義、日和見主義であり、非合法党の再建こそがすべてであるとする春日庄次郎に氏らの「共産主義者団」 の働きかけが京大内にも入ってきて、われわれのあいだにはじめて深刻な意見の分岐が生ずるようになった。われわれはそれまでにもすでに 「京大ケルン」と呼ぶ非公然指導組織をつくってその下で最大限に合法的舞台を利用する方針をとっていたのだが、新情勢下においてこのような組織形態はいっそう重要になると考えていた。 そして過去の苦い経験からして、よく知らない非合法組織と不用意に直結する場合には、せっかくこれまできずきあげてきた組織勢力を一挙に過早な弾圧にさらし、反ファッショ運動の全体を弱める結果を招くことをおそれた。しかしわれわれは真向から党の再建を急務であると主張する 「団」 の主張自体には反対できなかった。われわれは十分な警戒心をもって 「団」と慎重に連絡をとることとした。
三八年初め頃から「団」 の非合法機関紙「民衆の声」—-それは厚いザラ紙にドギツイ字体でガリ版刷りされていた—-がかなり大量にわれわれのととろに送りこまれてくるようになり、それを恐れず、大胆に、多数の学生のなかに配布するようにと要請された。だがわれわれはその大部分を安全な場所に保管し少数部数を限られたメンバーのあいだで回覧するという方法をとった。私はその一部を森信成に渡した。彼は平気でそれをうけとり、本の間にはさんでもちまわり、すぐ他の友人にひろめて歩こうとした。 それ以前の非合法活動を知らなかった彼は、それを渡されたこと自体に大いに感激している様子であった。私は彼が訝るのをおして、その紙を彼から回収し、必要な忠告をあたえておいたのを憶えている。
われわれが警戒していたことは直き起った。「団」とその機関紙は三〇年代初め頃と同様に、ほんの幾力月活動しただけで弾圧され、春日氏ら団指導者のほとんどが逮捕されてしまった。だが不思議なことに京大の組織は被害をうけず、それからまだニ年間も以前のような活動を続けることができた。たんなる機関の紹介や街頭連絡などで知りあったのではなく、大衆活動と研究会活動をつうじて仲間同志を人間的に知りつくしていた組織が、もし必要な注意を欠かないならば過早な弾圧をさけて経験の蓄積と運動の継承が可能でであるということを、おそらく森もこの経験から学んでいてくれたにちがいないと思う。
しかしその後、戦争と反動の狂気がふきすさぶ中で、われわれの組織への弾圧そのものがさけられなかったのは当然ある。だがそれはおくれて、当局が 「団」関係をしつこく追及してきた結果、太平洋戦争開始後の一九四二年秋から一九四三年初めにかけて京都の学生の大量検挙(延べ百人以上の規模と聞いている) となった。 森信成もこの時に検挙された。私は召集されて戦地に行っていたので、戦後に聞いたことだが、当時中学教師をしていた彼の下宿を特高がガサに行くと、机のひき出しに鼻をかんだチリ紙ばかりしか入っていなかったといって刑事がプリプリしていたという。彼は留置場に入れられても平気なもので、取調べに対してもトンチンカンなことばかりいって少しも事実を語らず、てこずった特高は、ついに彼を 「気狂い」扱いにして執行猶予で釈放してしまった、と聞いている。同じ時検挙された永島や布施(杜夫)らはひどい追及をうけてついに獄死したのだが、森は拷問もおそらく受けなかったようである。 最近の大学紛争の時、全共闘の封鎖学生に二週間も監禁(六九年六月)されながら、ほとんど殴られもせず、平気で封鎖学生を誘ってコーヒーを飲みにいっていたことなどを思いあわすと、彼には不思議な「徳」 があったといえよう。彼の葬儀の数日後、京都の家に当時彼を監禁した全共闘学生の三名が香奠をもって訪れ、その一人は森の遺影の前で泣いたという。
戦後に彼と再会したのは、終戦の年の十月政治犯釈放で郷里に帰る途中、尼崎の骨炭工場を 「経営」 していた彼を訪ねた時であった。彼の兄弟の所有になるその工場は仕事がなくなりつぶれかけていたが、彼はそれでもメシがくえるのだから不思議なもんやと得意気であった。エンゲルスとはちがって彼はおよそ工場経営などできる人ではなかった。戦時中の中学教師は検挙でやめ、その後大阪商工会議所勤務などしていたが、胃かいようで苦しみ、たまらなくなって結婚した、などの話をきいた。
平和の回復はわれわれを再び昔とかわらぬ交友関係に結びつけた。しかしそれでも始めの十年間は働く所を異にしたので、時々しか会えなかった。 それでも私の紹介で神戸の労働学校で哲学入門の講義をするようになり労働運動との結合という宿願をかなえてはりきっていた。 しかしその講座を主宰していた堀川一知君の話では、森の講義は労働者に難解すぎるという評判だったらしく、彼もそれをよく知っていて、理論をゆがめたり俗流化したりすることなく、どのようにしてそれを労働者にわかり易く講義できるかに心をくだいていたようである。同時に彼は、大阪の民科哲学部会のリーダーとして活動し、 一九四九年に市大文学部の教職に就職後は、日本唯物論研究会の再建とそこでの理論の党派性確立のための闘いを、精力的に、うむことなくつづけた。それらのことについては、山本晴義氏ら他の筆者が詳しく述べておられるので省略したい。
森信成の哲学理論の党派性は、いわゆる一九五〇年問題にかかわるイデオロギー闘争のなかできたえられ、それをつうじてもっとも鮮明な形で打出されてきたといえるであろう。日本の変革路線をめぐる一九五〇年問題とその再版としての六一年春日庄次郎氏(前記「共産主義者団」の指導者)の離党とそれにつづく全運動の混乱・とめどない分裂は、一定の思想的背景をもちつつも主としては組織問題として争われてきた。森は、徹底した思想闘争をつうじての統一の展望なしに展開される分派闘争に一貫して反対し、これらの分派闘争にあれこれの影響をあたえている右と左の修正主義との仮借ない闘争を理論戦線上で展開することを自己の使命と考えていた。一方におけるプラグマチズムのあらゆるあらわれ=思想上の平和共存=戦後資本主義の成長下にはびこりつづけた右の修正主義=ブルジョア思想への降伏に対する執拗な闘争、他方における右の裏返しとしての主意主義・主観主義・トロッキズムと毛主義への批判—-彼はこの二つの戦線での思想闘争が運動に真の統一をもたらすために不可欠であることを一日も忘れず、彼の全智力どエネルギーを投入してきた。従って彼の全論文は論争論文であった。予想外に早く死んだ彼はとくべつの 「体系化」 された著作を残せなかったのは残念なことだが、彼の論争論文には、そのすべてに貫徹する 「体系」 が前提されていたことを忘れてはならない。それは彼がフォイェルバッハやプレハーノフその他マルクス主義の古典家たちから正しく受けついだ、徹底した唯物論の体系であり、必然の科学的洞察の上にひとびとの意識的積極的な努力を要請するマルクス主義者の世界観の現代における擁護と貰徹であった。 彼は、この意味で、プロレタリアートの党派的で、戦闘的な理論家であり、そうした理論家として自己の生命を捧げたプロレタリア解放事業の闘士であった。 われわれは君の遺志をうけつぎ君の事業をさらに前にすすめることを君の霊前に約束する。親しい、そして純潔で無私な、われわれのかけがえのない友であった森信成の霊よ、安らかに眠れー