【投稿】重大犯罪を処罰しない福島第一原発事故東電旧経営陣への無罪判決
福井 杉本達也
1 福島第一原発事故で東電旧経営陣3人への無罪判決
9月19日、福島第一原子力発電所事故の責任を巡り、東京電力の旧経営陣3人に東京地裁は、無罪を言い渡した。巨大津波を予見し、有効な対策を打てたのか。判決は検察官役の指定弁護士が予見可能性の根拠とした地震の予測や津波の試算について「信頼性に疑義がある」と判断、それぞれの刑事責任を問うのは難しいと結論づけた(日経:2019.9.20)。
判決では、争点を「被告らに津波襲来の予見可能性があったと認められるか否かだ。結果の重大性を強調するあまり、あらゆる可能性を考慮して必要な措置を義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる」とし、予見可能性についても「原子炉等規制法や審査指針などからすると、原発の自然災害に対する安全性は『どのようなことがあっても放射性物質が外部に放出されることは絶対にない』といった極めて高度なレベルではなく、合理的に予測される災害を想定した安全性の確保が求められていた。」、「自然現象に起因する重大事故の可能性が一応の科学的根拠をもって示された以上、安全性確保を最優先し、事故発生の可能性がゼロないし限りなくゼロに近くなるように、必要な結果回避措置を直ちに講じるということも社会の選択肢として考えられないわけではない。しかし、本件事故発生前までの時点で当時の法令上の規制や国の指針、審査基準は絶対的安全性の確保までを前提にしていなかった。3人は東電の取締役という責任を伴う立場だったが、規制の枠組みを超えて刑事責任を負うことにはならない。」(日経:2019.9.20)とした。
2 放射性物質の外部放出は絶対ないという安全レベルを求められていなかったのか
改正前の省令『発電用原子炉設備に関する技術基準』第5条(耐震性)でも「原子炉施設並びに一次冷却材又は二次冷却材により駆動される 蒸気タービン及びその附属設備は、これらに作用する地震力による損壊により公衆に放射線障害を及ぼさないように施設しなければならない。」と定められている。どこに「『どのようなことがあっても放射性物質が外部に放出されることは絶対にない』といった極めて高度なレベルではなく、合理的に予測される災害を想定した安全性の確保」と書いてあるのか。原発は原爆1000発分以上もの放射性物質を大量内部にため込んでいる。万万が一でも外部に放出されれば終わりである。3.11以前においても「極めて高度なレベル」が要求されてきたのである。どこをどう読めば、放射性物質を漏らしても「合理的に予測される」範囲ならば「安全の確保」されているという解釈が成り立つのか。放射性物質を漏らすような事業者に原発の運転をする資格はない。裁判官は法令を読む力が全くない。3.11までは「絶対に漏らさない」という架空の安全性を前提として原発を建設・運転してきたにすぎない。福島事故では、やはり「絶対安全はない」ということがばれてしまったので、居直りの判決文を書いただけである。事故を全く反省せず、「当時の社会通念」という言葉を持ち出してきており、明らかな後退した判決となっている。
3 津波だけが事故原因だったのか
「福島第一原発は津波が来る前に壊れていた」元東電社員“炉心専門家”である木村俊雄が『文藝春秋』9月号に実名告発を行っている。「メルトダウンのような事故を検証するには『炉心の状態』を示すデータが不可欠となる。」ところが、東電は不都合なデータは一切公開してこなかったとし、特に「炉心内の水の流れを示す『炉心流量』に関するデータが一切公開されていなかった」。「BWRでは、水が原子炉圧力容器内で『自然循環』していれば、電源喪失でポンプが止まっても、炉心の熱を約50%出力まで除去する仕組みになっています」。この「自然循環」がなくなれば、燃料棒が崩れ「ドライアウト」となる。それを情報公開させたところ、「地震の後、わずか1分30秒後に『ドライアウト』が起こっていた可能性が高い」。なぜ「自然循環」が止まったのか。木村の推論では、「圧力容器につながる細い配管である『ジェットポンプ計測配管』の破損が原因である可能性が極めて高い」とし、津波の第一波が到着する前に炉心は危機的状況に陥っていたと結論している。つまり「津波」ではなく「地震動」で燃料破損していた可能性が極めて高いのというのである。東電も国も、まともに事故原因の検証をする気はなく、全ての事故原因を自然現象の「津波」に転嫁しているが、検証の必要がある。木村だけでなく「地震動」が原因ではないかとする専門家は多い。田中三彦は「激しい地震動の揺れによる、原子炉系配管の亀裂」(『科学』2019.3)を指摘している。しかし、「地震動」で壊れたとなると、明確に省令第5条違反にあたる。長期間にわたり地震動対策を行わなかったとすれば、完全なる過失を問われることとなる。これは具合が悪い。見過ごしてきな国の責任も問われる。
4 現行刑法では個人の刑事責任しか問えない
今回の裁判でも「ギョウカ」の壁が厚く立ちはだかった。「ギョウカ」とは「刑法に定められた業務上過失致死傷罪のことだ。危険をともなう業務などで必要な注意を怠り、人を死傷させた場合に適用される」。立証が難しいのは『事故を具体的に予見できた』『未然に防ぐ義務があっ たのに怠った』という一 連の経緯を証明しなければならない」。しかも「処罰の対象は個人に限られる」。判決はこうした刑法の“弱点”を最大限強調して「結果の重大性を強調するあまり、予知に限界のある津波という自然現象について、想定するあらゆる可能性を考慮して措置を講じることを義務づければ、原発の運転は不可能になる」。3人の立場を踏まえても刑事責任を負わせることはできないと門前払いした。これまでも経営者が過失責任を問われたのは、パロマ工業ガス瞬間湯沸かし器事故などごく一部の事件にすぎない。
5 法人の責任も問う両罰規定の導入について
郷原信郎弁護士は「今回の判決から浮かび上がるのは、電力会社や電力供給事業の問題点、ひいては国策のありようだ。 東電としての企業責任や、『原発安全神話』にあぐらをかき続けてきた国策の誤りをいかにしたら刑事罰に問えるのか。判決は、こんな根源的な問いをわれわれに突きつけながら、今回の結論に至ったともみることができる。今回の判決を契機に、個人を超えた組織の刑事責任を問うための制度設計を進めるしかない。企業や組織の刑事責任を問える企業罰・組織罰の導入を真剣に検討する必要がある」(福井:2019.9.20)。と東電という法人への両罰規定(罰金刑など)の導入を求めている。同じく日経社説もJR福知山線脱線事故の事例などを踏まえ、「法人に刑罰を科す制度の導入をことの適否を含め刑罰法令や強制起訴のあり方を見直す時期にきている」と主張している(日経:2091.9.20)。
確かに、事故原因を追究するために、個人の過失ではなく法人の責任を追及するというのは一つの方法ではあるが、これで、原発事故や水俣病のような企業の犯罪を防ぐことはできないと考える。失敗学で有名な政府事故調査委員会委員長の畑村洋太郎も、証言者のヒアリングを「事故責任を追及する目的では使用しない」として事故調査を行ったが、結局、事故原因は不明確なままとなってしまった。悪人しかいないのに、個人の性善説を取ることはできない。失敗学の失敗である。原発関連事業に巣くう経営者は善人ばかりではなく、ほとんどが会社と個人の利益のために他人の生命を危うくすることを顧みない悪人ばかりである。木村も情報公開請求によって東電に不都合なデータをやっと出させたとしている。悪人(個人)の過失責任を徹底的に追及することによって、刑務所に入れることによってしか、その時々の立場での経営判断で住民の生命財産を守るかどうかを真剣に検討する者はいないであろう。裁判としてはいばらの道となるが、検察官役の指定弁護士としては、組織的な犯罪を明らかにするには個人の過失致傷罪を厳しく問うことしかない。