【追悼】助講会のころ (横田三郎さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  助講会のころ
               横田 三郎
               
               
 森さんを私が初めて識ったのは、今からもう二〇年近くも前の昭和ニ七年のことである。当時市立大学は杉本学舎が米軍に接収されていて、私たちは八幡筋の南綿屋小学校に仮偶していた。 三月初めの入学試験に私は試験監督をやらされていたが、交替で煙草を喫みに廊下へ出たところ、隣りの教室からも煙草を喫みに出て来た人物があった。それは、およそ大学の教師というイメージには陰ど遠い、ジャンパーに草履といった姿であった。 それが森さんだったが、その時は互いに名前を知り、入試監督という仕事をボヤイただけに終った。その後約一年して学舎が旧靭小学校と明治小学校に移ってから、文学部の助講会の結成、歴史学教室事件、学部民主化闘争、助講会の教授会参加、教授会の各種内規と審議原則の民主的確立へと続く過程で、私は森さんと急速に親しくなっていった。そして、それら一連の民主化闘争の過程で、文字通り終始先頭に立って指導していたのが森さんであった。
 当時の文学部は、教授と助教授とで教授会が構成されており、教授会がどのような問題に取組んでいようと、助手や講師には、人事で直接関係が生ずる以外には全く無関係だと考えられていた。市大全体が、新制大学として発足後数年にしかならず、おまけに小学校に間借りをしている不便さもあって、研究教育の面でいろいろの苦労を忍ばねばならなかった。しかし、その反面、伝統の欠除と管理の未整備によって、個々の教員や学生にとっては現在よりもずっと自由に感ぜられていた。その上、文学部の教員は旧商大とは無関係であったので、教員間に師弟関係がなく、そのため、子弟関係から生ずる教員間の不合理な義理人情とか悲哀といったものは存在しなかった。従って、私も含めて講師と助手の大半が、教授会という大学自治の基本単位から排除され、自治権を奪われていることに問題を感ずるよりは、寧ろ逆に、教授会出席の義務や、その中での諸委員活動からまぬがれて研究し得る自由を楽んでいたといえる。週に二日か三日研究室で時間を過すだけで充分であった助手、それに、僅かの講義時間と月に一、二回の教室会議に出席するだけが義務であった専任講師とは、隣接の教室以外にはほとんどお互いに知らないといった有様であった。私が森さんを知ったのも、私が助手として市大に勤務し始めてから丸一年目に、それもすでに述べたように全く偶然の機会にそうなっただけなのである。
 このような「実感的」自由の中には、学間と思想の自由を擁護する思想と態勢、自治の意識と民主主義が欠除しており、一度問題が発生すればその「実感的」自由は直ちに破綻することを、森さんは鋭く感じとっていた。 そこで、森さんは助手と講師の一人一人を説得してまわり、その結果、文学部の助手と講師の全員が加盟する文学部助講会が発足した。しかし、当初は、全員が交互に各自の専攻分野の研究成果の発表を行い、それを中心に討議をし、併せて親睦をはかることを目的としたのであって、大学の自治とか民主化闘争の主体として自己規定をしたわけではない。けれども、月に一回程度もたれたとの研究活動によって、それまで互いにバラバラで、無関心であった助手と講師の全員が、一つの集団にまとまる基盤が作られていった。 そして、その組織と活動が後の民主化闘争の母体となるのである。その頃、歴史学教室の中で、二、三人の教員による人事の墾断、助手の人権侵害という事件が発生し、それを契機に助講会は単なる親陸と研究の会から、民主化闘争の強力な組織へと質的な変化をとげたのである。しかし、その変化は、問題の発生によって自然に行われたわけでは決してない。歴史教室内部の特殊な事件に含まれている一般的な問題を明るみに出し、それを助講会全員の研究の自由、権利の自覚に結びつける森さんの強力な説得活動がなければ、その事件は、 一部の同情を得たにしても、恐らく局部的なものとしてウヤムヤに処理されていたであろう。 この事件が発生してからは、森さんは自分の家庭とか個人的な事がらはほとんど全て放棄して、物凄いエネルギーで説得活動に当った。そして、助講会も新たに代表幹事や規約などを決めたが、重要なことは、会の決定が多数決でなく、全員一致を原則としたことである。これは、全ての重要事を説得と納得によって決定すべきだという森さんの強い主張が容れられた結果である。実行不可能にすら思えたこの原則が実際には、会の分裂と会員の無関心、一部の者の請負いといった惨めな状態を未然に防ぎ、全員を積極的に事に当らせるようになった。 それに、困難な状態の中で、依拠すべき外面的権威は何一つなく、思想も信条も異るインテリの集団が主体的、積極的な統一行動を行おうとする限り、徹底した討議を省略した多数決による形式的決定は避けねばならない。けれども、当然のことながら、全員一致の原則を実行するには、次々と必要になる重要な決定に当って、全員の出席と全員の徹底した討議が不可欠である。 そのため、刻々変化する情況に即応して、森さんを先頭に幹事たちは、速達便、電報、電話(当時は電話のある者が非常に少なかった)で全員に召集をかけ、事前に説得の必要があるばあいには、会員の家にまで出かけた。 とうした或る日のタ方、大阪の私の家へ京都から森さんがやって来た。明日の会合以前にどうしてもS講師をもっと説得しておく必要があるので、一緒に彼の家へ行こうという。それでタ食もとらずに二人で出かけた。芦屋で電車を降りた途端に雨が降り出したが、タクシーを拾う余分な金は二人とも持合わせていない。どしゃ降りの雨の中を散々探してS講師の家にたどり着いたのである 。
 このような努力のおかげで、当初一部に見られた無関心、非協力や、途中で何回か起る動揺もほとんど克服され、分裂の危機は一度も経験せず、順調に闘争は成果を挙げていった。そして、その成果によって全員の意識が一層統一され、初めの悲憶感は楽天的な気分に変って来た。 そうなった段階ではもうそれぞれが自発的に個性を発揮しながら統一した目標に向って進んでいくものである。主として教授会交渉に当る者、声明文案を作る者、ガリ版切りやビラ書きをする者、資料や記録を整理、保管する者等々。
 こうして学部の民主化闘争は成功の中に一応の終結を迎え、やがて助手以上全員の教授会参加と教授会内規の民主的な制定へと向うのである。
 この過程で、森さんは実質的に唯一人の、しかも極めて誠実な指導者であった。自分の身は安全な所においておき、主観的な情勢分析に基づく無責任な指導を与えながら、万一成功すれば自分の功に帰し、朱敗の責任は実行者に押しつけるといった、よくあるタイプとは全く異っていた。森さんは成功のたびに子どものようになって皆と喜び、それをもたらした各人の行為を何度も繰返し賞賛していた。失敗した時には卒直に自分の否を認めて皆に謝まったものである。そしてまた、誰もが知っている森さんの人の好い性格も遺憾なく露呈された。原則上の問題では一歩も譲らず、そのため討議の中で相手を怒鳴りつける場面もあったが、逆に非本質的だと思われたことを森さんが無視して皆から吊し上げられ、 「もうわかった。 わかった。もうそんなつまらんととどうでもええやないか」 とやって、再び批判される場面も再三あった。森さんのマルクス主義と唯物論の理論、民主主義と科学の立場というものは、民主化闘争の展開に実際に適用されただけでなく、文学論や社会科学の方法論といった形で助講会のメンバーに披握された。 私自身がフォイエルバッハやプレハーノフ、それにドブロリユーボフやチュルヌィシェフスキーなどに注目させられたのもそのような過程においてであった。しかし、助講会のメンバーは、森さんのそのような勝れた理論とその指導性を認めると同時に、それを森さんの日常生活との矛盾、森さんの思想の中にある新しいものと古臭いものをはっきり見てとるととができた。現在のわれわれの社会では誰でも持っているそのような矛盾は、しかし、普通には多少ともスマートな「分別」によって公然化するととが防がれている。 そういう「分別」を森さんはほとんど働かさなかった。また、森さんは、「某々は仲々の策謀家だ」とほめたり、「敵を欺くためには味方の一部も欺かねば」などと言いながら、丸きり策謀などはできず、森さんの行動の軌跡は丸見えであった。
さらに、昨日皆の前で罵倒した相手と今日は何のしこりも残さず話ができたのも森さんであり、そのため、かえって相手が驚くのが普通であった。このような行動様式は教員間のみならず学生に対しても全く同じであった。私自身このこ十年近くの間、理論的には常に指導され、九才も年下でありながら、恰も対等の友人のような口をきき、面と向って激しい批判を加えたりできたのも全く森さんのそのような人柄による。このような森さんを失った痛手はむしろ日を経るに従ってじっくり味わわされるであろう。

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