【追悼】唯物論者・森信成さんの死(山本晴義さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

知識と労働第3号山本春義さん追悼文

  唯物論者・森信成さんの死
                  山本晴義

 一九七一年七月二五日早朝、突然森信成さんは死んだ。それはあのすさまじい精神的営為でわれとわが身を焼きつくしてしまったような死に方であった。戦後、民主主義科学者協会から唯物論研究会にかけて、ほとんど二〇年以上思想的にも政治的にも、終始親しい先輩であり、知己であったわたしには森さんの五七歳の死はたとえようもなく残酷である。しかしこの間、ただくる日もくる日も仮借のない戦闘性と強靭な思弁力で唯物論哲学の確立と普及、思想闘争、そのための組織(唯物論研究会)の強化に没入した、あのはげしい生涯は、わたしに詠嘆的な故人の感傷にひたることを許さないのである。ここでまずわたしは思想家森さんの生涯を語る言葉として、なんの購曙もなく次のマルクスの文章をあげることが出来る。
 
「科学への入ロには、地獄への入ロと同じように、つぎの要求がかかげられねばならぬ。
ここにいっさいの疑倶をすてなければならぬ、いっさいの怯儒がここに死ななければならぬ。ダンテ 『神曲』」(『経済学批判」序言)


 わたしが森さんを知ったのは一九四七年大阪民科哲学部会がYMCA会館で開かれたときであったと記憶している。当時民科大阪支部は内田穣吉さんが幹事長で、終戦後の大衆運動の噴出を反映して朝日会館ビル七階に事務局をもつ大組織であり、わたしは常任をしていた。哲学部会も常時三〇人は下らないという盛況で、当時もっとも中心的なテーマは、戦後思想上における最初の論争で、その後五〇年ごろまで論壇を二分し、大阪民科自体の内部でも完全に分裂していた、いわゆる「主体的唯物論論争」であった。この論争はその過程で部会の中に分会が出来、そこで一方は梅本克己氏、三浦つとむ氏や田中吉六氏ら「主体的唯物論者」の論文や本をむさぼり読み、他方はまた松村一人氏や甘粕石介氏ら「正統マルクス主義者」 のものをむさぼり読ふ、あらかじめ意志統一してのりこんでくるという程にまで熱気をはらんだものになった。これは文字どおり敗戦によって思想的支柱を失なった若い労働者や学生がマルクス主義のなかにいかに真剣に自分達の生活や道徳の実践的原理を求めているかを証明するものであった。結局この論争は後に森さんが指摘されたように 「正統マルクス主義者」自身が唯物論の原則を貫徹することが出来ず、いわゆる「社会革命」に対して「人間革命」を、対象的認識.科学的理論に対して全人間主体の真実を二元論的に対置する、それこそ正真正銘の実証主義に逸脱してしまったかぎり、部会をかさねるごとに反対に主体的唯物論をひきたたせるというふじめな結果になり、最後は、当時大衆のなかに存在した絶対の権威に乗っかって、主体性や人間を問題にすること自身、実存主義、観念論だときめつけたり、「小ブル修正主義」だという政治主義的レッテルを張りつけるだけで強引に終らせてしまった。そのかぎり六〇年代以後現在にかけて再び主体的唯物論の名のもとにアナーキズムが流行じ、他方森さんが最後の論稿「日共代々木派哲学批判」(『知識と労働』第ニ号) で徹底的に批判しているように、「正統マルクス主義」も現在相変らず実証主義を説き、なんのことはないこれら「二つの〇〇〇が互いに補い合い」、「引き立て」合っているのも、けだし当然のととなのである。わたしが覚えているのは、この民科での論争過程でまだ積極的な唯物論的解答を出すというほどまとまった形ではなかったが意志決定論の唯物論的原則を絶対ゆずらなかったのは森さんと北川宗蔵さんだけであったということと、それが 「正統マルクス主義者」も実証主義にずりおちてゆくという雰囲気の中で完全に孤立し、無視されてしまったということであった。それにこの間恐らく晩年の森さんを知る人にはおよそ想像できないほど部会における理論的発言が寡黙であったということである。もちろん、これは誰しも知っているように森さんが遠慮したとか、尻尾をまいたと言うことでは毛頭なく、また例の日常生活における八方破れの、すっとん狂な行動や、かけあい万才的会話は終生かわらなかったが、要するにこと理論的な問題に関するかぎり自分自身で確信ある解決がつくまで公的な場所では、徹底的に慎重であり、きびしかったのだ。へーゲル 『小論理学』 やフォイエルバッハの本をぼろぼろになってしまうまで読み、書きこみしながら、苦しみ苦しみぬいたあげく、五〇年初頭、論文「最近における唯物論の実存主義的修正について」(『マルクス主義と自由』合同出版、後篇第一章、第ニ章)が民科の雑誌『理論』に発表された。苦闘そのものがそのまま文章に現われているあの襖形文字のような原稿を見せてもらったが、当時のわたしにはその意義を理解することが出来なかった。 だがこの論文こそ主体的唯物論=実存主義的修正主義=「原始マルクス主義」に対する戦後はじめての本格的な批判であったし、のち実践と理論、党派性と科学性、自由と必然等々について尖鋭に展開されていった、唯物論的人間観の原理がはじめて積極的に打出された画期的なものであった。しかし戦前、戦後をつうじて日本の唯物論が果し得ず、たえず問いただされ、人民大衆からもとめられている 「空白」 に唯物論的解答をあたえようとする森さんの努力は、現在においても一部の人々をのぞいて理解されず、上の先駆的な論文も無視されたまま、朝鮮戦争、コミンフォルム批判、日本共産党の分裂という社会的激動に流されていった。これは戦後日本唯物論陣営の最初の敗北であり、しかもそれは決定的な意味をもっていたのだ。


 五〇年の朝鮮戦争と十一月末までに官民あわせて一万七〇一名に達するレッド・パージは当然大阪民科にも深刻な打撃をあたえ、事務局も大鉄局うらのうすぎたない通称「民科会館」 にうつらざるを得なくなった。ことに周知の「コミンフォルム批判」 にともなう日本共産党全党をあげてのすさまじい内争は、大衆団体ひきまわし主義や「理屈を言うな、要は実践だ」式の、理論論争ぬきの政策論争ぬきの倫理主義ー実証主義ー権威主義が圧倒していた当時、たちまち民科の運動を恐怖的な官僚体制のなかにひきずりこんだ。哲学部会だっていつも府委員会直属のなにがしというのが、すみで一言も言わずにメモをとり、すこしでも中央に批判的な発言でもしようものなら「ニ心者」だ 「裏切り者」だ 「おかしい」という風評がいつのまにかたてられ、あげくのはてはスパイだと抹殺されるという調子であった。 われわれにとって不幸であったのは、あたかもこの頃『整風文献』や毛沢東の『実践論』 『矛盾論』 がわが国に紹介されてたちまち民主主義陣営を風魔し、当然この段階、哲学部会の中心的なテーマになったということである。なぜならのち中ノ論争のなかで森さんがはじめて公然と批判した(『毛沢東「矛盾論」「実践
論」批判』刀江書院) ようにこれこそ当時の精神主義や経験主義、それに 「五一年テーゼ」 が「劉少奇テーゼ」 にしたがってわが国の戦略的課題を中国と同様後進的な「反帝反封建」と規定し、わが国民主主義勢力をとりかえしのつかないブルジョァ民族主義や武装蜂起・極左冒険主義にひきずりこんでしまうのに、まさに国際的な理論的権威を与えるものであったからである。息がつまるような状況のなかで部会の出席者も激減し、討論らしい討論もできなくなり、森さんも一度戦略問題にふれた激越な論争をやって席をけって帰ってしまったことをおぼえているが、部会では全くといってよいほど発言しなかった。主体的唯物論論争で森さんが到達した理論的水準からすれば『実践論』 『矛盾論』の欠陥はいたるところ眼についたにちがいなかろうし、批判することも容易であったろうが、「ともあれ、理論外の理由からくる事柄の困難さが毛理論の批判的検討を意識的、無意識的に回避させてきたことは否定できない事実である」(同上、 一〇四頁)。こうして大阪民科は理論的にも組織的にも実質上破産し、大衆から浮きあがってしまった。
 一九五五年から五六年にかけて、丁度五四年の小由切秀雄さんの有名な論文「人間の信頼について 立場を超えた協力のために」を皮きりに「思想上の平和共存論」がもりあがっていたころ、わたしが雑誌や学内誌にプラグマティズムを現在の最も代表的な帝国主義のイデオロギーだと論じ、またマルクス主義との折衷を考える 「思想の科学』研究会の動きはプラグマティズム的修正主義だとして、その理論矛盾をついたことは、森さんの拍手をうけた。森さんとの個人的接触ははじめて知り合って以来ずっと続いていたが、このころからあけすけな政治上、理論上の議論が昼となく夜となく何日もつづくというようなことが多くなった。それは唯物論研究会をつくってゆく過程でもちろん頻繁になり森さんの強引さやわたしのねばりにお互いに辞易しながら、しかしわたしにとっては、それまでわたしがひきずっていた実証主義的傾向や戦略的視点の動揺が次第に克服されていった過程であり、この間森さんから教えられたものにははかり知れないものがあった。
 

 森さんの理論活動、組織活動が満を持していたように思想界の前面におどり出しはじめたのは丁度「六全協」を境にしてであった。その頃民科は中央の方針で全国的に解散してしまったが、大阪支部の哲学部会だけは、この不当さに執念のように抵抗した小松摂郎さんの貴重な努力で、メンバーも一変し、むしろ京都民科の人々も参加して進歩的な哲学者の統一戦線の場として復活していた。しばらく近よらなくなっていた森さんもわたしもふたたび精勤に出席するようになったが、またこの頃から別に唯物論者の研究会をもつようになってていた。大阪唯物論研究会を正式に結成したのは五七年十一月であったが、 そのものずばりの白熱した討論が行なわれる
につれ、今や森さんは子供のように得意であり、また水を得た魚のように精力的であった。その成果は戦後の日本共産党の戦略路線の誤り(解放軍規定ー反帝・反封建規定)から、例えば石母田正氏の 『歴史と民族の発見』(東大出版、五二年)に代表される、それこそ唯物論のABCを否定してしまうブルジョア民族主義的偏向が蔓延していることに対する痛烈な批判(『史的唯物論の根本問題』上掲、第二章、第三節参照) となって現われたし、ことに 『前衛』(五八年七月、八月) に発表された論文(同上、序論および第一章参照)は、かかる戦略規定の誤謬が、かんじんの敵、日本独占資本のイデオロギー (実存主義やプラグマティズム) との思想闘争をおこたり、逆にありもしない半封建的な天皇制イデオロギーと闘争するための同盟軍として、いわゆる「思想上の平和共存」を一貫して行なってきたところに戦後わが国唯物論陣営の敗退の原因があったこと、民科は一方そのような組織として機能したとともに、他方唯物論者が自己の課題をそこに持ちこもうとしたことによってセクト主義、政治主義的偏向をひきおこし食いつぶしてしまったことを指摘したのは痛切な体験にもとづく戦後唯物論の総括であった。そしてそこで提起されている断乎たる唯物論の原則の貰徹と発展、わが国独占のイデオロギーと氾濫する修正主義との思想闘争、そのための民科とは別個の唯物論研究会の結成の呼びかけは、その後の唯物論陣営の戦略地図、課題を明確に示したものであった。もっとも当時は五六年の 「スターリン批判」やハンガリー事件があり、わが国の思想界はあげてスターリン批判の名のもとにマルクス主義そのものを攻撃し、従来マルクス主義への接近をはかってきた良心的な実証主義者、否マルクス主義者自身の中でも、スターリン主義=教条主義=一枚岩主義という公式のもとに唯物論から多元論あるいはアナーキズムへ「発展」・離反してゆく潮流がうず巻いている時であり、われわれの課題は重大な決意を必要とした。第一、五七年から五八年の間は日本共産党の内部において、おそらぐ戦後はじめて公然たる民主的な論争が保障された瞬間であったが、それでもこの森さんの論文を載せるのには森さんもわたしも、しまいにこちらの神経がまいるほど何回も要求し、抗議したすえにやっと「研究と討論」欄というところにのるという状態であり、しかもこの民主的な思想論争も文化部長蔵原惟人氏の「思想闘争の課題を観念論か唯物論かで評価するのは間違いだ」というとてつもない総括論文(同上、結語にかえて参照)で打切られるという始末であったのだ。しかしわれわれは意気軒昂であり、あの筆不精の森さんは連日のように東京の大井正さんや下関の三井田一男さんや札幌の岩崎允胤さんらと文通、相互連絡をつづけ、かくして全国各地のもりあがりのなかで五九年六月日本唯物論研究会がついに発足したのだった。この時点から森さんは名実ともに唯物論陣営の第一線にとびだした。
 すでにあたえられた枚数が超過した今、その後の日本唯研における、また大阪唯研における森さんの活動を追想する余裕はない。 しかしわたしがここでとりわけ民科から唯研結成までの過程を中心にのべたのは、 一つは民科時代の森さんを知る人が現在案外少ないという事情とともに、まさにここにこそ森さんが、なぜ生涯唯物論の原則の擁護と発展をかたくななまで主張しつづけたか、なぜ唯物論研究会の設立と強化に心血をそそいだのか、なぜ日本唯研結成後たとえば『唯物論研究』 の 「創刊のことば」をめぐる激しい論争(『毛沢東「矛盾論」「実践論」批判』に付録として所収)にも示されているように、また全国委員会の度ごとに、主観的な「党派性の承認」に執勘に抵抗し、言論と表現の自由の保証を人類の至上の権利として要求しつづけたかの理由があきらかになると思ったからである。
 しかしこの『唯物論研究』も六五年理論的次元での対立を理論以外の力で、端的に言えば編集委員関戸嘉光さんが報告されているように、その 「編集方針・編集内容が日共にとって好ましくない」 (『唯物論研究」ニ三号参照)という理由で実質上廃刊させられてしまった。日本唯研も現在危機的情勢のなかにあり、つぶされようとしている。くわえて前述したようにわが国民主主義勢力の現状は 「アナーキズムは日和見主義(民族主義、議会主義)的罪悪に対する一種の罰だ」、というレーニンの規定どおりの形をとっており、両者の思想的支柱になっているのは実証主義である。という情勢の中での森さんの死はわれわれにとってたしかにとりかえしのつかないものである。だが森さんはわれわれにこれらの偏向や修正主義と闘うためのテーゼをその生涯をつうじての苦闘のなかで残した。また森さんは大阪唯研創設以来まったく私生活を放棄して、大阪唯研の中に若い学生や労働者、研究者をそだてあげた。森さんの生命は今これらの諸君たちの中に確実に、びくともせずに脈打っている。その生命はたとえ周囲がどのように動とうと決して絶えることはないであろうし、また絶やしてはならないのである。(一九七一・九・四)
 
 

カテゴリー: 思想, 歴史, 社会運動, 運動史, 雑感 パーマリンク